***



 「翼さん、私、今日この家を出て行きます」

 その言葉に、冨羽さんの動きが一瞬だけ止まった。




 「出て行くって、どうして?」

 彼の声が少しだけ揺らいで聞こえるのは気のせいだろうか。それとも単なる私の願望だろうか。

 心配そうに少しずつこちらへ歩み寄ってくる冨羽さんに、私は大きく腕を伸ばしてそれを阻止した。




 「私、ずっと冨羽さんに嘘をついていました。実は私にも婚約者がいるんです。名前も知らないし、顔も知らない人ですけど」

 「……そう、なの?」

 「はい。それに、冨羽さんが婚約者さんのことをすごく愛されているんだなということも分かりました。私がここにいても邪魔になるだけですし、そんなお二人の間を邪魔したくないんです」

 「邪魔だなんて思わないよ」

 「私はこれまでずっと父の言いなりの人生を送ってきました。だから反抗したくて家を出たから帰る家がなかったんです。そんなとき、冨羽さんが手を差し伸べてくれて、いろんな楽しいことを体験させてくれて、私、今までで一番充実した人生を歩むことができました」

 「……」

 「もう、十分です。本当にありがとうございました」



 これから幸せになっていく彼を、私のせいで引き留めたくない。

 初めて好きになった人には、せめて幸せでいてほしい。



 だから、私はこれから一人で立ち向かっていくしかない。

 最初から誰かに頼ろうとすることがそもそもの間違いだった。




 「本当にこの家を出ていくの?そんな、名前も顔も知らない人と結婚するつもり?」

 「……」