それに、秘密があるのは私も同じだ。

 本当に不本意だけれど、私にも名ばかりの婚約者がいる。



 これまで一度も会ったことはないけれど。

 今まで顔も見たこともなければ名前さえ知らない人だけれど。




 「あー!既読もつかない!いつも夜まで寝てるはずなのに、どこ行ってんのよ翼ぁ!」

 「……」

 「外に出るの大嫌いなくせにさぁ?本当タイミング悪すぎなんだから」



 約一ヶ月間、冨羽さんと一緒に過ごしてきても、彼女が今何気なく呟いた彼の情報でさえ、私は知らなかった。

 私といるときはいつも夜まで一緒に過ごして、そのあと彼は少し眠ったあとバーへ出勤する。外に出るのが大嫌いだなんて検討もつかなかった。



 むしろいつも私に「今日は動物園行ってみない?」「めちゃくちゃ大きい図書館があるらしいんだけど、どう?」と誘ってくれていたから、家にいるよりも外へ出かけることが好きなアウトドアな人なのだとさえ思っていた。


 思えば私が何も経験してこなかったと言ってしまったから、冨羽さんに無理をさせていたのかもしれない。





 「(私、もうここにいない方がいいかもしれない)」

 手のひらに痛みを感じてふと視線をやると、またあのときのように思いきり手を握りしめていた。

 そっと力を緩めて手を開くと、紫色に変色した爪痕がくっきりと残っている。



 「(こんなにも痛かったんだ)」


 冨羽さんと出会うまでの私は、味も、感覚も、痛みにも鈍くなっていた。

 彼に出会って、彼の優しさや気遣いに触れて、少しずつ感覚を取り戻すことができていた。


 何を食べても美味しいと思えるようになった。

 外の空気の冷たさや、このマンションに戻って来たときに感じるあたたかさと安心感を味わえるようになっていた。



 けれど、痛みだけは鈍感のままがよかった。

 手のひらの痛みも、これからやってくるであろう……失恋の痛みや喪失感という痛みは感じたくない。




 自然と彼との別れを想像していた、そのときだった。


 「──君が俺の失くしてた鍵を持ってたってわけね」