午後一番、社内ポータルに新しいお知らせが掲出された。
 《関係申告および配置調整の完了通知》
 スクロールしていくと、箇条書きの行が正確な間隔で並ぶ。
 — 広報・斎藤葵:地方拠点広報の監修担当(本社常駐)
 — 経営企画・氷室悠真:戦略室へ異動(広報決裁から距離を置く)
 その下に添付されたPDFには、情報壁の設計図がきれいな等高線みたいに引かれていた。アクセス権限の矢印は必要最低限。余白は多く、説明は少ない。その潔さが、噂の通り道を塞いでいく。

 「見た?」
 後ろから声。振り返ると美緒がウインクを一つ。
 「公開プロポーズ、社内バズってるよ。けどね——一番バズってるのは、二人が全部手続きで守ったこと」
 「手続きで、守った」
 口の中で同じ言葉を反芻する。子どものころ、飴を舐めるみたいに。最初は固い甘さ、やがて舌に馴染む。
 「ところで広報さん、あの流れ、危機管理の事例として社外セミナーで喋れるやつだから。スライド十枚で済むやつ」
 「じゃあ、タイトル考えておくね。『恋とコンプラは両立します(※手順があれば)』」
 美緒が吹き出す。「そういう副題つけると集客伸びるけど炎上もするやつ」
 笑って、モニターに戻る。笑いの温度がオフィスをやわらかくして、張り詰めていた背中の筋肉がひとつずつ解除されていく。

 午後三時、廊下の角で風が正直に吹いた。
 私はガラス壁に映る自分の姿を、少し遠くから見た。目の下のくまは薄く、肩の位置はまっすぐ。胸元のチェーンは今日は空。左手の薬指には、戻ってきた指輪がきちんと収まっている。内側の溝は、体温で少し温かい。
 そこへ、歩幅の合う足音。
 「——お疲れさま」
 公の声量で、悠真が挨拶する。声は少し低く、廊下の反響で丸くなる。
 「お疲れさま。戦略室、どう?」
 「壁、いい。視界が開ける」
 短い会話。けれど、言葉の奥がよく見える。私たちはいま、公の場所で、公の距離で、公の声を選べる。選べること自体が、昨日までの目標だった。

 夕方少し前、人事のカウンターに並んだ。
 透明のプレートの向こうで、担当者が淡々と書類を確かめていく。万年筆のペン先が紙に沈む音が、布団に手を差し込むみたいに柔らかい。
 「最終署名、こちらです」
 渡されたボールペンは青。日付欄に今日の数字を置き、名前を二度、丁寧に書く。インクが定着する間の二拍が好きだ。自分の言葉が紙の地面に根を張る感じがするから。
 「これで完了しました。運用の開始は本日付。——おめでとうございます」
 言い終えてから、担当者は気恥ずかしそうに笑った。“おめでとう”は本来、業務用語ではない。けれど今日だけは、きれいに場に馴染む。
 カウンターを離れるとき、私は軽く会釈した。手続きは、祈りの形にも似ている。

 「刻みに行こうか」
 「刻み?」
 「指輪の内側。今日の時刻」
 私たちはビルの外に出て、角を曲がったところの宝飾店に入った。ショーケースに小さな光が並んで、世界の縮尺が少し変わる。職人は眼鏡を額に上げ、ルーペを覗くためにゆっくり姿勢を正した。
 「追加の刻印ですね。文字は?」
 「“Today, 13:00”でお願いします」
 職人の手元から、鈍い音が二度、三度。金属の内側に細い線が積み重なっていく。
 受け取った指輪を光に翳すと、刻印は光を飲み込み、わずかに返す。秘密だったものが、約束になって戻ってくる。
 店を出ると、風が髪を撫でた。
 「——今日からは、“夫だから”触れる。公に」
 横で、彼が小さく言う。
 「じゃあ、退勤のタイムカードから練習しよ。公的スキンシップ」
 思っていたより甘い言葉が口から出て、自分で照れた。けれど、照れは今日、正当な権利だ。

 夜は、祖母の家で小さなお祝いをした。
 湯呑みの湯気は静かで、テーブルの布巾は隅が直角に折られている。漬けたてのきゅうりは浅葱色で、包丁の刃が入るたびに淡い音がする。焼き茄子の皮をむくと、指先に夏の匂いがひろがる。
 「隠すのは、悪いことじゃないよ」
 祖母は湯呑みを両手で包み、湯気の向こうから言った。
 「守るために隠すとね、見せるときに、誰も傷つかないの」
 その言い方が、ひどく静かで、やさしかった。私は返事の前に何度も頷いて、指で目尻を押さえる。
 「おばあちゃん」
 呼びかけは、幼いころと同じ声になった気がした。
 「人の年輪は、隠した水分でできてるんだよ」
 祖母は続ける。「急に出すと木が割れる。ゆっくり出せば、艶になる」
 「……うん」
 言葉が胸に沁みるのを待つみたいに、スープをひと口。鶏だんごのやさしい出汁が舌の上でほどけて、胃の壁に薄い膜を張る。
 隣で悠真が箸を置き、私の手を軽く握った。掌の温度が、今日の長い一日をあたため直す。
 「これから、見せていく番だね」
 「同じ声量で」
 手の甲に落ちた影が、湯気の向こうで揺れた。

 帰り道、空は浅い群青色で、ビルの窓は豆電球みたいに点々と灯っている。
 「新居、見に行く?」
 ふいに彼が言う。
 「今から?」
 「外観だけ。徒歩十五分」
 地図アプリより早く、足は知っている方向へ動いた。並木の下、夜風が葉を擦る音がささやき声みたいに続く。住宅街の角を曲がると、工事用の白いシートに覆われた低層の新築が見えた。
 「まだ骨組みだけど」
 「骨組み、好き」
 フェンスごし、外灯に照らされる足場。鉄の匂い。木材の端に書かれた鉛筆のしるし。
 「壁ができたら、ここにも窓がつく。キッチンは向こう。シンクの横に小さな棚を作ろう」
 「茶葉と、箸置きと、薬入れ」
 「洗濯機は朝六時に終わるように予約。土曜は朝七時」
 「日曜は、コインランドリーで大物を。ついでにモーニング」
 描く未来は、生活の単位で等分される。分、時、曜日。手順と習慣。
 「合鍵、また渡す」
 「今度は最初から名前、刻もう」
 言葉のやりとりが、図面の余白を埋めていく。そこに暮らしの音がのる。湯の沸く音、包丁の音、タイムカードのカチリという音。公と私が同じ鐘で始まる音。

 翌朝。
 エレベーターホールで顔を合わせると、彼は自然な動作で少し距離をとった。公の場所の距離。私の温度は、指輪の内側にしまっておく。
 広報フロア前のガラス壁に、出社したばかりの自分たちが映る。昨日までと映りは同じなのに、像の輪郭が違って見える。
 私は左手を差し出した。
 「手続のあとに、手をつなぐ。うちの会社っぽいでしょ?」
 「君っぽい」
 彼は笑って、指先にそっと口づける。ほんの一瞬。見せびらかさない、でも隠さない、ちょうどの音量。
 ガラスの向こうで、ポータルのトップが切り替わる。《本日九時、正式発表》。小さな文字が、始業の合図みたいに瞬いた。

 席につく。マグカップを置く。キーを打つ前に、深呼吸を一つ。
 “13:00はもう秘密じゃない。未来の始業ベルだ”
 頭の中でつぶやく。内側の溝を指腹でなぞるみたいに。
 メールの未読は少なく、タスクは端から片づけられる。美緒が差し出した付箋には、絵文字と「ランチ?」。丸で囲って「いく」。
 午前中の会議は二本。一本は地方拠点の広報運用。もう一本は危機管理のベストプラクティス共有。
 配布用のスライドの一枚目には、こう書いた。
 “見せないもの”を明確にし、“見せるべきもの”は同じ声量で早めに見せる。
 キャプションは短く、図は一つ。色は少なめ。余白は多め。そこに、昨日の情報壁の図を縮めて置く。
 指輪の重さは、キーボードの上で邪魔をしない。重さは、文の骨に移っている。

 昼下がり、広報前のガラス壁の前で、一呼吸。
 私は彼にメッセージを送る。短く、仕事の話。
 《午後の打合せ、五分前入りで》
 すぐに返る。《了解。**“夫だから”**五分早めに歩く》
 画面の前で、声を出さずに笑う。私的書類みたいな会話。だけど、歩幅は確かに速くなる。

 夕方には、社内チャットの“噂”はほぼ沈黙した。残っているのは、運用の質問と、配置替えの影響を知りたいという実務的なやりとり。噂は仕組みに吸い込まれ、事実の形に整えられる。
 デジタルサイネージのバナーがゆっくり切り替わった。《ルールは、信頼の通貨》。昨日より、素直に頷ける。

 退勤。
 私たちは並んでガラスの前に立つ。昼間より暗く、鏡の機能が増している。
「行こう」
 「うん」
 手続きを終えた手で、手をつなぐ。
 ビル風は相変わらず正直で、私たちの握った手に、なにも言わない。言わないということは、許可のかたちでもある。
 角を曲がると、パン屋の前に淡い灯り。新居の方角は同じで、未来は少し近い。
 私は、明日の朝の洗濯機の予約を思い出して、スマホのアプリを開く。6:00終了。
 「朝、パン買っていこう」
 「じゃあ、珈琲は家で淹れる。同じ声量で、熱く」
 彼の言葉に、胸の奥で小さく鐘が鳴った。昨日の、そして今日の、13:00とは別の時刻。それでも同じように、きちんと始まりを告げる音だった。

 未来の始業ベルは、きっと何度でも鳴る。
 私たちは、そのたびに、堂々と。
 手続のあとに、手をつなぐ。
 それが、私たちのやり方だ。
 そしてたぶん、私たちの会社の、少し誇らしいやり方でもある。