「花菜」
階段を上りきって廊下に出たとき、ちょうど声をかけられた。
教室の方から歩いてくるのは幼なじみの郁実だ。
「あ、郁実。おはよう」
「うん、おはよ」
どうかしたの、と尋ねる前に彼が続ける。
「あのさ、今日一緒に帰ろう」
郁実にしては珍しく控えめな言い方ではなかった。
普段から口数はそれほど多くないけれど、だからこそひとことひとことが優しい響きをしている。
それが、いまばかりはどことなく緊張気味に聞こえた。
「全然いいけど、どうしたの? そんなふうに直接誘ってくれるなんて初めてじゃない?」
放課後にタイミングが合えば一緒に帰ることはあったものの、こうして約束を取りつけたことはいままでになかった。
「ううん、別に……。ただ、ちょっと伝えたいことがあって」
「わたしに?」
「そう、花菜に」
図らずも心臓が音を立てる。
放課後に伝えたいことがある、なんてシチュエーション、どうしたってそわそわしてしまう。
彼とは小学生の頃からの仲で、わたしにとってはよき相談相手のような存在だった。
一緒にいると不思議とほっとする。
すぐ自分のことでいっぱいになってしまうわたしとはちがい、昔から落ち着いた性格の郁実。
クールだと誤解されがちだけれど、実際は穏やかで思いやりに満ちていることをわたしは知っている。
一番近くにいた、幼なじみだから────。
だけど、それ以上の関係にはならないだろう。
郁実はわたしのことを家族のように思っているはずだから、きっと恋には発展しない。
正直、それは少し寂しい気もするけれど。
だからきっと勘違いだと言い聞かせても、先走った鼓動は自分でもどうしようもなくなっていた。
まさか。まさか、ね。
「分かった! じゃあ、また放課後にね」
持て余すほど期待が膨らむ前に、慌てて切り上げた。
「うん、待ってて」
とどめと言わんばかりに、郁実は表情を和らげる。
見上げるほどの身長と整った綺麗な顔立ちはいっそどこか近寄りがたいのに、こうして笑うと雰囲気が穏やかにほどける。
きびすを返した彼の後ろ姿を思わず見つめた。
窓から射し込む朝日で髪の先が柔らかく透けている。
それが何だか眩しくて、だけど目を逸らせなかった。



