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勤めていた会社に老舗のおせんべいの詰め合わせを持って最後の挨拶へ行った。
突然、なんの引き継ぎもせずに退職する運びとなった私のことをみんな快く思ってはいないだろうと予想していたけれど、経理部へ顔を覗かせるや否や、同期や先輩、それから後輩たちから『おめでとう』という言葉を一心にもらった私は、頭の中で終始混乱していた。
笹原部長はいったいみんなにどんな説明をしたのだろうと聞きに行くと、どうやら私の父から結婚が決まって急に引っ越さなくてはならなくなったと今朝連絡があったらしい。
部長は私が新卒で入社したときからとてもお世話になった人だから余計に、『幸せになりなさい』と笑って花束をもらったときは心が痛くてたまらなかった。
『結婚おめでとう』
『寿退社なんて羨ましいじゃない』
『末長く幸せにね』
そんな言葉を投げかけられるたびに、複雑な思いが押し寄せてきて押しつぶされそうになっていた。
それと同時に、『父に勝手に決められた顔も知らない相手との結婚が、おめでとうですって?』『私はもっとここで働きたかったのに』『幸せになんてなれるわけない』だなんて、心の中ではそんな棘のある返しで毒吐いていた。
何も知らない彼らに罪はない。
結婚を機に退職することは、本来であればおめでたいことなのだ。
私はどうにか作り笑いを浮かべながら、ひたすら『ありがとうございます』と『急に辞めることになってしまって申し訳ございませんでした』を繰り返して、五年勤めた会社を後にした。
大勢の人達が一生懸命に働いている時間帯に、私は一人でオフィス街を目的もなく歩いていると、スマホが一件のメールを受信した。
そこには『父親』の二文字が表示されている。



