時計は12:52を指していた。
会議室の空気は、レモンを絞る前の沈黙に似ている。張り詰めて、酸っぱくはないのに喉の奥がきゅっとする。
長机の向こうに、監査法人の高城。隣に総務の秋庭。両部の部長、人事の担当者が並び、席札は真っ直ぐ、紙の角は揃っている。ホワイトボードのキャスターは床の溝にきっちりはまって、一切のズレが許されないみたいだ。
私は胸元のチェーンに指を触れ、内側を一度だけなぞる。13:00。金属の溝は浅いのに、指腹は必ずそこに引っかかる。未来の鐘の、用意された舌。
「それでは、時間までの八分で、双方からの最終提出資料を確認します」
高城の声は、乾いた紙やすりの音に似ている。削りはするが、火は出さない。
私はクリアファイルを抱えずに、持って前に出した。抱きしめるのは人でいい。紙は、持てばいい——何度も自分に教え込んできた動作を、もう一度なぞる。
「広報からは、案件群の時系列資料です。A-03からA-17まで、承認時刻、関与者、決裁権限を一枚図にまとめています。評価指標については、同年度の他案件との比較を表にしました。分布で見ても——」
「——平均からの偏差は有意ではない」
秋庭が淡々と補足する。
私はうなずき、二枚目を差し出した。
「稟議のフローはこのとおり。広報長—役員の最終決裁で、経営企画は预算妥当性の確認のみ。意思決定そのものは、分離されています」
ペン先が紙を軽く叩く。紙の上の矢印が、まっすぐに視線を誘導する。
高城は資料を手前へ引き、静かな目で追った。目が湿らない人だ。湿らないぶん、こちらの湿度が浮かれていないかを測ってくれる。
「経営企画からは、この二点です」
隣で悠真が、同じ厚みのファイルを出す。
表紙の“経営企画——意思決定プロセス”のゴシック体が、いつもの彼らしい。飾りは少なく、本文が早く来いと催促している。
「一点目、意思決定の各段に第三者承認が入っていること。承認ログは時刻まで含めてエクスポートしました。
二点目、広報の評価・预算執行・判断の基準が他案件と統計的に同一であることを、当方の分析でも確認しています。偏りがあるとすれば、それは案件の特性であり、こちらの私的利益は関与していません」
モニターのグラフが切り替わる。薄い灰色の棒が横一列に並び、私たちの案件の棒は、他の棒の群れにまっすぐ紛れていく。
「有意差なし」という言葉は冷たい。冷たいけれど、今日ほど温かい毛布みたいに感じたことはない。
「総務からは一点」
秋庭が、別のファイルを開いた。
「未申告期間について。これは人事の保留指示があり、配置調整の準備が整うまで申告の“受理”を一時停止していたものです。本人たちの不申告ではありません」
人事担当者がうなずく。顔色は変わらないが、頬の筋肉がわずかに緩む。筋肉にも意思がある。
12:58。秒針が呼吸に入ってくる。
私はチェーンの指先を離し、掌をテーブルの裏でそっと合わせた。手の中の温度を、自分のものに戻す。
「なお、匿名通報の提出者は、希望により同席しています」
高城の言葉に、会議室の空気が一度だけ波紋を作った。
扉の近く、端の席に、見慣れた背中。旧上司だ。広報ひと筋二十年、言葉の埃を嫌う職人気質。感情に甘い文章を容赦なく剥がし落とす、あの鋭い赤ペン。
私の胃の奥がきゅっとなる。嫌いではない。怖いだけだ。正しすぎる人は、時に世界を狭くする。
「開始は13:00です」
高城が手元の時計を見た。秋庭も、部長も、人事も、それぞれの腕に視線を落とす。
針が重なる。空気が一瞬、無音になる。
——13:00。
「申告事項の開示を、お願いします」
私は椅子から立ち上がった。悠真も、同じタイミングで。
視界の端に、旧上司の眉がぴくりと動くのが見えた。たぶん、**“声量”**を見ている。私たちの“いま”の音量が、公にふさわしいかどうか。
「配偶者です」
私と悠真は、同時に言った。
敬語ではなく、でも砕けもしない、“公の地声”。
机の上に、受理通知と、人事への申告書式、それから——昨夜署名した誓約書を置く。
「これまで秘匿していたのは、規程遵守のための一時的措置です。本日、正式に申告し、配置調整と情報壁を設けた上で、引き続き公正に職務を行います」
言葉は準備の通りに並んだ。けれど、準備通りではない震えが、喉の奥で一度だけ鳴った。
旧上司の視線は鋭いままだったが、赤ペンの先端に似た緊張は、僅かに鈍った気がする。
「確認しました」
高城が紙を一枚ずつめくる。角が着地する微かな音。秋庭が「結構です」と短く添える。
部長が「気づけなかったのは私の責任でもある」と頭を下げ、人事が「壁の設計図は既に用意しています」とファイルを差し出す。項目には通信経路の制限、承認ルートの固定、データアクセスの検証。見慣れた言葉が、今日は頼もしい鎧になって並んでいる。
「匿名通報の件ですが」
高城が視線を端へ滑らせる。
立ち上がったのは、やはり旧上司だった。
彼はまっすぐこちらを見た。白いワイシャツの襟が、きちんと立っている。立ちすぎて、首が苦しくないか心配になるくらいに。
「私です」
声は荒れていない。
「馴れ合いを嫌います。部門間の距離は、職人の間合いだと考えています。二人の文章に、似た温度を感じた。——過剰反応だったのかもしれません」
過剰反応。
私は否定したくなかった。言葉に職人の間合いがあることを、私も知っている。
高城は、淡々と告げた。
「今日の開示により、利益相反管理は十分に担保されています。通報制度は、制度として機能しました。ここからは、運用の段階です」
旧上司は「了解」と短く言い、席に戻った。背もたれに凭れない。相変わらず真っ直ぐだ。
私は胸のチェーンをそっと握った。金属の輪が指に触れる。——ここで、外す。
「斎藤さん」
高城の声が戻る。「宣言事項は以上ですね」
私はうなずき、チェーンから指輪を外した。
会議室の真ん中。この場所で、はめ直すために。
「——ここで、つけたかった。私たちの、仕事場で」
声に出すと、手の震えは止まる。指輪は迷わず左手に帰ってくる。元の席に戻った感じがして、体の位置が定まった。
拍手が起こる。大きくはない。けれど、公の音量だった。
秋庭が手を止め、少し笑って言う。「文書で殴るの、きれいに決まりましたね」
私は笑い返す。殴る、という言葉がこんなに甘く響くことは、たぶんもう二度とない。
「では、本日の面談は——」
高城が締めに入った、その瞬間だった。
椅子の脚が静かに床を引っかいた。悠真が、振り返った。
会議室のドアの向こう、ガラスの壁には、広報のデジタルサイネージ。たまたま掲出されているのは、月初の啓発バナー——「コンプライアンス月間」。
あれほど固い文字が、今日に限っては目尻をゆるめる合図になる。
「——葵」
彼は公の声量で、私の名前を呼んだ。
私的な声じゃない。社の空気にも耐える地声。
会議室の空気が、もう一度だけ波紋をつくる。誰も止めない。止めるべきでないことが、自然に共有される。
「私的な言葉を、公で言わせて」
私は頷いた。胸の奥の鐘が、13:00とは別の時刻で鳴る。
悠真は、まっすぐこちらに向き直って言う。
「君の夫として、もう隠しません。
結婚してください——じゃない。これからも、“妻でいてください”」
会議室という場所は、告白に向いていない。蛍光灯は白く、机は無口で、カーペットは足音を飲み込む。
それでも、言葉の骨が正しければ、空間は味方になる。
私は立ち上がり、深く頭を下げた。広報の礼ではなく、葵の礼で。
「——はい」
拍手が今度はさっきより大きくなった。
旧上司は口角をほんの少しだけ上げ、秋庭は「同じ声量でやりましたね」と満足げに頷く。
部長は、目を細めて掌を打った。人事は既にノートPCで申告完了の登録に入り、壁の運用開始時刻を打鍵している。
扉の外のサイネージに、**「ルールは、信頼の通貨」**のバナーが切り替わる。タイミングが良すぎて、私と悠真は笑って、頭を下げた。二人で、同時に。
◇
会議室を出た瞬間、ビル風が廊下の角を正直に吹いた。
私は左手を胸の前に上げ、戻ったばかりの指輪をもう一度だけ確かめる。内側の刻印は、体温で少し温かい。
デジタルサイネージの前で、広報の若手が小さく親指を立てた。美緒が駆け寄ってきて、声をひそめる。
「——公開プロポーズ、社内バズってる。でも一番バズってるのは、二人が手続で守りきったこと」
「バズはほどほどでお願いします」
「無理。良い話は、勝手に歩く」
私は笑い、ポータルサイトを見る。午後の枠に、速報が一本上がっていた。
《関係申告および配置調整の完了通知》
広報・斎藤葵:地方拠点広報の監修担当(本社常駐)。
経営企画・氷室悠真:戦略室へ異動(広報決裁から距離を置く)。
その下には、情報壁の設計図が添付されている。アクセス権限の線が、地図の等高線みたいにきれいに引かれて、空白と重なり合っている。
「これで、見た目も中身も、整った」
悠真が私の肩の横、壁に背を預けて言う。公の距離。私の温度。
私は彼の横顔を一度だけ見上げ、声のボリュームを半音だけ落とす。
「今日から、“夫だから”触れる」
「堂々と」
「うん。堂々と」
私たちは、堂々という単語を、二回言った。二回目の方が、甘かった。
◇
夕方。
人事のカウンターで最終書類にサインをして、透明のファイルを持って歩く。
抱えない。持つ。
広報フロアを通りかかると、デジタルサイネージのバナーがゆっくり変わる。《“Today, 13:00”》の文字が浮かんで、社内に向けての小さな祝電になっていた。誰が遊んだのか、見当はつく。美緒の仕業だ。
「刻みに行こうか」
「刻み?」
「指輪の内側。今日の日時、入れよう」
私たちは、ビルの下にある宝飾店に立ち寄った。
職人は眼鏡を額に上げ、ルーペを覗き込みながら、金属の内側に細い文字を刻む。打つたびに、店の奥から鈍い音が「トン、トン」と響く。
受け取った指輪の内側には、さらに小さな刻印が増えていた。“Today, 13:00”。
指に通すと、文字が皮膚を傷つけない程度に、しかし確かに存在を主張する。秘密は、いつか誇れる約束に変わる。今日、それが目に見える形になっただけだ。
◇
夜。
祖母の家で、小さなお祝いをした。湯呑みの湯気は背筋を正し、テーブルの布巾はきちんと絞られて、角が綺麗に折れている。
祖母は湯飲みを両手で包み、「隠すのは悪いことじゃないよ」と静かに言った。「守るために隠すと、見せるときに、誰も傷つかない」
「おばあちゃん」
「人の年輪は、隠した水分でできてるよ。急に出すと木が割れる。ゆっくり出すと、艶になる」
私は笑いながら涙ぐんだ。
悠真が、箸を置いて小さく頷く。
食卓には、焼き茄子、きゅうりの浅漬け、鶏だんごのスープの残り。生活の音は、祝いの音でもある。皿が重なる音、茶箪笥の引き戸の音、湯の沸く音。
世界は箇条書きにもなるけれど、夜の台所は段落でできている。
◇
帰り道、ビルの前に立つと、ガラスの壁が鏡になって私たちを映した。
昼間は会議室。夜は水面。
私たちは並んで立ち、手続きを終えた手で、手をつないだ。
私は彼に向かって、半歩だけ身体を預ける。傘の内側でしかできなかったことを、ビル風の外でやってみる。風は正直だ。正直な風は、もう何も隠さない。
「葵」
「なに」
「“夫だから”触れる」
「“妻だから”触れられる」
それは、どこにも提出しない私的書類みたいなやりとりだった。
けれど、その書類は、私たちの歩き方を、正確に決める。
エレベーターホールの照明が少しだけ暖色で、足元の影が重なる。
私は笑って、彼の指先に口づけた。広報としての私ではなく、葵として。公と私が、ようやく同じ声量になった印だった。
約束の鐘は、今日の13時に鳴った。
鳴り終わった余韻で、明日の朝が始まる。
ポータルの通知音が一つ鳴り、私はポケットの中のスマホにふれた。
——社内広報での正式発表は、明朝九時掲出。
画面の中の文字は、もう怖くない。
指輪の内側の文字は、もう秘密ではない。
私たちは、ビルのガラスに映る自分たちに、小さく会釈をして、家へ帰った。
会議室の空気は、レモンを絞る前の沈黙に似ている。張り詰めて、酸っぱくはないのに喉の奥がきゅっとする。
長机の向こうに、監査法人の高城。隣に総務の秋庭。両部の部長、人事の担当者が並び、席札は真っ直ぐ、紙の角は揃っている。ホワイトボードのキャスターは床の溝にきっちりはまって、一切のズレが許されないみたいだ。
私は胸元のチェーンに指を触れ、内側を一度だけなぞる。13:00。金属の溝は浅いのに、指腹は必ずそこに引っかかる。未来の鐘の、用意された舌。
「それでは、時間までの八分で、双方からの最終提出資料を確認します」
高城の声は、乾いた紙やすりの音に似ている。削りはするが、火は出さない。
私はクリアファイルを抱えずに、持って前に出した。抱きしめるのは人でいい。紙は、持てばいい——何度も自分に教え込んできた動作を、もう一度なぞる。
「広報からは、案件群の時系列資料です。A-03からA-17まで、承認時刻、関与者、決裁権限を一枚図にまとめています。評価指標については、同年度の他案件との比較を表にしました。分布で見ても——」
「——平均からの偏差は有意ではない」
秋庭が淡々と補足する。
私はうなずき、二枚目を差し出した。
「稟議のフローはこのとおり。広報長—役員の最終決裁で、経営企画は预算妥当性の確認のみ。意思決定そのものは、分離されています」
ペン先が紙を軽く叩く。紙の上の矢印が、まっすぐに視線を誘導する。
高城は資料を手前へ引き、静かな目で追った。目が湿らない人だ。湿らないぶん、こちらの湿度が浮かれていないかを測ってくれる。
「経営企画からは、この二点です」
隣で悠真が、同じ厚みのファイルを出す。
表紙の“経営企画——意思決定プロセス”のゴシック体が、いつもの彼らしい。飾りは少なく、本文が早く来いと催促している。
「一点目、意思決定の各段に第三者承認が入っていること。承認ログは時刻まで含めてエクスポートしました。
二点目、広報の評価・预算執行・判断の基準が他案件と統計的に同一であることを、当方の分析でも確認しています。偏りがあるとすれば、それは案件の特性であり、こちらの私的利益は関与していません」
モニターのグラフが切り替わる。薄い灰色の棒が横一列に並び、私たちの案件の棒は、他の棒の群れにまっすぐ紛れていく。
「有意差なし」という言葉は冷たい。冷たいけれど、今日ほど温かい毛布みたいに感じたことはない。
「総務からは一点」
秋庭が、別のファイルを開いた。
「未申告期間について。これは人事の保留指示があり、配置調整の準備が整うまで申告の“受理”を一時停止していたものです。本人たちの不申告ではありません」
人事担当者がうなずく。顔色は変わらないが、頬の筋肉がわずかに緩む。筋肉にも意思がある。
12:58。秒針が呼吸に入ってくる。
私はチェーンの指先を離し、掌をテーブルの裏でそっと合わせた。手の中の温度を、自分のものに戻す。
「なお、匿名通報の提出者は、希望により同席しています」
高城の言葉に、会議室の空気が一度だけ波紋を作った。
扉の近く、端の席に、見慣れた背中。旧上司だ。広報ひと筋二十年、言葉の埃を嫌う職人気質。感情に甘い文章を容赦なく剥がし落とす、あの鋭い赤ペン。
私の胃の奥がきゅっとなる。嫌いではない。怖いだけだ。正しすぎる人は、時に世界を狭くする。
「開始は13:00です」
高城が手元の時計を見た。秋庭も、部長も、人事も、それぞれの腕に視線を落とす。
針が重なる。空気が一瞬、無音になる。
——13:00。
「申告事項の開示を、お願いします」
私は椅子から立ち上がった。悠真も、同じタイミングで。
視界の端に、旧上司の眉がぴくりと動くのが見えた。たぶん、**“声量”**を見ている。私たちの“いま”の音量が、公にふさわしいかどうか。
「配偶者です」
私と悠真は、同時に言った。
敬語ではなく、でも砕けもしない、“公の地声”。
机の上に、受理通知と、人事への申告書式、それから——昨夜署名した誓約書を置く。
「これまで秘匿していたのは、規程遵守のための一時的措置です。本日、正式に申告し、配置調整と情報壁を設けた上で、引き続き公正に職務を行います」
言葉は準備の通りに並んだ。けれど、準備通りではない震えが、喉の奥で一度だけ鳴った。
旧上司の視線は鋭いままだったが、赤ペンの先端に似た緊張は、僅かに鈍った気がする。
「確認しました」
高城が紙を一枚ずつめくる。角が着地する微かな音。秋庭が「結構です」と短く添える。
部長が「気づけなかったのは私の責任でもある」と頭を下げ、人事が「壁の設計図は既に用意しています」とファイルを差し出す。項目には通信経路の制限、承認ルートの固定、データアクセスの検証。見慣れた言葉が、今日は頼もしい鎧になって並んでいる。
「匿名通報の件ですが」
高城が視線を端へ滑らせる。
立ち上がったのは、やはり旧上司だった。
彼はまっすぐこちらを見た。白いワイシャツの襟が、きちんと立っている。立ちすぎて、首が苦しくないか心配になるくらいに。
「私です」
声は荒れていない。
「馴れ合いを嫌います。部門間の距離は、職人の間合いだと考えています。二人の文章に、似た温度を感じた。——過剰反応だったのかもしれません」
過剰反応。
私は否定したくなかった。言葉に職人の間合いがあることを、私も知っている。
高城は、淡々と告げた。
「今日の開示により、利益相反管理は十分に担保されています。通報制度は、制度として機能しました。ここからは、運用の段階です」
旧上司は「了解」と短く言い、席に戻った。背もたれに凭れない。相変わらず真っ直ぐだ。
私は胸のチェーンをそっと握った。金属の輪が指に触れる。——ここで、外す。
「斎藤さん」
高城の声が戻る。「宣言事項は以上ですね」
私はうなずき、チェーンから指輪を外した。
会議室の真ん中。この場所で、はめ直すために。
「——ここで、つけたかった。私たちの、仕事場で」
声に出すと、手の震えは止まる。指輪は迷わず左手に帰ってくる。元の席に戻った感じがして、体の位置が定まった。
拍手が起こる。大きくはない。けれど、公の音量だった。
秋庭が手を止め、少し笑って言う。「文書で殴るの、きれいに決まりましたね」
私は笑い返す。殴る、という言葉がこんなに甘く響くことは、たぶんもう二度とない。
「では、本日の面談は——」
高城が締めに入った、その瞬間だった。
椅子の脚が静かに床を引っかいた。悠真が、振り返った。
会議室のドアの向こう、ガラスの壁には、広報のデジタルサイネージ。たまたま掲出されているのは、月初の啓発バナー——「コンプライアンス月間」。
あれほど固い文字が、今日に限っては目尻をゆるめる合図になる。
「——葵」
彼は公の声量で、私の名前を呼んだ。
私的な声じゃない。社の空気にも耐える地声。
会議室の空気が、もう一度だけ波紋をつくる。誰も止めない。止めるべきでないことが、自然に共有される。
「私的な言葉を、公で言わせて」
私は頷いた。胸の奥の鐘が、13:00とは別の時刻で鳴る。
悠真は、まっすぐこちらに向き直って言う。
「君の夫として、もう隠しません。
結婚してください——じゃない。これからも、“妻でいてください”」
会議室という場所は、告白に向いていない。蛍光灯は白く、机は無口で、カーペットは足音を飲み込む。
それでも、言葉の骨が正しければ、空間は味方になる。
私は立ち上がり、深く頭を下げた。広報の礼ではなく、葵の礼で。
「——はい」
拍手が今度はさっきより大きくなった。
旧上司は口角をほんの少しだけ上げ、秋庭は「同じ声量でやりましたね」と満足げに頷く。
部長は、目を細めて掌を打った。人事は既にノートPCで申告完了の登録に入り、壁の運用開始時刻を打鍵している。
扉の外のサイネージに、**「ルールは、信頼の通貨」**のバナーが切り替わる。タイミングが良すぎて、私と悠真は笑って、頭を下げた。二人で、同時に。
◇
会議室を出た瞬間、ビル風が廊下の角を正直に吹いた。
私は左手を胸の前に上げ、戻ったばかりの指輪をもう一度だけ確かめる。内側の刻印は、体温で少し温かい。
デジタルサイネージの前で、広報の若手が小さく親指を立てた。美緒が駆け寄ってきて、声をひそめる。
「——公開プロポーズ、社内バズってる。でも一番バズってるのは、二人が手続で守りきったこと」
「バズはほどほどでお願いします」
「無理。良い話は、勝手に歩く」
私は笑い、ポータルサイトを見る。午後の枠に、速報が一本上がっていた。
《関係申告および配置調整の完了通知》
広報・斎藤葵:地方拠点広報の監修担当(本社常駐)。
経営企画・氷室悠真:戦略室へ異動(広報決裁から距離を置く)。
その下には、情報壁の設計図が添付されている。アクセス権限の線が、地図の等高線みたいにきれいに引かれて、空白と重なり合っている。
「これで、見た目も中身も、整った」
悠真が私の肩の横、壁に背を預けて言う。公の距離。私の温度。
私は彼の横顔を一度だけ見上げ、声のボリュームを半音だけ落とす。
「今日から、“夫だから”触れる」
「堂々と」
「うん。堂々と」
私たちは、堂々という単語を、二回言った。二回目の方が、甘かった。
◇
夕方。
人事のカウンターで最終書類にサインをして、透明のファイルを持って歩く。
抱えない。持つ。
広報フロアを通りかかると、デジタルサイネージのバナーがゆっくり変わる。《“Today, 13:00”》の文字が浮かんで、社内に向けての小さな祝電になっていた。誰が遊んだのか、見当はつく。美緒の仕業だ。
「刻みに行こうか」
「刻み?」
「指輪の内側。今日の日時、入れよう」
私たちは、ビルの下にある宝飾店に立ち寄った。
職人は眼鏡を額に上げ、ルーペを覗き込みながら、金属の内側に細い文字を刻む。打つたびに、店の奥から鈍い音が「トン、トン」と響く。
受け取った指輪の内側には、さらに小さな刻印が増えていた。“Today, 13:00”。
指に通すと、文字が皮膚を傷つけない程度に、しかし確かに存在を主張する。秘密は、いつか誇れる約束に変わる。今日、それが目に見える形になっただけだ。
◇
夜。
祖母の家で、小さなお祝いをした。湯呑みの湯気は背筋を正し、テーブルの布巾はきちんと絞られて、角が綺麗に折れている。
祖母は湯飲みを両手で包み、「隠すのは悪いことじゃないよ」と静かに言った。「守るために隠すと、見せるときに、誰も傷つかない」
「おばあちゃん」
「人の年輪は、隠した水分でできてるよ。急に出すと木が割れる。ゆっくり出すと、艶になる」
私は笑いながら涙ぐんだ。
悠真が、箸を置いて小さく頷く。
食卓には、焼き茄子、きゅうりの浅漬け、鶏だんごのスープの残り。生活の音は、祝いの音でもある。皿が重なる音、茶箪笥の引き戸の音、湯の沸く音。
世界は箇条書きにもなるけれど、夜の台所は段落でできている。
◇
帰り道、ビルの前に立つと、ガラスの壁が鏡になって私たちを映した。
昼間は会議室。夜は水面。
私たちは並んで立ち、手続きを終えた手で、手をつないだ。
私は彼に向かって、半歩だけ身体を預ける。傘の内側でしかできなかったことを、ビル風の外でやってみる。風は正直だ。正直な風は、もう何も隠さない。
「葵」
「なに」
「“夫だから”触れる」
「“妻だから”触れられる」
それは、どこにも提出しない私的書類みたいなやりとりだった。
けれど、その書類は、私たちの歩き方を、正確に決める。
エレベーターホールの照明が少しだけ暖色で、足元の影が重なる。
私は笑って、彼の指先に口づけた。広報としての私ではなく、葵として。公と私が、ようやく同じ声量になった印だった。
約束の鐘は、今日の13時に鳴った。
鳴り終わった余韻で、明日の朝が始まる。
ポータルの通知音が一つ鳴り、私はポケットの中のスマホにふれた。
——社内広報での正式発表は、明朝九時掲出。
画面の中の文字は、もう怖くない。
指輪の内側の文字は、もう秘密ではない。
私たちは、ビルのガラスに映る自分たちに、小さく会釈をして、家へ帰った。

