ふいに名前を呼ばれ、はっと我に返る。
振り向くと柊先輩の姿が見えた。
にこやかに歩み寄ってくる彼を、思わずまじまじと見つめる。
“昨日”はまるで話すタイミングがなかったのに、今回はあっさりと機会が巡ってきた。
けれど、つい警戒するように身を固くする。
また真白先輩が割り込んでくるかと思ったものの、彼女の姿は見当たらなかった。
ほっと小さく息をつく。
「ねぇ、今日一緒に帰らない?」
ひときわ甘い声色で小さく首を傾ける先輩は、いっそ胸の内を隠そうともしていないように見えた。
甘酸っぱい駆け引きもする気はなさそう。
「あ、でも……」
「一度でいいから俺を選んでよ。……それとも、俺じゃもの足りない? 彼に敵わないかな」
その言葉に驚いて目を見張った。
先輩はただ切なげに微笑んでいる。
「郁実のこと、知ってるんですか?」
「面識はないけど見たことはあるよ、何度も。いつもそばにいるよね。そうじゃないときも、遠目からきみを見てる。きみだけを」
つい瞳が揺れてしまったけれど、彼は儚い笑みを崩さないまま続ける。
「……なんて、ずるいよね。ごめん。ただの負け惜しみ。いまもさ、俺じゃなくて彼のことで動揺したでしょ」
「それは……」
「いや、答えなくていいよ。何も言わないで。やっぱり、さっきのはぜんぶ忘れてくれていいから」
またね、と先輩は名残惜しさを漂わせながらきびすを返す。
何となく気圧されつつも、不思議と思考は澄んでいた。
もしかして、という直感がよぎる。
(これって……“変化”?)
思えば、声をかけられるという出来事自体は同じでも、柊先輩にまつわることは毎回、大小さまざまながらちがっていた。
紅茶とか、タイミングとか、状況とか。
わたしが行動を変えたことに付随するものだと思っていたけれど、たぶんそうじゃない。
だって、そうだとしたらタイミングは変わっても会話の内容は同じになるはずだから。
朝、郁実と同じ会話を繰り返しているみたいに。
(それに……さっき、わたしのこと名前で呼んだ)
途中で変わることはあっても、いつもは“春野さん”って苗字で呼ばれていた。
はじめから名前でなんて初めてのことだ。
「ま、待ってください!」
気づいたら思わず彼の背中を追いかけていた。
振り向いた先輩の表情の中に、どうしても見覚えのある色を探してしまう。
もしかして、と予感が再び渦巻いていた。
もしかして────覚えているんじゃないだろうか。
落ちる砂とともに消え去っていった“今日”の記憶が、多かれ少なかれ残っているんじゃ……?



