監査初日の朝は、いつもより床が硬く感じた。
 靴底が廊下に当たる音が、乾いた板書きみたいに耳に残る。会議室の前で来訪者用のラベルプリンタが忙しなく唸り、白いシールが次々と吐き出される。社名、氏名、そして「監査」。貼られた名札は、病院のリストバンドに似ている。状態を管理される側とする側、その境目を、ペリッと一枚で作ってしまう簡単さに、私は少しだけ寒気がした。

 ガラスの壁越しに、黒いスーツの人々が座る。
 広報課の席に資料束を置いて、私は深呼吸を一度。今日提出するのは、稟議フロー、承認者リスト、メールの送受列を時系列で束ねた一式。見出しに番号。段落に時刻。東野圭吾の章立てみたいに、迷いのない順番で並べた。手に持つと、紙の重みが掌に均等に分散される。手触りが落ち着きを作る。

「葵、準備、いけそう?」

 同期の美緒が、斜め後ろから囁く。彼女は社内の空気の湿度まで読めるひとだ。視線だけで“飲み物持っていく?”と聞かれた気がして、私は笑って、首を横に振った。

「大丈夫。喉は、言葉で湿らせる」

「それ広報の人が言うやつ?」

「うちの部署だから許される」

 軽口を一つ置いて、会議室のドアをノックする。
 中には、監査法人の高城と、そのチーム。総務の秋庭もいる。秋庭は規程ガチ勢だが、骨は真っすぐだ。彼がいるだけで、ルールは味方になってくれる気がする。

「広報課の——」

「斎藤葵です。本日は、案件群のフローと承認経路、ならびに判断の独立性を示す資料をお持ちしました」

 椅子に腰掛ける前に、紙束をテーブル中央へ。
 高城が目元だけで会釈する。彼の視線は乾いている。こちらの“言いたさ”に濡れない、いい視線だ。

「ありがとうございます。まず、利害関係の管理についてうかがいます。業務上、経営企画との接点はどの程度ありますか」

「案件ごとに初期ヒアリングと方針すり合わせを行います。ただし最終決裁は広報長と役員側、経企の承認はあくまで预算とKPI妥当性の確認で、意思決定は分離しています」

「その分離を確認できる資料は」

「こちらです。案件番号A-03からA-17まで、承認時刻と関与者を一枚図にしました」

 紙を滑らせると、ペン先が紙の上で止まるときの、あのわずかな抵抗が心地よい。
 高城は図を追い、秋庭が横から補足する。「承認権限規程の第十二条を根拠に、システム上も承認ルートを固定しています」と。
 言葉が骨に届くのがわかる。空中戦でなく、着地した会話は重力がある。

「もう一点うかがいます。同居や婚姻など、申告対象となる関係は現時点でありますか」

 来た。
 この質問に対する答えは、事前に人事とすり合わせている。——「現時点で申告対象となる関係はありません」。
 嘘のようで、嘘ではない。申告の受理タイミングが、人事側の“配置調整に伴う保留”になっているから。
 私は、口の中で言葉の角を丸くしてから、真っ直ぐに置いた。

「現時点で申告対象となる関係は、ありません」

 高城は、わずかに頷くだけだった。詮索の色はない。
 それでも、曖昧さは、外に出た瞬間に別の温度で燃える。噂の燃料は、いつだって中途半端だ。
 質疑が一通り終わると、次は経営企画側の面談だ。廊下に出ると、ほどなく悠真がやってきた。
 同じフロアに住んでいる猫みたいに、視線だけで合図を交わす。

「どう?」

「図は効いた。高城さん、事実が好き」

「こっちも同じ。——午後の枠、確認した?」

「見た。13:00、二人とも入ってる」

「うん」

 短く頷いて、それ以上は言葉を重ねない。廊下には耳がある。壁にも、天井にも。
 それでも、視線の端で、彼のスーツの袖にわずかに付いた紙埃を見つけて、指先が動きそうになる。手を伸ばさないという選択を、選び続ける疲労。
 代わりに、私はポケットの中で、チェーンの先の指輪に触れた。内側の刻印が、指腹の皮膚に小さく引っかかる。13:00。未来の鐘。

     ◇

 その日の昼、社内ポータルに部門再編の内示が落ちた。
 画面をスクロールする指が冷たくなる。
 新設の地方拠点に、広報担当を置く計画。その候補リストに、私の名前が入っていた。昇進に等しい。プロジェクトの規模も、やりがいも、広報屋として喉が鳴る。——同時に、胸の奥で生活がきしむ。祖母の在宅介護のサポート。夜間の見守り。家の小さな段差。生活の地図に、無理なラインを引く想像がよぎる。

「……ねえ」

 席の仕切り越しに、美緒が覗く。
 彼女はすでに把握している顔をしていた。社内の風向きを読むのが、彼女の特技だ。

「見たよ。候補リスト」

「うん」

「行きたい?」

「仕事としては、行きたい。——でも、生活は、いまが整ってる」

「どっちも正しい」

「どっちも正しいね」

 正しさが二つあるとき、人はたいてい、黙る。
 私は黙って、画面を閉じた。沈黙は、迷いの証拠でも、逃げでもない。言葉の生煮えを避けるための冷蔵庫みたいなもの。ちゃんと冷やしてから、切る。

     ◇

 夜。
 リビングのテーブルに白紙を三枚置いた。上部中央に、ボールペンで番号を書く。
 ① 監査へ提出する事実
 ② 人事への最終申告日
 ③ 異動が決まった場合の生活動線

「指差し確認みたいだね」

 悠真が笑う。彼はコップに水を注ぎ、私の前に置く。氷の音が、ひとつ鳴った。

「笑ってる場合じゃないです。——まず①。監査に出す“事実”の境界線。印象や推測は紙から排除。事実だけ」

「賛成。時刻、文書、関与者、決裁権限。数えるものだけ、数える」

「②。人事への最終申告日。配置調整の目処、秋庭さんに確認済み?」

「日程案を三つもらってる。最短は来週金曜。13:00空いてた」

「そこ好きですね、あなた」

「うん。約束の数字は、迷子にならない」

「③。異動になった場合の生活動線。祖母の夜間、どうします?」

「シルバーの夜間サポートを二枠増やす。費用は俺の持ち出し。葵の通勤は最小限——地方拠点立ち上げの初期だけ現地で、それ以外はオンライン体制に切り替える交渉を広報長に」

「現実的」

「うん。——葵」

「はい」

「俺の判断は、私的利益ゼロの設計で作る。これは約束」

 “約束”という単語は、軽く言うと軽くなるのに、彼が言うと重さが出る。
 私はペン先を紙から離して、彼の顔を見る。
 真面目だな、と思う。真面目な男の顔は、見ていて落ち着く。

「配置転換になっても、恋は異動しない」

 言った瞬間、自分で驚くくらい、胸のどこかがカチリと鳴った。
 宣言は、宣言の形をしているだけで、実は未来の自分への指示書だ。私は未来の自分に命令した——“ぶれないで”。

「了解。業務は動かす。恋は動かさない。その設計で行く」

 私たちは三枚の紙に、箇条書きを増やした。監査に提出するファイル名の統一、承認者の証跡の所在、人事に出す申告書式の添付書類。生活動線には、祖母の通院曜日、宅配の時間帯、洗濯機の予約運転の時刻まで書いた。
 生活は、数字になる。数字は、生活を守る。小川糸の台所みたいに、静かな手順で。

     ◇

「——一点、伝達です」

 夜も遅く、総務の秋庭からメッセージが入った。グループチャットの文面は簡潔だった。
 《監査側から、匿名通報の実名化が示唆された。内部牽制の観点。希望者のみ、面談に同席可。13:00の枠は両名で設定》
 画面の光が、部屋の空気を青くする。

「実名化……」

 私は思わず言葉を零す。
 匿名は、いつも霧だった。霧は濡らすけれど、刺さない。名前がつくと、霧は針になる。
 誰が、出てくるのだろう。誰が、私たちの名前の隣に、自分の名前を置きに来るのだろう。

「大丈夫」

 悠真が言った。即答で。
 彼は机の端に置きっぱなしのクリアファイルを整え、フロー図をもう一度重ね直す。手つきが落ち着いていて、その落ち着きが、部屋の壁の角をやわらげる。

「事実だけ持っていく。噂は持ち込まない。実名の質問にも、実名の事実で返す」

「うん」

「それから——」

「それから?」

「葵」

「はい」

「怖いなら、怖いって言って」

 胸の真ん中、指輪のすぐ裏側に、柔らかい電気が灯る。
 彼は、勇気を要求しない。報告だけ求める。「怖いなら怖いと言って」と。
 私は頷いた。喉の奥に重く沈んでいたものが、少し位置を変える。

「怖い。——でも、逃げない」

「知ってる」

 彼は、静かに笑った。
 笑いの温度がちょうど良くて、私は、テーブルに置いたペンのキャップを、ぎゅっと閉める音を聞いた。カチリ。うまく閉まる音は、明日がうまく始まる合図に似ている。

     ◇

 夜更け、窓の外は雨の気配を手放し、かわりに風が建物の角を撫でていく。
 私は洗面所で、チェーンに提げた指輪を一度外し、金の内側を親指でなぞる。刻まれた数字の溝は浅いのに、触れると確かにそこにある。13:00。
 鏡越しに自分の目を見る。少し赤い。
 たぶん、泣いてはいない。泣きたいのに泣かないとき、目は赤くなる。泣いてしまえば、白く戻るのに。
 私は水を飲み、息を三回深く吐く。息は見えない。見えないけれど、肺の奥に折り畳んである小さな紙を、一枚ずつ広げるみたいに落ち着く。

 寝室の灯りを落とすと、部屋の輪郭が柔らかくなった。
 布団に入る前、リビングから小さな音がした。紙が重なる音、ペンが止まる音、椅子が引かれる音。生活の音だ。
 私はドアの影から、そっと顔だけ出した。

「——まだやるの?」

「最後の確認」

「寝る前に、“おやすみ”だけ言いたくて」

「言った」

「うん」

「おやすみ、葵」

「おやすみ」

 ひとつの言葉を、二回ずつ交わす。
 それだけで、深い穴の縁から半歩離れられる夜がある。
 私はベッドに潜り、毛布の端を顎まで引き上げた。冷たい足先が、じきに自分の体温で温まっていくのを待ちながら、目を閉じた。

     ◇

 翌朝。
 会議室の前、ラベルプリンタはまた白いシールを吐き出している。
 廊下を歩くスーツの布音が重なり、電話のコールが遠くでちいさく鳴る。時間は流れているのに、今日の13:00だけ、柱時計の振り子が凝視しているみたいに意識の中で止まっている。

 画面のカレンダーに、13:00の文字が並ぶ。
 監査面談——斎藤葵、経営企画・氷室悠真。同時刻、同会議室。
 その下に、小さな追記がある。《匿名通報の提出者、希望により同席可》
 私は息を吸い、吐いた。
 怖い。——でも、逃げない。
 チェーンの下で、指輪が胸元に触れる。金属がかすかに、心臓の鼓動と合唱する。
 今日、言うべき言葉は、ぜんぶ紙の上に並べた。
 今日、守るべき生活は、箇条書きにして冷蔵庫に貼った。祖母の薬、牛乳の本数、洗濯機の予約。
 恋は異動しない。
 私は席を立ち、紙束を抱きしめずに、手に持つ。抱きしめるのは、人でいい。紙は、持てばいい。

 廊下の角を曲がった先、経営企画の島。
 悠真が、同じ厚みの紙束を手に、こちらに歩いてくる。
 目は合わない距離だ。けれど、歩幅は同じだ。
 13:00。
 お互いの“怖い”と“逃げない”が、同じ時刻で合わさる場所まで、あと二十七分。
 私は、広報の扉に手をかけ、胸の中で小さく告げた。

 ——行こう。事実で、守りに行く。
 ——そして、その場に、恋を連れていく。

 会議室の前で、ラベルプリンタがまた一枚、白いシールを吐き出す音がした。
 「監査」。
 私はドアをノックし、静かに開けた。