「あ、あの、苗字じゃなくて名前でいいですよ?」
さらに距離を縮めるための提案。
すると、彼は少しだけ目を細めた。
「下の名前………"由良"、だったか?」
低い声で、不意に真っ直ぐ呼ばれたその名前。
ドクン──私の心臓が、一度だけ強く、激しく脈打った。
(……っ、ちがう。それは私の名前じゃない。私の過去の、いちばん大切な場所に置いてきた──名前だ)
他人の口からその響きを聞いた瞬間、胸の奥がチクリと痛む。
かつて運命を引き裂かれ、今はどこにいるかも分からない、たった一人の大切な半身。
その行方を突き止めるためだけに、私は今、この危険な世界へと身を投じ、その名前を借りてここに立っている。
込み上げてくる感傷を無理やり心の奥底へ押し込め、私はすぐさま完璧な“男の子”の笑顔を顔に張り付けた。
「………はいっ! あ、あの、僕も高瀬さんのこと、名前で呼んでもいいですか………?」
「……好きにしろ」
少しずつ、本当に少しずつ。
任務を疑われない程度に、注意深く距離を詰めていこう。
護衛対象である『月華の姫』に近づくには、この総長に懐へ滑り込むのが一番の近道なのだから。
「じゃあ────蓮さん、ですねっ!!」
満面の笑みでそう呼ぶと、彼……蓮さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を見開いた。
それから、気まずそうにふいっと視線を逸らす。
「……っ、おう」
ほんのりと赤くなった彼の耳たぶを見逃さず、私は「よし」と心の中で密かな手応えを感じていた。



