決算週の空は、数字の列みたいに硬い青だった。
 朝、私は昆布を水に浸してから出勤の支度をした。鯛のあらを下処理した指に、うっすら魚の匂いが残っている。湊は母に預けた。玄関には、いつもの保冷バッグ。メモには「今日は塩を弱めに」。私は胸の奥でだけ礼を言って、バッグを引き入れた。

 社に着くと、宮園部長のメールが飛び込む。〈誤差調整案、役員フロアに同行〉。急だが、体のどこかは準備できている。紙の束を抱えてエレベーターに乗り、耳の中の鼓動を一度白湯で薄めるみたいに深呼吸した。

 役員フロアは、空調の音まで昂ぶりを抑え込むように静かだ。受付前で到着を告げると、久遠会長が現れた。テレビで見る顔よりも、皺が近い。

 「お待たせしたね」

 会長が視線の先に向けて短く手を上げる。「はる、来たか」
 その呼び方に、私は脳内の引き出しを条件反射で開けてしまう。会長の斜め後ろに立っていたのは――久遠遙真。名札の“久遠”と“遙真”の文字が、今日に限って濃く見えた。会長は彼に身を寄せ、「社長から直接聞きたいことがある」と耳打ちする。その言い回しは、このフロアの空気に馴染んでいる。二人は重たい扉の向こうへ消え、私はロビーの椅子にひとり残された。

 椅子の革はひんやりしていて、背中の汗を正直に拾う。紙の束を膝の上で整えながら、私は自分の案の要点を頭の中でたどる。現金主義から発生主義へ切り替えた日付、未計上の仮払、在庫評価の方法――緊張で手が冷たくなると、紙の角が骨に触れて意識が戻った。

 スマホが震える。画面に、匿名相談のアカウントからの短い通知。

 〈大丈夫。あなたの案、通る〉

 息が詰まるほど、タイミングが一致していた。ここが役員フロアで、向こう側に“はる”と呼ばれる人がいて、そして今この文。偶然の服を着た必然が、肩にそっと手を置くみたいに現れる。私は返事を打たない。息だけ整える。

 五分が十五分になり、二十分になった頃、扉が開いた。最初に出てきたのは会長、それから遙真。彼は私を見ると、ほんのわずか頬を赤くして、息を一拍置いてから言った。

 「白石さんの勝ちです」

 勝ち。言葉の選び方が、不器用でまっすぐだ。私は立ち上がり、抱えていた紙を抱きしめ直す。

 「ありがとうございます」

 「いえ。合理的だったので。――通ります」

 会長が口角を上げた。「骨のある案だ。引き続き頼むよ」
 私は会釈して、受付のサイン台で訪問者カードを返した。遙真は少し遅れて歩き出し、エレベーターホールの前でふ、と立ち止まる。壁の時計が秒針を一つ進める間の沈黙のあと、彼は低い声で続けた。

 「……自分の正体、全部は言えません」

 私は顔を上げた。彼の視線は私を見て、すぐ外す。その癖も、私の中で輪郭を持ち始めている。

 「だけど、あなたが不利になることは、絶対にしない」

 言い方は不器用なのに、誓いは甘くて強い。誓いと呼ぶには短すぎる文が、私の胸の真ん中に真っ直ぐ刺さって、そこからじんわり温度が広がる。私はうなずくしかできなかった。言葉にすると、何かがこぼれる気がして。

 フロアを離れてから、私は社内のカフェで紙コップの白湯を受け取った。湯気は目に見えないほど薄くて、それでも確かに手を温める。今日の“通った”は、誰のものでもなく、きちんと仕事の結果だ。だけど彼が言った「勝ちです」という言葉は、仕事と私個人の境界線を滑らかに撫でていく。公私を他人に雑に混ぜられるのは嫌いだ。でも、私が自分で選んで一行だけ重ねるのは、悪くない。

 午後は怒涛だった。関連部署に説明し、調整のフローを書き換え、監査対応の段取りをチームで分担する。隣のデスクで遙真は、会議室を縫うように行き来し、淡々と議事をまとめ続ける。端席の男は、やはり目立たない。目立たないことの技術を持っている人、という言い方がいちばん近い。

 定時をぎりぎり跨いだ頃、部長がほっと息をついた。「白石、いい仕事だった。今日のところは上がれ」
 「ありがとうございます」
 席に戻ると、遙真がファイルを閉じた音がした。視線が一瞬だけ交わる。何も言わないのが、いちばんの会話みたいに感じられる。

 帰り道、スーパーで鯛の切り身が安かった。薄口醤油と塩で下味をつけ、家に着くや否や米を研いだ。米は指の間でさらさら鳴る。研ぎ汁が白く濁って、やがて透明に戻る。その過程を見るのが、好きだ。昆布と酒を入れ、千切りの生姜をひとつまみ。炊飯器の蓋を閉めると、台所は待つだけの場所になる。

 炊き上がりを待つ間、私は匿名のレシピアカウントを開いた。〈鯛の炊き込みご飯〉の下書きに、昼のうちにスマホで撮っておいた下ごしらえの写真を挿し込む。ポイントは三つ――鯛は焼かずに塩ゆでで臭みを抜く、昆布は炊き上がり直前に引き上げる、仕上げの胡麻と木の芽は控えめに。公開ボタンを押すと、画面の数字が弾むように増え始めた。通知が連続して、スマホが掌で跳ねる。バズる、という言葉は派手すぎるけれど、今日のそれは、確かに熱を持っていた。

 湯気を吸い込んだ炊き込みご飯は、背中を撫でるみたいに優しい匂いがした。湊の分は塩を抜いて取り分けて、冷ます。私の分の茶碗を両手で抱える。箸が米粒を連れてくるたび、今日の緊張が少しずつほどけていく。生活は、こういうふうにして結果を受け止める場所だ。

 食器を流しに運んだところで、メールの着信音。差出人を見た瞬間、背中がぴんと伸びた。見覚えのあるドメイン。――久遠グループの子会社。件名は簡潔に〈コラボレーションのご提案〉。本文をスクロールする指が、いつもより慎重になる。匿名レシピアカウントの記事を拝見したこと、家庭向け食品の新商品とレシピ記事のタイアップを検討していること、謝礼、掲載先。条件は丁寧で、無理がない。

 ……でも。
 スポンサーの線が、今日のロビーの出来事と、匿名相談のタイミングと、きれいに一本で繋がる。思考が、静かに結論に触れてしまう。「隠れスポンサー=彼」。そう言葉になりかけた瞬間、私は台所の窓を開けた。夜風が白いカーテンを押し上げ、皿の上の湯気を少し攫っていく。匂いが軽くなった分、胸の奥の重さが増す。

 スマホが震えた。匿名相談のアカウント。

 〈今日の投稿、とても良かった〉
 〈参考にします〉

 短い言葉。いつも通りの熱。私は画面を見つめ、返事の文字をゆっくり並べる。〈ありがとうございます〉。その一言に、余計なものを混ぜない。

 メールの返信は、一晩置くことにした。嬉しさと、仕事の線引きと、私生活の境界を、ひと晩で正しく並べ直すために。私は電気ポットのスイッチを入れ、湯が小さく震える音に耳を澄ます。湯気の向こうに、今日のロビーがちらつく。会長の「はる」、遙真の「勝ちです」、そして――「あなたが不利になることは、絶対にしない」。

 「絶対に、って簡単に言わないでよ」

 独り言は、白湯に溶けていく。文句のつもりの言葉が、どうしてこんなに甘く響くのか。私は苦笑して、湯をマグに注いだ。匿名の彼に“やっぱりあなたですよね”と問うのは早すぎる。問わなくても、体はもう、いくつも答えを持っている。保冷バッグの温度、震える指先、会議室の端席、そしてスポンサーのドメイン。

 その時、玄関の方で小さな音がした。郵便受けの金具が、こつ、と鳴る。ドアを開けると、チラシに紛れて細い封筒が一つ。差出人は、管理会社。〈共用部の騒音に関するお願い〉。週末に貼られた掲示の正式な文面だ。私は封筒を握り、深く息を吸う。湊の泣き声は生活の音。でも、生活の音にも、町のルールがある。私はドアを閉め、机に封筒を置いた。やれる対策は全部やろう。ドアクッション、足音、時間帯の調整。数字と同じで、できることから積む。

 スマホの画面に、新しい通知。今度は仕事用のメール。部長から〈今日のまとめに感謝。明日は午前、監査対応の打合せ〉。了解と返信し、ついでにレシピアカウントの画面を閉じる。画面の黒が、台所のステンレスと繋がって、部屋の輪郭をきれいにする。

 湊の寝顔を覗きに行くと、指がふにゃりと開いていた。私はその指を、そっと握る。小さな掌は、相変わらず世界の中心みたいに温かい。
 ベッドサイドに戻る途中、保冷バッグが視界の端をかすめた。グレーの布。チャックの持ち手。明日の朝、私は小さなメモを入れるつもりでいる。〈今日の炊き込みご飯、昆布は短めに〉。宛名のない返礼。境界線を越えずに、温度だけ返す手紙。

 灯りを落とす前に、私は今日を三つの箱に分けて、胸の棚に置いた。仕事の箱――案が通った。生活の箱――鯛の炊き込みご飯がうまくいった。気配の箱――“彼”の正体の半分に、手が届いた。
 名前をつけるのは、もう少し先でいい。先に手を温め合う。
 そう思って目を閉じると、遠くで風が鳴った。高いところを抜ける風の音だ。彼の苦手な高さ。明日、エレベーターの前で「今日は階段で」と言ったとき、私がうなずけるように。白湯の残りをひと口だけ飲んでから、私は眠りに落ちた。