よく耳に馴染む、揺らぎの良い声だった。

 スッとこちらへ届いたその声の持ち主は、私の目の前にしゃがみ込んで、力一杯に握っていた手をそっと解してくれる。

 彼が私の元へ来たときに香ったウッディな匂いが印象的な男性だった。




 「どうして泣いてるの?」

 「……別に」

 「俺に話してごらん?全部聞いてあげるから」

 放っておいてよ、と心の中で毒吐きながらも、あまりに優しいその声に、思わず目の前の彼をそっと見上げた。

 そこには白いシャツに黒色のジャケットを身に纏い、きれいにセットされた黒髪の男性がにっこりと微笑みながら私を見ていた。



 たまたま同じバーに居合わせていたお客さんだろうか。

 どこからともなくやって来た彼は、未だに私の手を握ったまま、爪痕が残った手のひらを優しく撫でてくれている。




 「あぁ、心配しないで。怪しい男じゃないから……って、自分で言っても意味ないか。そうだな、一つ身分を明かすなら……俺はここのバーのオーナーだよ」

 「……」

 「冨羽翼。俺の名前ね」

 「……」

 「で、君は?どうしてこんなところで泣いているの?」


 手のひらから伝わる彼の体温に、私は無意識に安心してしまったのだろうか。

 家を飛び出した瞬間、慣れない夜の街に植え付けられた孤独に押しつぶされそうになっていた私に、優しく声をかけてくれたからだろうか。



 「家まで送ってあげるよ」

 「……家は、ありません」


 それまでずっと張り詰めていた緊張の糸が途切れてしまったようだ。





 「帰れる家が……ないの」

 「え?」

 「私を、一人にしないで──」

 そう言って、私は再び意識を手放してしまった。