昼の社食は、いつもよりざわざわしていた。
揚げ物の油が新しく入れ替えられた匂い、味噌汁の湯気、プラスチックのトレーが重なる音。小さな騒ぎの粒が、盆の上で踊るみたいに弾む。
「——ここ、いい?」
美緒が先に席に着いて、向かいの椅子を軽く引いた。いつもなら私の隣に座る癖のある彼女が、今日は一つ空けてくれる。それが合図だった。
私は頷いて、空席を挟んで座る。間に置かれた空の椅子が、ガラスの壁の役目を果たす。視線を弾き、うわさ話を遠ざける。
「葵、ハンバーグ、好きだったっけ」
「今日はサバの気分。脂がほしい」
「じゃあ正解。良い焼き目」
サバの皮が箸先で音を立て、味噌汁の葱が輪っかになって口の中に入る。温度が、食道の途中でそっと止まり、胃の表面に広がる。
食べながら、耳の後ろで別のテーブルの会話がはぜる。
「——え、あのふたり、最近離れてない?」
「破局? いや、でも仕事ではやり取りしてるし」
「監査だし、距離置いてるだけじゃない?」
“だけじゃない”という言葉は、いつも、余計な余白を生む。
私は箸を置き、紙ナプキンで口元を押さえ、笑ってみせた。美緒が視線で「スルー」と書く。私はもう一度頷く。
「午後の資料、広報長チェック済んだ?」
「うん。数字の桁と固有名詞、三回見直した」
「よし。——ところでさ」
「うん」
「君の距離の取り方、プロフェッショナルだね」
「家で練習してるから」
「練習?」
「……うん、“指輪を外す稽古”」
美緒が一瞬だけ目を丸くした。
笑ってほしかったわけじゃない。けれど、彼女は声を出さずに笑って、サバの尻尾を指差した。「焦げ目、いいね」。
焦げ目、いい。そういう会話で、救われる午後もある。
◇
夜は、いつも通りに始まった。
玄関に靴を並べ、カバンをフックに下げ、エプロンの紐を背中で結ぶ。米びつの蓋を外すと、細かいプラスチックの擦れる音が鳴る。米を二合。水道の音。指先で米を研ぐ。白濁した水が、ボウルの縁を薄く洗う。
味噌は、先週買った赤。冷蔵庫の中に、祖母がくれた切り昆布と刻んだ油揚げ。鍋の底に沈む昆布が、ふっと浮き上がる瞬間を見るのが好きだ。
「味見、していい?」
「もちろん」
悠真は、いつも通り、湯気の中に顔を入れる。味噌汁の表面を箸で撫でて、真ん中に道を作る。江戸時代の船みたいに、湯気が左右に分かれる。
彼はレンゲを口に運び、舌の上に置き、少し目を細めた。
「もう一つ、塩気を。——でも、入れすぎないで」
「了解」
「それと、お椀を温める」
「ありがとうございます」
彼は蛇口からぬるま湯を出し、湯飲みとお椀を温める。手のひらで回すと、陶器が低い声で鳴く。
会社では少し冷たくして、と頼んだのは私だ。だけど、家では——彼の癖は消えない。消せない。湯飲みを温めてから差し出す、小さな習慣。
熱の移された器を受け取ると、指先からじんわり救われる。救われてしまう。
矛盾する優しさ。社内的には“疑惑の証拠”に見えかねないのに、生活の中では、この上なく正しい。
「会社では、少しだけ冷たくしてね」
「うん」
「見られてる」
「知ってる」
「私、あなたに無視されるの、わりと苦手」
「俺も、君に無視されるのは苦手」
「じゃあ、明日は——」
「しっかり無視する」
「やめて」
箸と箸が合図みたいに触れて、二人で笑った。笑いのあとは、味噌汁がさらに美味しくなる。
食後、テーブルを布巾で拭きながら、私はスマホを開く。社内匿名Q&A——相談掲示板に、昼のうちに投げておいた投稿のスレッドが伸びていた。
《利害関係が疑われ得る相手と仕事をする時、どこまで“距離”を可視化すべき?》
返信がいくつか。定型句のような意見もあれば、実務寄りの指摘もある。スクロールが止まったのは、ひとつのハンドルネームの投稿だった。
@Hydrangea:
《ルールを守るための距離は、嘘じゃない。
“隠す”と“見せない”は違う。
見せないものを明確にして、見せるべきものは全部、先にテーブルに出す。
その順番が、距離の設計。》
文章のリズム。文末の高さ。句読点の置き方。
どこかで見たことがある。どこかでずっと、近くで見てきた、言葉の骨組み。——悠真、に、似ている。
でも、私はそこで止めた。似ているからと言って、そうだと決めるのは、広報の悪手だ。意図と事実は別物。私はスマホを伏せ、代わりに鍋の蓋を開いた。
湯気が顔を撫でる。嗅覚は誤魔化しが効かない。味は嘘を嫌う。
掲示板に「ありがとう」とだけ打ち、送信した。その名前に、誰が入っていようと、言葉は正しかったから。
◇
監査は、こちらの予想よりも細かくて、遠かった。
出張精算の一件一件にまで遡って、承認順序の時刻を拾い、駅名の入力揺れまで指摘される。経企と広報の間で“忖度”があった形跡を探す、その熱量は、正直きつい。
広報課の島に戻ると、チャットツールのサムネイルが一斉に点いた。別部署の男性が、女性幹部と親しげに並んで写っている写真が回ってきている。
《これヤバない?》
《でも、あの二人よりはマシでしょ》
《あの二人って誰》
《ほら、広報の——》
比べないでほしい、と心の中でお願いしても、比べられる。
関係の無いスキャンダルが、逆照明になって、こちらの影を濃くする。
モニターの光が冷たく、椅子の背に預けた背中だけ、やけに熱い。
「葵」
美緒が、机の角にペンを落としてわざと音を立てる。目が合う。「お茶、いく?」
私は首を横に振って、代わりに水を飲んだ。紙コップが唇に当たる感触は頼りなく、でも、のどの奥は確実に潤う。
繰り返す。潤す。乾く。呼吸。
広報は、呼吸の仕事だ。吸う=情報を集める。吐く=言葉にする。どちらかが浅いと、頭が痛くなる。
画面の片隅で、通知がまた光る。社内掲示板のスレッドに、@Hydrangeaが追記していた。
《“距離を演じる”ことの代償は、誤解だ。
誤解は、透明なうちに片付ける。
透明にするために、時刻と根拠を先に置く。》
時刻。根拠。
私は胸の前でチェーンをそっと握った。指先の腹に、細い凹み。13:00。
演じる夜は、まだ続く。けれど、終わりは決めてある。
◇
夜更け。
洗濯機の予約ボタンを押して、回り始めの水音を背中に聞きながら、私は鏡台の前に座った。小さな手鏡。薄いティッシュ。指輪。
“指輪を外す稽古”。
外す→チェーンに通す→内側の“13:00”を見る→深呼吸→再び指にはめる。
これを三回。
後ろめたさではない。解禁の“正しい瞬間”まで守り抜くための筋トレ。
指輪は軽いけれど、意味は重い。重さの持ち運び方を、身体に覚えさせる。
ドレッサーの上には、祖母が編んでくれたコースターが置いてある。薄いピンクと白の糸で、花の模様。冷たいグラスを置くと、輪っかの跡が優しく守られる。
生活は、名もない手順と名もない配慮でできている。
だから、私は“匿名”に弱い。“匿名”は、名を名乗らない配慮の仮面にもなるし、責任を外すための覆いにもなるから。
チェーンが喉の上で少し動いて、金属の音が鳴った。
「——眠れる?」
背後から、ドアに額を預ける音と一緒に、悠真の声。
鏡の中の彼は、いつものスウェットに着替えて、肩がすこし落ちている。
私は振り向かずに答える。
「眠れる。——練習、もう一回だけ」
「見てていい?」
「見てて」
外す→通す→見る→息を入れる→戻す。
彼は黙って、最後まで見ていた。私が指輪を戻すと、やっと、短く息を吐いた。
「上手」
「ありがとう。褒められて伸びるタイプ」
「知ってる」
「ねえ」
「うん」
「会社では、少しだけ冷たくしてね」
「俺も君に頼みたい」
「なに」
「会社では、少しだけ怒って」
「怒る?」
「うん。“近づくな”って顔で。演技。俺が甘くなるから」
「……がんばる」
二人で笑う。笑って、静かになって、静けさが部屋の角に沈む。
私は椅子から立ち上がり、洗面所で手を洗ってから、台所に水を飲みに行った。ステンレスのシンクに、蛇口の水が跳ねて光る。
蛇口を閉める音が、不思議と大きく聞こえた。
◇
午前零時を少し過ぎたころ、スマホが震えた。
画面には、未知の内線番号からのメッセージが点いている。差出人は、監査法人の——高城。
“面談前に確認したい文書がある。可能なら明朝、コピーを持参してほしい。——結婚に関する社外の受理通知。”
胸の奥で、金属音が鳴るような気がした。
なぜ、監査がそれを。人事の許諾がなければ出ないはずの書類。どこから、その情報が。
私が画面を見つめていると、背中に気配が近づいた。悠真が、覗き込む。
「高城さん?」
「うん。『受理通知』——明日、持ってきてって」
「……そうか」
彼は一歩だけ私の隣に来て、画面を自分の目の高さに合わせる。文面を読み終わると、ゆっくりと頷いた。
「怖い?」
「少し」
「俺も」
「でも——」
「逃げない」
同じ言葉が、夜の台所に並ぶ。
蛇口の下に置いたコップに、水をもう一杯注ぎ、二人で半分ずつ飲んだ。コップの縁が、口に当たる感触だけが、やけに現実的だ。
「明日、人事に一報を入れる。秋庭さんにも。書類の扱い、ルール通りに」
「うん」
「それから、——葵」
「なに」
「“匿名”は、匿名でいさせていい。こっちは、名前で返すだけ」
「名前で、返す」
「斎藤葵として。氷室悠真として」
名前。
私たちの名前。社内では距離を演じているけれど、名前はずっと、ここにいる。
私は頷き、スマホに短く返信を打った。《了解しました。明朝持参します。》送信。
送信音が、夜を二つに割る。
時計の秒針が、静かに進む。
私はチェーンの下の指輪に触れた。内側の数字は、変わらない。13:00。
明日、その数字は、紙の上でも音になる。監査の会議室で、ラベルプリンタの白いシールが吐き出す音と同じくらい、はっきりと。
私たちは台所の灯りを消した。暗さが、床の木目を柔らかくする。
寝室に向かう途中、リビングのソファの背に指を滑らせる。布の手触り。生活の温度。
——監査は、私たちが既婚だと把握しているのか。
——誰が、流したのか。
問いは、枕元までついてきた。
目を閉じる。呼吸を数える。息は、数えると落ち着く。
明日の朝、私は受理通知の封筒を、いつもの書類と同じように、クリアファイルに入れて持っていく。
生活の手順で、恋を守る。
透明に、丁寧に。
夜が、やっと、深くなっていった。
揚げ物の油が新しく入れ替えられた匂い、味噌汁の湯気、プラスチックのトレーが重なる音。小さな騒ぎの粒が、盆の上で踊るみたいに弾む。
「——ここ、いい?」
美緒が先に席に着いて、向かいの椅子を軽く引いた。いつもなら私の隣に座る癖のある彼女が、今日は一つ空けてくれる。それが合図だった。
私は頷いて、空席を挟んで座る。間に置かれた空の椅子が、ガラスの壁の役目を果たす。視線を弾き、うわさ話を遠ざける。
「葵、ハンバーグ、好きだったっけ」
「今日はサバの気分。脂がほしい」
「じゃあ正解。良い焼き目」
サバの皮が箸先で音を立て、味噌汁の葱が輪っかになって口の中に入る。温度が、食道の途中でそっと止まり、胃の表面に広がる。
食べながら、耳の後ろで別のテーブルの会話がはぜる。
「——え、あのふたり、最近離れてない?」
「破局? いや、でも仕事ではやり取りしてるし」
「監査だし、距離置いてるだけじゃない?」
“だけじゃない”という言葉は、いつも、余計な余白を生む。
私は箸を置き、紙ナプキンで口元を押さえ、笑ってみせた。美緒が視線で「スルー」と書く。私はもう一度頷く。
「午後の資料、広報長チェック済んだ?」
「うん。数字の桁と固有名詞、三回見直した」
「よし。——ところでさ」
「うん」
「君の距離の取り方、プロフェッショナルだね」
「家で練習してるから」
「練習?」
「……うん、“指輪を外す稽古”」
美緒が一瞬だけ目を丸くした。
笑ってほしかったわけじゃない。けれど、彼女は声を出さずに笑って、サバの尻尾を指差した。「焦げ目、いいね」。
焦げ目、いい。そういう会話で、救われる午後もある。
◇
夜は、いつも通りに始まった。
玄関に靴を並べ、カバンをフックに下げ、エプロンの紐を背中で結ぶ。米びつの蓋を外すと、細かいプラスチックの擦れる音が鳴る。米を二合。水道の音。指先で米を研ぐ。白濁した水が、ボウルの縁を薄く洗う。
味噌は、先週買った赤。冷蔵庫の中に、祖母がくれた切り昆布と刻んだ油揚げ。鍋の底に沈む昆布が、ふっと浮き上がる瞬間を見るのが好きだ。
「味見、していい?」
「もちろん」
悠真は、いつも通り、湯気の中に顔を入れる。味噌汁の表面を箸で撫でて、真ん中に道を作る。江戸時代の船みたいに、湯気が左右に分かれる。
彼はレンゲを口に運び、舌の上に置き、少し目を細めた。
「もう一つ、塩気を。——でも、入れすぎないで」
「了解」
「それと、お椀を温める」
「ありがとうございます」
彼は蛇口からぬるま湯を出し、湯飲みとお椀を温める。手のひらで回すと、陶器が低い声で鳴く。
会社では少し冷たくして、と頼んだのは私だ。だけど、家では——彼の癖は消えない。消せない。湯飲みを温めてから差し出す、小さな習慣。
熱の移された器を受け取ると、指先からじんわり救われる。救われてしまう。
矛盾する優しさ。社内的には“疑惑の証拠”に見えかねないのに、生活の中では、この上なく正しい。
「会社では、少しだけ冷たくしてね」
「うん」
「見られてる」
「知ってる」
「私、あなたに無視されるの、わりと苦手」
「俺も、君に無視されるのは苦手」
「じゃあ、明日は——」
「しっかり無視する」
「やめて」
箸と箸が合図みたいに触れて、二人で笑った。笑いのあとは、味噌汁がさらに美味しくなる。
食後、テーブルを布巾で拭きながら、私はスマホを開く。社内匿名Q&A——相談掲示板に、昼のうちに投げておいた投稿のスレッドが伸びていた。
《利害関係が疑われ得る相手と仕事をする時、どこまで“距離”を可視化すべき?》
返信がいくつか。定型句のような意見もあれば、実務寄りの指摘もある。スクロールが止まったのは、ひとつのハンドルネームの投稿だった。
@Hydrangea:
《ルールを守るための距離は、嘘じゃない。
“隠す”と“見せない”は違う。
見せないものを明確にして、見せるべきものは全部、先にテーブルに出す。
その順番が、距離の設計。》
文章のリズム。文末の高さ。句読点の置き方。
どこかで見たことがある。どこかでずっと、近くで見てきた、言葉の骨組み。——悠真、に、似ている。
でも、私はそこで止めた。似ているからと言って、そうだと決めるのは、広報の悪手だ。意図と事実は別物。私はスマホを伏せ、代わりに鍋の蓋を開いた。
湯気が顔を撫でる。嗅覚は誤魔化しが効かない。味は嘘を嫌う。
掲示板に「ありがとう」とだけ打ち、送信した。その名前に、誰が入っていようと、言葉は正しかったから。
◇
監査は、こちらの予想よりも細かくて、遠かった。
出張精算の一件一件にまで遡って、承認順序の時刻を拾い、駅名の入力揺れまで指摘される。経企と広報の間で“忖度”があった形跡を探す、その熱量は、正直きつい。
広報課の島に戻ると、チャットツールのサムネイルが一斉に点いた。別部署の男性が、女性幹部と親しげに並んで写っている写真が回ってきている。
《これヤバない?》
《でも、あの二人よりはマシでしょ》
《あの二人って誰》
《ほら、広報の——》
比べないでほしい、と心の中でお願いしても、比べられる。
関係の無いスキャンダルが、逆照明になって、こちらの影を濃くする。
モニターの光が冷たく、椅子の背に預けた背中だけ、やけに熱い。
「葵」
美緒が、机の角にペンを落としてわざと音を立てる。目が合う。「お茶、いく?」
私は首を横に振って、代わりに水を飲んだ。紙コップが唇に当たる感触は頼りなく、でも、のどの奥は確実に潤う。
繰り返す。潤す。乾く。呼吸。
広報は、呼吸の仕事だ。吸う=情報を集める。吐く=言葉にする。どちらかが浅いと、頭が痛くなる。
画面の片隅で、通知がまた光る。社内掲示板のスレッドに、@Hydrangeaが追記していた。
《“距離を演じる”ことの代償は、誤解だ。
誤解は、透明なうちに片付ける。
透明にするために、時刻と根拠を先に置く。》
時刻。根拠。
私は胸の前でチェーンをそっと握った。指先の腹に、細い凹み。13:00。
演じる夜は、まだ続く。けれど、終わりは決めてある。
◇
夜更け。
洗濯機の予約ボタンを押して、回り始めの水音を背中に聞きながら、私は鏡台の前に座った。小さな手鏡。薄いティッシュ。指輪。
“指輪を外す稽古”。
外す→チェーンに通す→内側の“13:00”を見る→深呼吸→再び指にはめる。
これを三回。
後ろめたさではない。解禁の“正しい瞬間”まで守り抜くための筋トレ。
指輪は軽いけれど、意味は重い。重さの持ち運び方を、身体に覚えさせる。
ドレッサーの上には、祖母が編んでくれたコースターが置いてある。薄いピンクと白の糸で、花の模様。冷たいグラスを置くと、輪っかの跡が優しく守られる。
生活は、名もない手順と名もない配慮でできている。
だから、私は“匿名”に弱い。“匿名”は、名を名乗らない配慮の仮面にもなるし、責任を外すための覆いにもなるから。
チェーンが喉の上で少し動いて、金属の音が鳴った。
「——眠れる?」
背後から、ドアに額を預ける音と一緒に、悠真の声。
鏡の中の彼は、いつものスウェットに着替えて、肩がすこし落ちている。
私は振り向かずに答える。
「眠れる。——練習、もう一回だけ」
「見てていい?」
「見てて」
外す→通す→見る→息を入れる→戻す。
彼は黙って、最後まで見ていた。私が指輪を戻すと、やっと、短く息を吐いた。
「上手」
「ありがとう。褒められて伸びるタイプ」
「知ってる」
「ねえ」
「うん」
「会社では、少しだけ冷たくしてね」
「俺も君に頼みたい」
「なに」
「会社では、少しだけ怒って」
「怒る?」
「うん。“近づくな”って顔で。演技。俺が甘くなるから」
「……がんばる」
二人で笑う。笑って、静かになって、静けさが部屋の角に沈む。
私は椅子から立ち上がり、洗面所で手を洗ってから、台所に水を飲みに行った。ステンレスのシンクに、蛇口の水が跳ねて光る。
蛇口を閉める音が、不思議と大きく聞こえた。
◇
午前零時を少し過ぎたころ、スマホが震えた。
画面には、未知の内線番号からのメッセージが点いている。差出人は、監査法人の——高城。
“面談前に確認したい文書がある。可能なら明朝、コピーを持参してほしい。——結婚に関する社外の受理通知。”
胸の奥で、金属音が鳴るような気がした。
なぜ、監査がそれを。人事の許諾がなければ出ないはずの書類。どこから、その情報が。
私が画面を見つめていると、背中に気配が近づいた。悠真が、覗き込む。
「高城さん?」
「うん。『受理通知』——明日、持ってきてって」
「……そうか」
彼は一歩だけ私の隣に来て、画面を自分の目の高さに合わせる。文面を読み終わると、ゆっくりと頷いた。
「怖い?」
「少し」
「俺も」
「でも——」
「逃げない」
同じ言葉が、夜の台所に並ぶ。
蛇口の下に置いたコップに、水をもう一杯注ぎ、二人で半分ずつ飲んだ。コップの縁が、口に当たる感触だけが、やけに現実的だ。
「明日、人事に一報を入れる。秋庭さんにも。書類の扱い、ルール通りに」
「うん」
「それから、——葵」
「なに」
「“匿名”は、匿名でいさせていい。こっちは、名前で返すだけ」
「名前で、返す」
「斎藤葵として。氷室悠真として」
名前。
私たちの名前。社内では距離を演じているけれど、名前はずっと、ここにいる。
私は頷き、スマホに短く返信を打った。《了解しました。明朝持参します。》送信。
送信音が、夜を二つに割る。
時計の秒針が、静かに進む。
私はチェーンの下の指輪に触れた。内側の数字は、変わらない。13:00。
明日、その数字は、紙の上でも音になる。監査の会議室で、ラベルプリンタの白いシールが吐き出す音と同じくらい、はっきりと。
私たちは台所の灯りを消した。暗さが、床の木目を柔らかくする。
寝室に向かう途中、リビングのソファの背に指を滑らせる。布の手触り。生活の温度。
——監査は、私たちが既婚だと把握しているのか。
——誰が、流したのか。
問いは、枕元までついてきた。
目を閉じる。呼吸を数える。息は、数えると落ち着く。
明日の朝、私は受理通知の封筒を、いつもの書類と同じように、クリアファイルに入れて持っていく。
生活の手順で、恋を守る。
透明に、丁寧に。
夜が、やっと、深くなっていった。

