それらの光景を見た途端、一気に血の気が引いていくのが分かった。


 私はバーで酔い潰れたあと、一体なぜここへ来ることになったのだろう。

 そもそもこの家の持ち主は誰?

 どういう経緯では私はここへ?

 どうにか昨日の夜の記憶を探っては見るものの、バーの店員さんに声をかけられてなんとか目を覚ましたその後のことがうまく思い出せない。



 「……冨羽、翼」

 もう一度黒色のジャケットを目にしたとき、ふとその名前が思い浮かんだ。


 そうだ、確かそう名乗る男性に声をかけられたんだ。

 しっかりと私の目を見て話す、一見しっかりしていて、だけどどこか人懐っこさも垣間見えた……あの彼。


 私はとにかくこの部屋の持ち主に会いに行かなければ、と急いでベッドから降りたそのとき。





 「……おはよう、起きたの?」

 ゆっくりと寝室の扉を開けて顔を覗かせながらやって来たのは、まさしく昨日の彼……冨羽翼だった。

 急な彼の登場に、思わず私はその場にしゃがみ込んで咄嗟に姿を隠す。



 「ははっ、別に照れなくていいよ。おはよう、千代ちゃん」

 「……なんで、私の名前」

 「昨日、教えてくれたでしょ?」


 私が、赤の他人に自分の名前を教える?

 父がつけたこの名前が大嫌いな私は、滅多に自分の名前を人に教えたりしないのに。




 「昨日ね?何度も千代ちゃんに家を訪ねてみたんだけど、君、絶対に家には帰りたくないって聞かないし、どこでもいいから泊めてくれって言うからウチに連れてきたんだよ」

 「そ、そうなんですか……」

 初対面の人になんてことを言ってしまったんだという羞恥心と、それでも父が待つあの家に帰らなくてよかったと心底思う気持ちが交互に入り混じる。


 私の時間は、私だけのものだ。

 もう絶対にあんな父の言いなりになんてなりたくない。


 「あ、あの……!」

 勢いをつけて立ち上がって、私は寝室の扉の前にいる彼と向かい合った。

 昨日とは違って比較的ゆるりとしたパーカーにジョガーパンツ姿、そしてセットされていないふわふわのきれいな黒髪の彼に、思わず見惚れてしまいそうになった。