灰色の世界だった。 私の目に映るすべては、彩度を失ったモノクロームの映像に過ぎない。東京、丸の内。ガラス張りの高層ビル群が初夏の気怠い日差しを無機質に反射する光景も、オフィスを行き交う同僚たちの笑顔も、その声も、すべてが色のないノイズとして鼓膜を揺らすだけ。
水瀬莉奈、26歳。大手広告代理店「サイネックス・エージェンシー」営業部所属。 私の仕事は、既存クライアントの広告運用データをまとめ、週次のレポートを作成すること。創造性も、大きな裁量もない。ただ、決められた手順を、決められた時間内に、ミスなくこなすだけの作業。 それでよかった。 目立つことなく、波風を立てず、誰の記憶にも残らない「透明な存在」として生きること。それが、今の私にとっての唯一の安息だった。
二年前、私の心は死んだ。 最終コンペのプレゼンテーションルーム。重く、息苦しい空気。クライアントの失望に満ちた視線。当時の上司の、耳を劈くような怒声。 そして、私の魂に一生消えない烙印を押した、たった一言。
『君の企画には、心がない』
その言葉が、引き金だった。 以来、私は感情を殺した。心を動かせば、期待が生まれる。期待すれば、必ず裏切られる。期待に応えようとすれば、必ず失敗し、誰かを失望させる。ならば最初から、何も感じなければいい。何も望まず、誰にも期待させなければ、傷つくことも、誰かを傷つけることもない。 私は自分に、決して外れない「氷の仮面」を被せた。それは、このオフィスという戦場で生き抜くための、唯一の鎧だった。
だから、日常に変化など求めていなかった。昨日と同じ今日が、明日も続けばいい。そう、思っていた。 あの男が、現れるまでは。
一週間前、創業者一族の御曹司、一条蓮が新社長に就任した。海外の有名ビジネススクールを首席で卒業し、数々の外資系企業を渡り歩いてきた彼は、32歳という若さでこの巨大組織のトップに立った。 そして彼は、就任初日の全社会議で、たった一言だけ告げた。 「結果を出せない者に、この会社にいる価値はない」 その日から、彼は「氷の皇帝」と呼ばれるようになった。社内には静かな緊張が走り、結果を出せない部署の人間が次々と地方や関連会社へ異動させられていった。
もちろん、私には関係ない。私は、結果を出すような仕事はしていない。ただ、存在するだけ。それだけだ。
その日の午後、全社員が大会議室に集められた。蓮の社長就任後、初めての全社会議だった。壇上に立った彼は、彫刻のように整った顔立ちに、人間的な温かみを一切感じさせない冷たい光を宿していた。空気が凍るようなプレッシャーが、会場を支配する。 『脅威レベル3。接近は避けるべき対象』 私の思考が、自動的に危険度を分析する。
蓮は、手元のタブレットを一瞥すると、マイクを通さずに、しかし会場の隅々まで響き渡るような、低く、温度のない声で言った。 「グラン・コスメティクス、新ブランド立ち上げコンペ。この社運を懸けたプロジェクトの責任者を、今ここで発表する」 会場が、息をのむ音で満たされた。誰もが、営業部のエースである佐藤さんの名前が呼ばれるものだと信じて疑っていなかった。私も、もちろんそうだ。 だが、蓮が告げた名前は、その場にいた全員の予想を、根底から覆した。
「――水瀬莉奈。君に、全てを任せる」
時が、止まった。 全ての視線が、私に突き刺さる。驚愕、困惑、嫉妬、そして侮蔑。様々な感情のオーラが、色のない私の世界に、不快な絵の具のようにぶちまけられる。 『……エラー。論理が飛躍している。状況の再分析、不能』 私の隣にいた高木部長が、慌てて立ち上がった。 「しゃ、社長! お待ちください! 水瀬は営業事務で、企画の経験はほとんど…!」 だが、蓮は部長を一瞥すらせず、その凍てつくような視線を、私だけに注いでいた。 「君にしかできない。異論は認めない」 それは、絶対的な王の宣告だった。
その夜、私は終業時間を過ぎても、自席で呆然としていた。デスクに置かれた『グラン・コスメティクス』のファイル。それは、まるで時限爆弾のように、不吉な存在感を放っている。 なぜ、私なんだ。 これは、リストラ候補の私に対する、会社からの最後通告なのかもしれない。 『……どちらにせよ、関係ない』 私は思考を打ち切ろうとした。与えられたタスクを、淡々とこなすだけだ。期待もせず、絶望もせず。ただ、業務として処理すればいい。 そう、自分に言い聞かせた時だった。 内線が、鳴った。ディスプレイに表示された名前は、「社長室」。 心臓が、凍りついた鉄のように、軋む音を立てた気がした。
社長室の重厚なドアを開けると、蓮は巨大な窓の外に広がる東京の夜景を背に、静かに立っていた。 「遅い」 「……申し訳ありません」 感情を殺し、事務的に返す。 彼はゆっくりと振り返ると、私を値踏みするように、頭のてっぺんから爪先まで見下ろした。 「グラン・コスメティクスの件、引き受けたそうだな」 「業務命令ですので」 「そうか」 彼は短く応じると、デスクに置かれていた一つのファイルを、私の前に滑らせた。それは、私が二年前、この世で最も深い絶望を味わった、あの企画書だった。 「なぜ、これを……」 「わざわざ印刷して、用意しておいた」蓮は淡々と告げる。「過去の全企画書は社長室からアクセスできる。その中で、君のものだけを」 彼はこともなげに言うと、私の目の前に立った。逃げ場のない、絶対的な距離。彼から漂う香りが――冷たく、鋭く、けれど不思議と心を乱す香りが、私の思考を麻痺させる。 「水瀬莉奈。君は、あの企画を失敗だと思っているようだが、俺は違う」 「……何が、言いたいのですか」 「コンセプトは完璧だった。だが、表現する術が稚拙すぎた。……そして、君自身が、その企画の価値を信じきれていなかった」 彼の瞳が、私の顔に被せた「氷の仮面」を、まるでレントゲンのように見透かそうとしてくる。やめて。それ以上、私の中に入ってこないで。 「私には、もう企画を作る資格はありません」 「逃げるな」 蓮の声が、私の反発を切り裂いた。 「お前の才能は、あの日で終わったわけじゃない」 彼は一方的にそう告げると、自分のデスクに戻った。「明日の朝9時までに、今回のコンペの方向性をA4一枚でまとめて提出しろ。それが、最初の仕事だ」 それは、拒否権のない、絶対的な命令だった。
翌朝。 始業時間の一時間前に出社した私のパソコンには、すでに蓮からのメールが届いていた。 件名:「グラン・コスメティクスについて」 本文には、たった一行だけが記されていた。
『「凍った心を、もう一度温める」化粧品ブランド。ターゲットは、自分を押し殺して生きている女性たち』
その文章を読んだ瞬間、私は息を呑んだ。 ――これは。 二年前、私が誰にも理解されず、心の奥底に封印した、あの企画の根幹にあった想いそのものだったからだ。 なぜ。 どうして、この人は。 私の、心の叫びを、知っている?
灰色の世界に、一本の赤い亀裂が走った。 死んだはずの心臓の奥深くで、マグマのような熱い何かが、流れ込んでくる。 それは、恐怖なのか、反発なのか。 それとも、ほんのわずかな、期待だったのか。 今の私には、まだ、その感情の名前を知る術はなかった。 ただ、蓮の言葉に心を揺さぶられ、死んだはずの情熱が微かに蘇る戸惑いだけが、そこにあった。 「なぜ、この人は私のことをこんなに知っているのだろう」 その疑問と、抑えきれない期待が、私の凍りついた心を、少しずつ溶かし始めていることにも気づかずに。