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 昇降口で靴を履き替えると、壁際に寄って立つ。

 郁実は今日、日直だ。
 職員室まで学級日誌を提出しにいった彼と途中で別れ、先に来て待っていた。

 ふと顔を上げたとき、思わぬ人と目が合う。

「……あ」

春野(はるの)さん」

 端正(たんせい)な顔に微笑みをたたえた彼は、すぐにわたしに気づいて歩み寄ってきた。
 爽やかで甘い、いいにおいがふわりと漂う。

「偶然だね。いまから帰り?」

「はい。(しゅう)先輩は?」

「俺も」

 いっそう深められた先輩の笑みは、どこか嬉しそうにさえ見える。

 彼、仁科(にしな)柊先輩とは去年出会った。
 同じ委員会で席が近くて、たまたま話したのをきっかけに、それ以外でも顔を合わせればこうして声をかけてくれるようになった。

「よかったら一緒に帰らない? もっと話してみたいって実はずっと思ってたんだ」

「えっと……」

 予想外の積極的な言葉につい言いよどむ。
 郁実との先約を抜きにしても、どうしてわたしにそんなことを言ってくれるのか分からなくて戸惑った。

 柊先輩は容姿だけじゃなく中身も完璧で、わたしにとっては“憧れの先輩”そのものだった。
 好きというわけじゃなくて、どこか遠い存在という意味で。

 優しくて余裕があって、だけど笑顔で壁を作るような雰囲気の人。
 名前を呼んでくれる一瞬だけ、同じ場所に立っていると実感できる。

 曖昧な態度のわたしを見て、先輩は困ったように眉を下げた。

「ごめん、迷惑だったかな。それとも、もしかして誰かを待ってた?」

「いえ、そんな」

 迷惑だなんてとんでもない話だ。
 ただ、何かと思わせぶりな態度に少し気持ちが追いつかないだけで。

「……でも、はい。ごめんなさい。今日は約束があって」

 正直に頷くと、先輩はわずかに目を見張ってから苦く笑った。

「そっか、分かった。残念だけどまた今度ね」

 心苦しさを覚えながら、ぺこりと頭を下げて見送る。

 何となく目で追っていると、彼がひとりの女子生徒に声をかけられたのが見えた。
 背の高いショートヘアの女の子。見覚えはなく、わたしの知り合いではない。