週明けの朝、全社定例の会場はいつもよりざわついていた。大型スクリーンの前列に役員が並び、スーツの生地が一斉に擦れる音がする。私は後方席で膝に手を重ね、湯気の見えない白湯を想像して呼吸を整えた。
 マイクの雑音が一度だけ途切れて、会長――久遠社長よりもさらに年輪の深い、その人が前に進む。

 「人事の発表をします」

 呼吸がひとつ、社屋の中で足並みを揃えた気がした。スクリーンに文字が現れる。〈経営管理本部付 特別監査チーム 創設〉。続けて、名前。

 〈チームリード:久遠 遥真〉

 空調の音が一瞬だけ止まって聞こえた。次に、細い波のようなざわめき。前列の誰かが低く「次期社長レース筆頭だって?」と囁いた。私は指先で椅子の縁をつまみ、スクリーンを見てから、自分の靴の先を見た。
 そう、これは正式な開示。端席の男の“半分の正体”が、仕事の名前を着て壇上に上がった。

 会長は端的に続ける。持ち出し疑惑への対処、統制のさらなる強化、部門横断の監査――淡々とした言葉が、きちんとした場所に置かれていく。最後に会長は「それから」とトーンを少しだけ変えた。

 「先週、社内掲示板で騒ぎになった件。社内調査の結果を先に告げておく。原因は、外部業者の仕込みだ。技術的な説明は専門部門から後ほど。関係部署の皆さんには迷惑をかけた。とくに、白石くん」

 名指しに、会場の空気がわずかに動く。私は立ち上がりかけて踏みとどまり、浅く頭を下げた。会長はひと呼吸置いて、言葉を選ぶように目を細める。

 「潔白が証明された。無用に傷つけてしまったことは申し訳ない。会社として、君が抱えてきた重さを軽くできるなら、それを選ぶ。保育支援制度の特例運用を、今日付けで通す。詳細は人事から説明を」

 拍手は起こらない。けれど、空気が確かにやわらいだ。私は視界の端に座る宮園部長を見た。部長は私に向かって、ごく小さく会釈する。私も同じ大きさで返した。

 定例が終わり、廊下に人が溢れる。誰もが少しだけ早口で、でも視線は落ち着いている。デスクに戻る前に、部長に呼ばれた。会議室の扉が閉まると、部長は深々と頭を下げた。

 「白石。すまなかった」

 「頭、上げてください。私、仕事を続けられますから」

 「続けてくれ。……保育の特例、人事が走らせている。出退勤の弾力運用も通す。形式は俺が作る。お前は胸を張って、いつもどおりやれ」

 「はい」

 喉の奥に、ようやく水が通った。部長が顔を上げる。目の中の疲れはまだ残っているが、口元には小さな笑いが宿っている。私は胸の奥でだけ、ありがとうを重ねた。

 席に戻ると、向かいの席――もう向かいではなくなるのかもしれない席――は空だった。遙真は新しい肩書のもと、別フロアの臨時室へ移ったらしい。机の端に、見慣れた青いクリップがひとつ置かれている。手に取ると、指に馴染む感触。細かな傷が、いつかのコピー室の光景を連れてきた。

 人事からの説明会を経て、午後は怒涛の実務。特例運用の申請、連絡ルートの整理、湊の保育園の“ならし”の再申請。書類のフォーマットには空欄が多い。空欄は未来のために空いている。私はその余白を、埋めすぎないように気をつけた。

 夕方、内線が鳴く。「会長がお呼びだ」。番号を告げられて、私は足早に役員フロアへ向かった。あのロビーの革椅子が、先週と同じ温度を保っているのに、私の背中は先週より少しだけ軽い。

 「白石さん。こっちへ」

 別室に通される。窓の外、雲は低い。木の匂い。会長はいつもの笑い皺で、しかし目だけが少し真面目だった。

 「昔ね、君と縁談があった。覚えているかな」

 胸の奥の、古い引き出しが開く。祖母が勝手に話して、勝手に決めて、勝手に破談になった“あれ”。子どもの私には、縁談という言葉が貝殻みたいに珍しく、音ばかり触っていた。

 「はい。名前までは……曖昧です」

 「それは、私が祖母さんに頼んだ“布石”だった。――遥真の婚約者探しの、ね」

 会長は、こちらを驚かせようとしているのではない。昔の天気の話をするみたいに、穏やかに置く。「遥真は昔、商店街で迷子になった。君に手を引かれ、交番まで。麦茶を一緒に飲んだそうだ。その日の夕方、あの子は私に言った。“あの手の温度を、いつか守る”と」

 喉の奥に、白湯の気配が戻る。夏の午後の光、石畳の反射、冷たいコップ。あのときの“ありがとう”は、麦茶に向けたものだったかもしれない。それでも――私の手を握り返した小さな手の温度は、確かにここに残っている。

 「彼は義理堅い。時期も、順番も、線も守る。守りすぎるくらいに」

 会長は笑って、席を立った。「今日はそれだけ。……白石さん、よくやっている。胸を張りなさい」

 会長室を出る。廊下に出て、歩幅を合わせるみたいに息を整えた。エレベーターホールの時計が秒針を進める。その度に、先週の夜の選択が、違う色で見えてくる。“切る”と決めた私。“わかった”と受けた彼。どちらも嘘はない。嘘はないけれど、まだ終わりの色でもない。

 退社の時間を少し過ぎて、私はビルを出た。風が乾いていて、頬に気持ちがいい。正面から、背筋の伸びた影が近づく。スーツの肩に落ちる夕方の色。久遠遥真。足を止めた距離は、社内で守っていた距離と同じだった。けれど、彼はその線を、今日ここに持ってこなかった。

 「白石さん」

 「はい」

 「少し、時間をください」

 頷くと、彼はほんの一拍、言葉を溜め、それからまっすぐに口にした。

 「匿名も、スポンサーも、全部やめた。これは、僕の名前で言います」

 夕焼けの色が、彼の頬の一部だけ赤くしている。呼吸は落ち着いていて、けれど声は少しだけ震えた。

 「結婚を前提に、もう一度そばにいさせてください」

 言葉は短い。だから逃げ場がない。私は笑うのと泣くのの真ん中で口を開いた。
 「職場では、他人のふりを?」

 彼は、照れたときの笑い方をした。口角が控えめに上がり、視線が地面をかすめる。

 「公私の線引きは、君が決めて」

 ふっと胸の奥が軽くなる。誰かに任せたいのではなく、私に選ばせるための言葉。短いけれど、ずっと欲しかった重さだ。

 「……条件、出します」

 「どうぞ」

 「私の生活を“守るふり”で管理しないこと。湊の前で、無理を隠さないこと。高いところが怖いときは、怖いって言うこと」

 「三つ、了解です」

 「あと一つ」

 「まだありますか」

 「今日、白湯。二人で」

 彼は素直に笑った。「それは、今からでも」

 近くのベンチに並んで座り、紙コップの白湯を持つ。湯気は薄く、でもちゃんと上がる。私は湯気越しに、彼を見た。

 「会長に、昔の縁談のこと、聞きました」

 「……そうですか」

 「“あの手の温度を、いつか守る”。その言葉、覚えてますか」

 「はい。忘れた日がない」

 返事は短くて、まっすぐだった。私の指先が紙コップの縁を撫でる。白湯の温度が、昔と今をゆっくり繋ぐ。

 「じゃあ、お願いします。守られっぱなしにならないように、私も守るので。順番を、交代で」

 「交代制、いいですね」

 「勤務表、作ります?」

 「分担表の横に、置きましょう」

 彼のユーモアは相変わらず乾いていて、ちょうどいい。私は笑って頷き、白湯をひと口飲む。温度が喉を通り、胸に落ちる。
 沈黙が少し伸びたところで、彼が真顔に戻る。

 「君が“全部切る”と言った夜、僕はやめようと思った。全部。だけど、やめるのは簡単だから、やめなかった」

 「簡単?」

 「僕にとって、君を諦めるのは、努力しないことと同義です」

 軽口に見せかけた、彼の真面目な定義。私は視線を落とし、靴先でベンチの影を踏んだ。

 「ありがとう。……戻るの、簡単じゃないですよ」

 「わかってます。だから、手続きを踏みます。婚約は――」

 「職場では、言わないで」

 「言いません。家で、言わせてください」

 「家で」

 言葉にすると、景色の色が一段深くなる。
 私は白湯を飲み干して立ち上がり、彼も立つ。ほんの一瞬だけ、指が触れ合った。昔の麦茶の記憶と、今日の白湯の現実が、私の手の中で重なった。

 夜、母の家に湊を迎えに行く。母は今日の社内定例の話をテレビ越しに知っていて、「おめでとう」と笑った。湊は私の肩に顔を埋め、すぐに目を細める。体温は落ち着いている。帰り道、風が少し涼しく、秋の匂いがした。

 自宅に戻ると、玄関にいつもの保冷バッグはない。私はドアを閉め、台所の電気を点ける。シンクは空で、ステンレスがまっすぐ光を返す。分担表の横に、白紙の紙を一枚貼った。タイトルは、まだ書かない。
 その代わり、ボールペンでひとつだけ線を引く。
 職場/家。線の中央に、小さな丸。そこに“私たち”と書く。丸は小さい。けれど、真ん中にある。

 スマホが震いた。新着メール。人事からの保育支援の詳細。監査チームからのフロー。スポンサー辞退についての確認。どれも必要な連絡。どれも生活の輪郭を整えるための線だ。
 その下に、もうひとつ通知があった。匿名だったはずのアカウントからの、新しいDM。開かなくても内容はわかる。私はそれを開かず、削除した。画面に自分の顔が薄く映る。新しい余白が、そこにあった。

 窓を少しだけ開ける。夜風が入り、カーテンが揺れる。湊の寝息が部屋の奥から届く。私は電気ポットのスイッチを押し、白湯をもう一杯だけ淹れた。
 ――手続きを踏む。順番を守る。線引きは、私が決める。
 マグを両手で包み、ひと口飲む。温度が胸に落ち、静かに広がる。
 明日からの生活は、たぶん少し忙しくなる。忙しさの中で、今日の言葉が薄まらないように、台所の壁に小さな付箋を貼った。〈白湯/二人〉。
 それは、婚約届よりも先に私たちを繋ぐ、最初の合意。小さくて、でも確かな“回収”だった。