社内掲示板のトップに、黒い言葉が浮いた。〈経理の女、上と繋がってる〉。更新ボタンを押すたび、似た見出しが増殖する。〈スポンサー便宜〉〈身内枠〉。リンクの先には、私のレシピアカウントと、久遠グループ子会社のドメインを並べたスクショ。さらに、ぼかしの甘い写真に「赤ん坊らしき影」と、雑な矢印。胸の皮膚がひゅっと縮んだ。湊に向けて刺さった影の形が、モニタ越しにもわかる。
「白石」
背後から宮園部長の声。会議室へ、とだけ告げられ、私は端末を閉じた。テーブルの端で両手を組むと、指の間に冷えが滞在する。
「状況は把握している。社内掲示板の削除申請は出した。だが、火はすでに外へ飛びつつある」
「……スポンサー契約、辞退します。すぐに」
部長はうなずく。「それが良い。こちらでも文面を用意する。ただ、辞退の事実すら“逃げた”に転じる。沈静化まで時間はかかる」
「はい」
短い返事で、息を継ぐ。部長は続けた。「監督運用はそのまま。外との接触は、徹底して“監督”経由。家のことは俺が口実を作る。守りきる。だから、君は仕事を整えるだけ考えろ」
「……ありがとうございます」
会議室を出ると、廊下の空気が薄かった。蛍光灯の白が眩しく、目の奥がじんわり痛む。デスクに戻ると、向かいで久遠遙真が端末から視線を上げた。何も言わない。言えない時間だ。彼はただ、書類の束を私の手元へ滑らせる。「今日の分」。声は出さない。それで足りた。
昼休み、社食の列で視線が刺さった気がしても、振り向かない。A定食の味噌汁はぬるく、でも塩分が喉を往復して、小さな勇気になった。食後に白湯を一杯。湯気の薄いベールの裏で、私は午後の段取りを組み直す。スポンサー辞退の文面、部長へ。監査対応の資料、整えておく。掲示板のスクショを見ない努力は、思ったよりも難しい。
夕方、部長から〈辞退文面、確認〉が届く。丁寧で、必要最低限。私は自分の言葉を二行だけ足した。〈私事に関わる懸念があるため、辞退いたします。関係者の皆様にご迷惑をおかけしました〉。送信。指先がかすかに震える。送ってから、ようやく涙腺の位置が分かった。泣かない。泣くのは、湊の前だけでいい。
終業後、エレベーターの前を素通りし、階段へ向かう。踊り場に、彼がいた。待っていないふりで、壁の紙掲示を読んでいる。視線は合わない。距離は、今日も守られている。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にします」
会話は短い。私が先に一段降りると、彼も同じ歩幅で続く。階下の自動ドアの向こう、夜風がドラム式洗濯機みたいに回転している。外へ出る前に、彼が低く言った。
「今日は寄り道しません。まっすぐ帰りましょう」
「はい」
家に着く。分担表に沿って動く。米を研ぐ音、湯の立つ音、湊の喉を鳴らす音。音の順番を守ることが、生活の秩序を守ることだ。彼は玄関のチェーンの具合を確認し、窓の鍵を軽く引いて音を確かめる。監督の仕事。私は台所で、鶏肉と生姜を炒める。匂いが部屋に広がる。湯気を吸い込みながら、壁に寄りかかって立つ。
「スポンサー、辞退しました」
「……見ました」
「掲示板、見ましたか」
「見ました。見ないでと言っても、たぶん無理ですよね」
「はい」
会話が、鍋の音に混ざって小さくなる。食器を片付け、湊を風呂に入れ、寝かしつける。彼の抱き方がすっかり板について、湊は彼の胸に顔をうずめると、すぐに呼吸が深くなる。私は湊の指先にキスを落とし、部屋の灯りを落とした。
居間に戻ると、スマホに光が走った。匿名相談のアカウントから。〈見ています〉の次に、〈守りたい〉の四文字。私はしばらく画面を見つめ、そして打った。〈もう、全部やめる〉。送信。送ってしまってから、胸が熱くなる。数秒で返事が来た。
〈やめないで。あなたが作る台所の灯りが、僕の世界をあたためてきた〉
“僕”。このアカウントで初めて見た人称に、指が止まる。溢れた何かが、こぼれないように両手で受け止める。私は画面を閉じ、ゆっくり息を吸った。そして顔を上げる。彼がテーブルの向こうに座っている。白湯の湯気が中空で揺れている。
「……もしあなたが“彼”なら、どうして名前を明かさないの」
静かな夜に、音の小さい球を投げる。彼は唇を噛み、しばらく言葉を探すみたいに視線を泳がせた。
「名を出せば、あなたを巻き込む。僕は、久遠の人間だから」
“僕”。もう、隠す気はないのだろう。胸の内側で、確信と落胆が同時に音を立てた。私は白湯をひと口飲み、器を置く。置いた音がやけに大きい。
「だったら、ここまででいい。あなたが誰でも、私が守りたいのは湊で――」
言い終える前に、寝室から短く鋭い泣き声。湊。私は走る。頬が熱い。額に手を当てる。熱い。38度台の手触り。全身の血が同じ方向へ走り出す。
「高い」
彼がすでに体温計を手にしていた。測る間の一分が長い。ピピ、と鳴って、数字は予想どおり。私はバッグに母子手帳と保険証と着替えを突っ込み、タオルを一枚掴む。彼は湊を包むブランケットを用意し、靴を履く間に電話で夜間救急の受付を取った。
「救急車は――」
「タクシーのほうが早い。すぐ呼びます」
玄関を出る。夜風は刺さらず、すうっと肌の上を滑る。エレベーターは上階にあって、降りてくるまでの十秒がやけに長い。扉が開く。吹き抜けの高い空間が、箱の鏡に映っている。彼の顔が少し強張った。喉の音が一度だけ止まる。それでも彼は、湊を抱えて乗り込んだ。足がわずかに震える。震えが湊に伝わらないように、彼は抱く腕をきつくした。
「怖いけど、君と湊のほうが大事」
冗談みたいに軽く言って、無理やり笑う。私は笑えなくて、「ありがとう」とだけ言う。心臓が喉まで上がって、言葉の通り道が狭い。
夜間救急の待合室は明るすぎた。白い椅子、白い壁、白い天井。熱のせいで湊の顔色は薄く、けれど泣き声は力がある。私は受付で名前を告げ、問診票を書きながら、彼の膝に目をやる。湊を抱く腕の力は一定で、指先の震えはさっきより少ない。吹き抜けの天井を見上げまいとする視線が、床に落ちている。
「水分、少しずつ。ミルクは控えめに」
「はい」
指示の一つひとつが、生活の言葉に訳されて頭に入る。額に貼ってもらった冷却シートが少しずれて、私はそっと位置を直した。指が触れた瞬間、湊の呼吸が少し緩む。彼はその様子を見て、安堵の息を小さく吐いた。
診察室から出ると、空はもう少しで白くなる前の暗さだった。解熱剤をもらい、タクシーに乗る。彼は後部座席の真ん中に身体を寄せ、吹き抜けのガラスを見ないように視線を落とす。帰り道の街路樹が、窓の外で等間隔に後退していく。心拍が少しずつ人間の速度に戻る。
家に戻る。解熱剤を飲ませ、湯冷ましを少し。額の温度が、ほんの気持ち下がる。分担表に、今日の欄とは別枠で大きな丸を描きたい衝動。やめる。丸は、あとで。
やがて、湊の呼吸が規則正しくなった。寝顔を確かめ、部屋の灯りを落とす。居間に戻ると、彼が椅子に腰掛けたまま、膝に肘を乗せていた。顔に疲れが出ている。私も、きっと同じ顔だ。
「ありがとう」
「いえ」
言葉が少なすぎる。けれど、いまはこれ以上うまく言えない。静けさの底で、私の中の別の声が立ち上がる。掲示板、スポンサー、匿名、久遠。線が交差して絡む音。その中で、さっき飲み込んだ言葉が、もう一度、口元まで浮かぶ。
「……スポンサーも、匿名も、全部切る」
彼の肩がわずかに揺れた。私は続ける。
「あなたとも」
言いながら、喉が締まる。言葉は刃物ではないけれど、切れる。切れると知っていて、使う。
彼は、声を失った。まぶたがゆっくり落ちて、また上がる。逃げるための沈黙ではない。受け止めるための、痛い沈黙。
「……わかった」
小さく、骨のある声だった。テーブルの上の白湯が、まだ温かい。湯気が薄く、細く、上がっている。私たちはそれを見た。湯気は、指で掴めない。掴めないものが、部屋を満たしている。
夜明け前、窓の向こうの空が少しだけ白む。鳥の声が一羽分、早く起きた。私は分担表の前に立ち、今日の日付の欄に小さく印をつける。印は一つだけ。〈解熱剤〉。それ以外は、空欄のまま。
彼は上着を手に取り、ドアの前で振り返った。何か言いそうで、言わない顔。目の奥に、崩れ落ちそうな痛みが宿っている。それでも、背筋は伸びている。彼の礼儀はいつだって背骨から始まる。
「……監督の報告は、今日で止めます」
「はい」
「もし、何かあったら」
「呼びません」
彼は、目を閉じた。次に開いたとき、視線の色が少し深くなっている。「わかった」。二度目は、少し低い。彼は会釈して、扉の向こうへ消えた。ドアの音はやさしく、やさしさが逆に堪えた。
静かな部屋に、寝息と冷蔵庫の唸りが戻る。私は台所に立ち、空のマグカップを流しに置く。蛇口をひねり、音だけを聞く。顔を洗い、目を閉じ、呼吸を整える。朝になったら、スポンサー辞退の公告が出る。匿名のアカウントは閉じる。保冷バッグのメモも、今日だけは入れない。線を引く。生活の真ん中に、線を引く。
寝室を覗く。湊の額は、さっきより少し涼しい。小さな手が、布団の上を探るように開く。私はその手に自分の指を差し入れた。ぎゅっと握る力。握り返す。温度は、まだ大丈夫。
朝の光が薄く降りるまで、私はその手を離さないでいた。離した先に何があるのか、もう知ってしまったから。知ってしまっても、手を離すのは、私が決める。そう決めた朝だった。
「白石」
背後から宮園部長の声。会議室へ、とだけ告げられ、私は端末を閉じた。テーブルの端で両手を組むと、指の間に冷えが滞在する。
「状況は把握している。社内掲示板の削除申請は出した。だが、火はすでに外へ飛びつつある」
「……スポンサー契約、辞退します。すぐに」
部長はうなずく。「それが良い。こちらでも文面を用意する。ただ、辞退の事実すら“逃げた”に転じる。沈静化まで時間はかかる」
「はい」
短い返事で、息を継ぐ。部長は続けた。「監督運用はそのまま。外との接触は、徹底して“監督”経由。家のことは俺が口実を作る。守りきる。だから、君は仕事を整えるだけ考えろ」
「……ありがとうございます」
会議室を出ると、廊下の空気が薄かった。蛍光灯の白が眩しく、目の奥がじんわり痛む。デスクに戻ると、向かいで久遠遙真が端末から視線を上げた。何も言わない。言えない時間だ。彼はただ、書類の束を私の手元へ滑らせる。「今日の分」。声は出さない。それで足りた。
昼休み、社食の列で視線が刺さった気がしても、振り向かない。A定食の味噌汁はぬるく、でも塩分が喉を往復して、小さな勇気になった。食後に白湯を一杯。湯気の薄いベールの裏で、私は午後の段取りを組み直す。スポンサー辞退の文面、部長へ。監査対応の資料、整えておく。掲示板のスクショを見ない努力は、思ったよりも難しい。
夕方、部長から〈辞退文面、確認〉が届く。丁寧で、必要最低限。私は自分の言葉を二行だけ足した。〈私事に関わる懸念があるため、辞退いたします。関係者の皆様にご迷惑をおかけしました〉。送信。指先がかすかに震える。送ってから、ようやく涙腺の位置が分かった。泣かない。泣くのは、湊の前だけでいい。
終業後、エレベーターの前を素通りし、階段へ向かう。踊り場に、彼がいた。待っていないふりで、壁の紙掲示を読んでいる。視線は合わない。距離は、今日も守られている。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にします」
会話は短い。私が先に一段降りると、彼も同じ歩幅で続く。階下の自動ドアの向こう、夜風がドラム式洗濯機みたいに回転している。外へ出る前に、彼が低く言った。
「今日は寄り道しません。まっすぐ帰りましょう」
「はい」
家に着く。分担表に沿って動く。米を研ぐ音、湯の立つ音、湊の喉を鳴らす音。音の順番を守ることが、生活の秩序を守ることだ。彼は玄関のチェーンの具合を確認し、窓の鍵を軽く引いて音を確かめる。監督の仕事。私は台所で、鶏肉と生姜を炒める。匂いが部屋に広がる。湯気を吸い込みながら、壁に寄りかかって立つ。
「スポンサー、辞退しました」
「……見ました」
「掲示板、見ましたか」
「見ました。見ないでと言っても、たぶん無理ですよね」
「はい」
会話が、鍋の音に混ざって小さくなる。食器を片付け、湊を風呂に入れ、寝かしつける。彼の抱き方がすっかり板について、湊は彼の胸に顔をうずめると、すぐに呼吸が深くなる。私は湊の指先にキスを落とし、部屋の灯りを落とした。
居間に戻ると、スマホに光が走った。匿名相談のアカウントから。〈見ています〉の次に、〈守りたい〉の四文字。私はしばらく画面を見つめ、そして打った。〈もう、全部やめる〉。送信。送ってしまってから、胸が熱くなる。数秒で返事が来た。
〈やめないで。あなたが作る台所の灯りが、僕の世界をあたためてきた〉
“僕”。このアカウントで初めて見た人称に、指が止まる。溢れた何かが、こぼれないように両手で受け止める。私は画面を閉じ、ゆっくり息を吸った。そして顔を上げる。彼がテーブルの向こうに座っている。白湯の湯気が中空で揺れている。
「……もしあなたが“彼”なら、どうして名前を明かさないの」
静かな夜に、音の小さい球を投げる。彼は唇を噛み、しばらく言葉を探すみたいに視線を泳がせた。
「名を出せば、あなたを巻き込む。僕は、久遠の人間だから」
“僕”。もう、隠す気はないのだろう。胸の内側で、確信と落胆が同時に音を立てた。私は白湯をひと口飲み、器を置く。置いた音がやけに大きい。
「だったら、ここまででいい。あなたが誰でも、私が守りたいのは湊で――」
言い終える前に、寝室から短く鋭い泣き声。湊。私は走る。頬が熱い。額に手を当てる。熱い。38度台の手触り。全身の血が同じ方向へ走り出す。
「高い」
彼がすでに体温計を手にしていた。測る間の一分が長い。ピピ、と鳴って、数字は予想どおり。私はバッグに母子手帳と保険証と着替えを突っ込み、タオルを一枚掴む。彼は湊を包むブランケットを用意し、靴を履く間に電話で夜間救急の受付を取った。
「救急車は――」
「タクシーのほうが早い。すぐ呼びます」
玄関を出る。夜風は刺さらず、すうっと肌の上を滑る。エレベーターは上階にあって、降りてくるまでの十秒がやけに長い。扉が開く。吹き抜けの高い空間が、箱の鏡に映っている。彼の顔が少し強張った。喉の音が一度だけ止まる。それでも彼は、湊を抱えて乗り込んだ。足がわずかに震える。震えが湊に伝わらないように、彼は抱く腕をきつくした。
「怖いけど、君と湊のほうが大事」
冗談みたいに軽く言って、無理やり笑う。私は笑えなくて、「ありがとう」とだけ言う。心臓が喉まで上がって、言葉の通り道が狭い。
夜間救急の待合室は明るすぎた。白い椅子、白い壁、白い天井。熱のせいで湊の顔色は薄く、けれど泣き声は力がある。私は受付で名前を告げ、問診票を書きながら、彼の膝に目をやる。湊を抱く腕の力は一定で、指先の震えはさっきより少ない。吹き抜けの天井を見上げまいとする視線が、床に落ちている。
「水分、少しずつ。ミルクは控えめに」
「はい」
指示の一つひとつが、生活の言葉に訳されて頭に入る。額に貼ってもらった冷却シートが少しずれて、私はそっと位置を直した。指が触れた瞬間、湊の呼吸が少し緩む。彼はその様子を見て、安堵の息を小さく吐いた。
診察室から出ると、空はもう少しで白くなる前の暗さだった。解熱剤をもらい、タクシーに乗る。彼は後部座席の真ん中に身体を寄せ、吹き抜けのガラスを見ないように視線を落とす。帰り道の街路樹が、窓の外で等間隔に後退していく。心拍が少しずつ人間の速度に戻る。
家に戻る。解熱剤を飲ませ、湯冷ましを少し。額の温度が、ほんの気持ち下がる。分担表に、今日の欄とは別枠で大きな丸を描きたい衝動。やめる。丸は、あとで。
やがて、湊の呼吸が規則正しくなった。寝顔を確かめ、部屋の灯りを落とす。居間に戻ると、彼が椅子に腰掛けたまま、膝に肘を乗せていた。顔に疲れが出ている。私も、きっと同じ顔だ。
「ありがとう」
「いえ」
言葉が少なすぎる。けれど、いまはこれ以上うまく言えない。静けさの底で、私の中の別の声が立ち上がる。掲示板、スポンサー、匿名、久遠。線が交差して絡む音。その中で、さっき飲み込んだ言葉が、もう一度、口元まで浮かぶ。
「……スポンサーも、匿名も、全部切る」
彼の肩がわずかに揺れた。私は続ける。
「あなたとも」
言いながら、喉が締まる。言葉は刃物ではないけれど、切れる。切れると知っていて、使う。
彼は、声を失った。まぶたがゆっくり落ちて、また上がる。逃げるための沈黙ではない。受け止めるための、痛い沈黙。
「……わかった」
小さく、骨のある声だった。テーブルの上の白湯が、まだ温かい。湯気が薄く、細く、上がっている。私たちはそれを見た。湯気は、指で掴めない。掴めないものが、部屋を満たしている。
夜明け前、窓の向こうの空が少しだけ白む。鳥の声が一羽分、早く起きた。私は分担表の前に立ち、今日の日付の欄に小さく印をつける。印は一つだけ。〈解熱剤〉。それ以外は、空欄のまま。
彼は上着を手に取り、ドアの前で振り返った。何か言いそうで、言わない顔。目の奥に、崩れ落ちそうな痛みが宿っている。それでも、背筋は伸びている。彼の礼儀はいつだって背骨から始まる。
「……監督の報告は、今日で止めます」
「はい」
「もし、何かあったら」
「呼びません」
彼は、目を閉じた。次に開いたとき、視線の色が少し深くなっている。「わかった」。二度目は、少し低い。彼は会釈して、扉の向こうへ消えた。ドアの音はやさしく、やさしさが逆に堪えた。
静かな部屋に、寝息と冷蔵庫の唸りが戻る。私は台所に立ち、空のマグカップを流しに置く。蛇口をひねり、音だけを聞く。顔を洗い、目を閉じ、呼吸を整える。朝になったら、スポンサー辞退の公告が出る。匿名のアカウントは閉じる。保冷バッグのメモも、今日だけは入れない。線を引く。生活の真ん中に、線を引く。
寝室を覗く。湊の額は、さっきより少し涼しい。小さな手が、布団の上を探るように開く。私はその手に自分の指を差し入れた。ぎゅっと握る力。握り返す。温度は、まだ大丈夫。
朝の光が薄く降りるまで、私はその手を離さないでいた。離した先に何があるのか、もう知ってしまったから。知ってしまっても、手を離すのは、私が決める。そう決めた朝だった。

