梅雨明け前の雨は、湯気みたいだった。
 ビルの自動ドアが開くたび、冷房と外気が喧嘩して、足首にまとわりつく。定時の打刻を終えて、広報課のフロアからエントランスまでの移動時間を、私はもう何十回も計っている。五分——混んでいなければ四分半。今日の私は、たぶん四分二十秒。

「送るよ。傘、置いてって」

 背中で聞き慣れた声がして、振り向くより早く、黒い傘の骨が私の頭上にすべり込んだ。
 悠真は、経営企画の人間らしく、動作が数字みたいに正確だ。差し出す角度も、肩の位置も、いつも同じ。だけど——雨の日だけ、彼は少しだけ正確さを崩す。私の肩を、あらかじめ受け止めるみたいに引き寄せる。その癖が、好きだ。

「ありがとうございます。……いや、ありがとうございますって言うと、なんか他人行儀ですね」

「会社の外に出るまでは、いちおうね。葵さん」

 わざと名字で呼ばれて、私は眉をしかめたふりをした。
 自動ドアの向こうは、夕立の続き。歩道の縁石が薄く滲んで、タクシーの尾灯が金魚みたいに泳いでいる。傘の内側だけが、布団の中みたいに静かだ。耳の近くで雨粒がはぜる音。湿った空気の匂い。近い距離に、いつもの香り。洗濯洗剤と、彼の手の温度。

「エントランス、やたら人多いですね」

「監査の人たち、今日から来てるらしい。見慣れないネームホルダー、たくさんいた」

「第三者監査……匿名通報窓口も、開くって」

「知ってる。——大丈夫。数字で証明する」

 彼はいつもの調子で、余計な言葉を削る。
 わかっている。言い訳より、根拠を。感情より、手順を。広報の私は“言葉で守る”役目だけれど、彼の“数字で守る”という言い方が、結局いちばん、私を安心させる。

 横断歩道の信号が赤に変わって、二人で足を止める。傘の外は人混み、内側は、私たちの家みたいに呼吸が合う。
 それでも、ここは会社の前だ。見知った誰かがすれ違うたび、私たちはほんの少しだけ、肩を離す。芝居が下手になってきたな、と内心で苦笑して、私は小さく囁く。

「……雨、長引きそうですね」

「うん。今日はタクシー取る。ほら、濡れたら風邪引く」

「子ども扱いですか」

「配偶者扱い」

 その一言が、傘の骨に溜まった水滴みたいに胸に落ちた。
 嬉しいのに、どこかちくりとする。——会社の前でそれを言うの、反則。彼は、わかって言っている節がある。ずるいな、と思う。ずるいのに、好きだ。

     ◇

 畳の軋む音は、一日の終わりの合図だ。
 築年数の古い賃貸の二階。玄関で靴を揃え、台所に置いた布巾の乾き具合を確かめ、急須の蓋を少しだけずらして湯気を逃がす。小川糸の本に出てきそうな、ささやかな手順。二人分の湯呑み、二人分の箸。ゆっくり減っていく、食器用洗剤のボトル。生活のどれもが、私たちが夫婦であることの、静かな証拠だった。

 洗濯機から吐き出されたばかりのTシャツを取り出し、糸の飛び出したタグを、爪切りでちょきんと切る。
 そのとき、スマホが震えた。
 画面を見て、私は息をつめる。社内掲示板の更新通知。「第三者監査実施のお知らせ」。そして、匿名通報窓口の開設。文面は乾いているのに、背中にひやりとした水が這った。

「来たね」

 背後から、悠真の声。彼はキッチンで味噌汁の味を見ていた。蓋を少しずらして、蒸気で顔を曇らせながら、こちらに歩いてくる。
 彼は私のスマホを、私の目線に合わせる高さで受け取り、ちょっとだけ首を傾げた。

「どこが怖い?」

「……“匿名通報窓口”。言葉が一人歩きする。『広報課と経営企画の癒着』って、今日の昼もチャットで流れてました」

「見た。ヘルスケアの連携も、いったん切ろう」

 彼は私のスマホを手に取り、ペアリングしていた体温計アプリの設定画面を器用に開いた。
 毎朝、寝起きの体温を記録している。冬に風邪を引いたとき、病院の先生が勧めてくれたからだ。アプリには、共有のチェックが入っている。体温のグラフの下に、小さな吹き出しで「昨日だるそうだった」とか「今夜は早寝しよう」とか、二人の短いメモが残っている。私たちの生活の痕跡。

「今だけ“わたしたち”の痕跡を減らそう」

 彼はできあがった味噌汁を器に注ぎながら、淡々と言った。
 触れないことで守る。距離を置くことで、近さの価値を守る。理屈はわかる。頭では頷けるのに、胸のどこかが、子どもみたいに拗ねている。わかるよ、でも寂しいって。

「ねえ」

「ん?」

「私、間違ってないよね」

「間違ってない。規程遵守のための一時的秘匿。人事の指示で“申告の受理待ち”。——全部、正しい」

「嘘じゃないよね」

「嘘じゃない。だから、堂々と隠す」

 “堂々と隠す”という言い方に、ふっと笑ってしまう。
 彼のこういうところが好きだ。感情を軽く否定して、代わりに言葉の骨組みを出してくる。骨組みに手を添えて、組み上げるのは私の仕事だ。広報の文案みたいに。

「お味噌汁、すこし薄め?」

「葵の好み、今日の気圧だとこれくらい」

「私、気圧で味の好み変わるんですか」

「データ的には有意」

「統計で愛を語らないでください」

「語ってない。使ってる」

 気が抜けて、笑って、湯気ごと肩の強張りがほどける。
 台所の蛍光灯の下で、彼は箸の先で豆腐をそっと押さえる。柔らかいものに触れる手つき。机に器を置く音も、彼はいつも静かだ。静かな音の連続は、暮らしの機嫌を良くする。そういうことを、私はこの家で覚えた。

 食卓につく。おかずは、茄子の揚げ浸し、きゅうりの浅漬け、鮭の西京焼き。雨の日は、油を吸った茄子が美味しい。皿を手にした瞬間から、舌が期待をはじめる。
 箸を伸ばしながら、私はもう一度、スマホの画面を横目で見た。——匿名通報。
 言葉の形をしているのに、正体は誰かわからない気配。その不確かさが、息を浅くする。

「監査、長引くかな」

「長引かせない。時系列の資料、今夜まとめ直す。明日以降、各案件の承認経路を一枚図で出す。広報は、案件の背景説明と関係者の役割定義を書いて」

「了解。図と、言葉」

「うん。——葵」

「はい」

「生ぬるい言葉で誤魔化さないやつで、頼む」

「任せてください」

 口に運んだ味噌汁が、ちょうどの温度だった。舌の上で、わずかに甘く、喉の奥で塩気が落ちつく。
 人に優しくすることと、手順に厳しくすることは、矛盾しない。そう言える自分でいたい。私はスプーンではなく、箸で豆腐を掴みながら、心の中で小さくうなずいた。

     ◇

 洗濯機が二巡目に入った頃、雨脚は細くなった。
 リビングの床に、A4の紙束を広げる。稟議フロー。承認者リスト。メールのヘッダ。ファイル名についた日時。マーカーを色分けして、矢印を引く。
 私は仕事になると、紙を触りたくなる。画面より、指で紙の端を撫でながら考えたい。紙に、生活の音が移る。鉛筆の音、マーカーの蓋の乾いた吸い付き、クリップの金属音。そうやって組み上げた図は、私の“言葉の骨組み”になる。

 ふと、スマホが鳴った。社内チャットで回ってきたスクリーンショットに、見覚えのある文言が踊る。
 《広報と経企、癒着してるらしいよ》
 ——らしい、の“ら”。匿名通報は、つねに“ら”で成り立つ。誰かの“ら”に、誰かの不安が吸い寄せられて、根拠みたいな重さを持つ。根拠じゃないのに、重い。

「——ね」

 声に出したつもりはなかったのに、あなた、と声が漏れていた。
 悠真が、隣でプリンターの余白を切りながら、顔を上げる。私の画面を見て、眉を寄せる。
 彼は少しだけ考えてから、ゆっくり首を振った。

「“癒着”って言葉は強すぎる。——言葉に負けないで。こっちの言葉を、強く、丁寧に」

「強く、丁寧に」

「うん」

 強く、丁寧に。
 私は同じ言葉を復唱して、吸い込まれそうな不安に、四角い枠を描くみたいに深呼吸をした。

「……ねえ、アプリ。ほんとに、切ります?」

「切る」

「私、ちょっと寂しいです」

「俺も」

 即答だった。迷いがなかった。
 彼はスマホを返す前に、画面を私の方へ傾けて、確認させてくれる。共有のチェックが外れ、グラフの下の吹き出しが、私だけのものになった。寂しい。だけど、それでいい。

「今だけ」

「今だけ」

「あとで、戻す」

「もちろん」

 そのやりとりの、短さと確かさが、胸の中心に灯を入れる。
 “今だけ”をきちんと約束できる人と暮らしている。私は、その事実を撫でるように、紙の角を整えた。

     ◇

 深夜、洗濯機が止んで、家の音が一段落した。
 窓の外から、雨だれがまだ落ちている気配。秒針の音が、久しぶりに耳に残る。
 私は引き出しから細いチェーンを取り出し、左手の薬指の指輪を、静かに外した。くるり、と金属がひっくり返って、内側の刻印が灯りを拾う。

 “13:00”

 約束の時刻。
 ふざけた合図みたいだけれど、私たちにとっては、手続と感情が握手する時間。人事の受理が動き、監査の面談が始まる、その刻。
 指輪はチェーンの先でころりと揺れた。私はそれを胸元に掛け、軽く触れる。肌に冷たく、でもすぐ、体温で温まる。

 リビングに戻ると、悠真がソファに座って、作ったばかりのフロー図を眺めていた。
 彼は私の胸元を見て、目尻だけで笑った。

「似合う」

「ありがとう」

「それ、いつ戻す?」

「今日のところは、寝るまでに一回。明日は、会社にいる間は、チェーンのまま。——13:00になったら、返して」

「了解」

「一回しか言いませんよ」

「うん」

 会話のテンポは、有川浩の小説みたいにぽんぽんと弾んで、でも余白は汐見さんのページみたいに静かだ。
 私はソファに腰を下ろし、フロー図の上に手を置いた。

「ねえ」

「うん」

「——私たち、ちゃんとやれてるよね」

「やれてる。だから、堂々と隠して、堂々と出す」

「堂々と出す、のほうがちょっと怖い」

「俺も。だから“13:00”」

 数字で勇気を測る。そんなふうに笑えるのは、彼とだけだ。
 私は頷き、彼の肩に頭を預ける。近い距離。傘の内側みたいな距離。会社の前では演技が必要でも、ここでは演技がいらない。

「——葵」

「なに」

「明日、雨やむかな」

「どうだろう。やんだら、傘の言い訳が消えますね」

「別の言い訳、考える」

「たとえば?」

「“コンプライアンス月間だから、伴走”」

「いやそれ、逆に怪しいです」

 二人で笑って、笑いが落ち着いたあと、少しだけ静かな間が降りる。
 私はその間の真ん中に、小さな声で置く。

「触れたい」

「触れたい」

 彼は答える。即答で。
 そのあと、ほんの一拍だけ置いてから、続ける。

「——でも、今日は我慢する。明日、資料が揃って、面談の時間が決まる。そこで、ちゃんと触る。公に」

「公に、触る」

「“夫だから”って」

 言葉の温度が、リビングの空気に溶ける。
 私は目を閉じて、指先でチェーンの上の指輪をなぞった。金属の縁、刻印の細い凹み。そこに“13:00”が確かにある。未来の小さな鐘みたいに。

     ◇

 翌朝、通勤電車の窓ガラスに、私の顔が映る。
 チェーンはブラウスの襟の内側に隠した。スマホには新しい通知が並んでいる。総務からの掲示に、監査のスケジュール候補。昼の時間帯に面談枠がいくつも並び、その中の一つに、太字で13:00の文字。

 会社の自動ドアが開く。ビル風が今日も正直に吹く。
 私は呼吸を整えて、フロアへ向かった。広報の席に座る前に、一度だけ振り返る。エントランスの向こう、経営企画の島のほうに、見慣れた背中があった。
 目が合わない距離で、同じリズムで歩いて行く背中。
 その背中と、約束の時間に。

 机に置いたマグカップの底が、いつもより硬く机に当たった音がした。
 ——はじまる。
 私はパソコンを立ち上げ、準備しておいたフォルダを開く。ファイル名の先頭に“01_”と“02_”の番号が規則的に並んでいる。東野圭吾の章立てみたいに、迷いのない順番。
 ここから、言葉を編む。骨組みを立てる。
 雨はやんでいた。だけど、傘は、今日も持ってきた。
 傘の内側は夫婦。ビル風の外では他人。
 その矛盾を、13時に終わらせるために。