午前十時の会議室は、冷蔵庫みたいに温度が一定だった。
 テーブルの上に置いた受理通知のコピーは、角がきっちりしている。紙の端を親指で軽く押すと、乾いた音がした。私はその音で、手の震えが止まるのを確認する。

「利害関係の管理は、事前申告と配置調整が要です」

 監査法人の高城は、いつも通りの乾いた声で言った。乾いた声は燃えにくい。
 彼は受理通知の日付を指先で示し、目だけこちらへ向ける。

「この“人事が保留した期間”は、お二人の裁量外です。したがって、その間の意思決定は制度的に独立だった——そう主張できます」

「……救われる、ということですか」

「“救う”のは手続きです。私は、事実を整えるお手伝いをするだけ」

 敵ではない。
 その確信が、胸の奥の氷を少し溶かす。私は会釈し、紙を丁寧にクリアファイルへ戻した。抱きしめず、腕に下ろして持つ。抱きしめるのは人でいい。紙は、持てばいい。

 会議室を出ると、廊下の空気はほんの少しだけ柔らかい。
 経営企画の島から出てきた悠真と、遠目に目が合う。唇の形でやり取りする。

 ——日付。
 ——うん。

 それだけで足りた。
 ビル風が曲がり角で正直に吹く。私は胸元のチェーンの下にある金属の冷たさを指腹で確かめ、広報の席へ戻った。

     ◇

 昼前、美緒が書類を抱えて走ってくる。
 息が少し上がっていて、頬に赤がさしたまま、机に両手をついた。

「葵、顔色——よくはないけど、決まってる顔」

「決まってる?」

「うん。なにか、腹、括ったでしょ」

「……わかる?」

「わかる」

 だったら、言う。言葉は、言葉にした瞬間に行き先を持つ。

「私から、異動を申請する」

 美緒の目が丸くなる。
 彼女は言葉を選ぶみたいに、呼吸を一つ置いてから小さく笑った。

「わざわざ自分から異動票を出すなんて。逃げじゃないって顔、してる」

「逃げじゃない。職務の透明化。いまのままでも正しく判断できる。でも“正しく見えない”。広報は見せ方まで責任。だったら、構造ごと変える」

「……葵が言うと、なんか納得するのずるい。応援する。——でも、戻ってこい。土産は銘菓じゃなくて、運用の知見で」

「了解。名物まんじゅうの箱に、運用フロー詰めて持ってくる」

 二人で笑った。笑いは、胃に優しい。
 笑い終わったあと、私は席の前で深呼吸を一つ。カレンダーを開き、異動申請書のフォームを呼び出す。カーソルが瞬く。
 「理由」の欄に、言葉を置く。

 ——利害関係の疑義を回避し、判断の独立性を可視化するため。
 ——地方拠点立ち上げにおける広報運用の標準化に寄与するため。

 句点を打つ音が、指先から肋骨へ伝わって、背中で静かに消える。

     ◇

 夕方。
 家へ戻る前に寄ったスーパーの自動ドアは、いつもの速度で開いた。人は気持ちで急げても、機械の速度は変わらない。こういう正確さが、暮らしの基準を作ってくれる。
 大葉と豆腐と、鶏ひき肉。長芋。生姜。
 袋を提げて帰る道で、雨は降っていないのに、アスファルトが少し濡れて見えた。雲の陰が、地面に落ちているだけだ。

 玄関で靴を揃え、台所に袋を置く。
 まな板を濡らし、布巾で水を拭う。長芋の皮をピーラーで引くと、つるんと白が顔を出す。すり下ろすと、今日の気圧みたいに、少し重いとろみになる。
 鶏団子の生地に、葱と生姜を刻んで混ぜる。手のひらで団子を丸め、出汁の湯面に落とすと、沈んだ球が数秒後に浮かび上がってくる。弱火でコトコト。湯気は、説得より先に、心を落ち着ける。

「いい匂い」

 リビングから悠真の声。
 私は鍋の蓋を少しずらして、上目で湯気の向こうを見る。

「鶏だんごと、とろろ。——胃に優しく、理屈で守る前に、体温で守るメニュー」

「名付けが広報」

「広報だから」

 彼は湯飲みを両手で温めてから、私に渡す。陶器の低い声が、掌で鳴る。
 私は湯気を吸ってから、口を開いた。

「三つ、誓約を作ろう」

「……うん」

「紙に。互いの署名で。後戻りできないように」

「いいね。——見出し、俺が書く」

 彼はメモ用紙を三枚取り、丁寧に見出しを置いた。
 《誓約書》

 ① 監査に対し、事実をすべて開示する(結婚、保留の経緯、判断プロセスの独立性)
 ② 異動が確定するまで、直接の意思疎通は業務外に限る(業務上必要な連絡は記録に残す)
 ③ 13:00の面談において、人事・監査・上司同席の場で同時解禁を行う

「かたい?」

「かたくていい。やわらかいことは、生活側でやる」

「生活は、俺たち、上手い」

「うん」

 ペン先が紙に沈む音。インクが少しずつ乾いていく時間。
 署名欄に、それぞれの名前を書く。斎藤葵。氷室悠真。
 インクの黒が光を収め、紙に定着する。視界の中心が、少しだけ明るくなる。

「——それと」

「なに」

「誰に見られても言い切れるタイミングで、もう一度はめ直したい」

 左手の薬指の指輪を、そっと外し、チェーンに通す。金属の輪が、胸元で小さく鳴る。
 悠真は、その音が止まるのを待ってから、まっすぐに頷いた。

「じゃあその時、俺から正式に“公開で”お願いする」

「公開で?」

「会議室の真ん中でも、エレベーターホールでも。同じ声量で言う。逃げない」

 彼の目は、遠いものを見ているようで、すぐ近くを見ている目だった。
 私は笑って、鍋の蓋を開ける。湯気が二人の間をやさしく押し広げる。

     ◇

 翌朝。
 社内チャットの通知が、炊飯器のスイッチより早く鳴った。
 画面に踊る言葉は、昨夜より一段、熱を帯びている。《二人が昇進をバーターしたって本当?》——**“バーター”**という軽い言葉が、軽さのままに刃物になる。

「……深呼吸、三回」

 自分に言い聞かせるように呟いて、私は息の出入口を整える。
 美緒から個別メッセージが届く。《見ないでいい。秋庭さんが怒ってる》
 すぐに、総務の秋庭からもチャットが飛んできた。

 《文書で殴れ。情じゃなく手続で。本日午前、法務と監査同席で資料体裁を最終確認する》

 “殴れ”という言葉に、かすかに笑ってしまった。暴力の対義語としての、手続。
 私たちは目の前に、紙を積み上げる。稟議の一枚図、承認ルートのスクリーンショット、出張精算の時刻の出典、そして——受理通知の原本。
 紙の角を揃えるたび、胸のざわめきは一段落ちる。角がそろった紙は、心の角もそろえてくれる。

 昼。
 社内掲示板のスレッドに、新しい投稿が上がった。ハンドルネームは——@Hydrangea。

 《愛を理由にルールを曲げない人は、愛でルールを守り抜く。
  “守るための嘘”は、嘘じゃない。
  “見せるための準備”が整ったら、同じ声量で“見せる”。》

 文体の骨の通り方。句読点の呼吸。
 私は、初めて確信した。
 画面に、声を置くみたいに、小さく呟く。

「ありがとう」

 周囲の雑音は消えない。けれど、心の中心に置き直した石が、重さでまわりの水音をおさめていく。

     ◇

 午後。
 私たちは、13:00の会議室に向けて、紙を持って歩く。
 抱えない。持つ。
 扉の前、呼吸を合わせるみたいに視線が合った。言葉はいらない。
 私は胸元のチェーンに触れて、指輪の内側の溝を指腹でなぞる。刻印は、いつも同じ場所にある。13:00。
 ——同時解禁。
 ——公開でのお願い。
 目の前の扉は厚いのに、向こう側で交わされる言葉の姿が、もう見える気がした。

「行こう」

「うん」

 ノック。
 返ってくる「どうぞ」の声は、冷蔵庫ではなく、湯気の温度だった。

 私たちは、入った。
 壊れかけていた沈黙を、選び直す勇気で終わらせるために。
 紙と、名前と、生活の速度を連れて。
 “あとで”じゃない“いま”の声量で、すべてを、見せに。