朝の空気は薄く甘い。淹れたての白湯の湯気に顔を近づけて、喉の奥を温めてから玄関を開ける。今日の保冷バッグは、少しだけ重かった。小さなメモには「人参は皮ごとで」とある。私は微笑んで、胸の奥でだけお礼を言う。湊は母に預けた。ベビーカーのベルトを外す時、指先が一瞬、離れがたく迷う。けれど仕事の時間は、容赦なくこちらを呼ぶ。

 会議室の空調は少し低い。内部統制プロジェクトの初日、私は事前に分けておいた資料の束を手際よく配った。表紙の隅に、役員の判子が赤く整列している。印影が整然としているだけで、背骨が一本、余計に通った気がする。会議机の端席で、久遠遥真が淡々と議事録を取っていた。視線は紙へ真っ直ぐ。存在の音量を上げない人だ。話し合いは粛々と進み、必要な数字が必要な場所に置かれていく。議事が終わる頃には、私の中でも輪郭が見えていた。今月中に骨組み、来月頭にドラフト、上程の前に一次レビュー。道筋の見える仕事は、怖さが少ない。

 「白石さん」

 会議後、ドアの外で声を掛けられて足が止まる。久遠会長だった。人垣の間に、その笑い皺はすぐ見つかる。

 「少し、いいかな」

 別室に通される。窓の外に雲が低い。部屋には古い木の匂いがして、会議室の乾いた空気よりも落ち着く。会長は椅子を勧めながら、穏やかに私の名をもう一度呼んだ。

 「白石さん。君、昔、港南の商店街で迷子の子を助けたろう?」

 胸が跳ねる。錆びた引き出しが、いきなり開く。夏の午後、石畳の熱、溶けかけたアイス。泣いていた男の子の手を引き、交番まで連れて行った。お巡りさんが冷たい麦茶を出してくれて、男の子は麦茶の底を覗き込むみたいに泣きやんだ。――そんな遠い日。

 「はい……覚えています。小学生の頃です」

 「うむ。あの時の子は、義理堅い」

 会長は意味ありげに笑って、それ以上を言わなかった。けれど“義理堅い”という言葉が、部屋の壁に貼られて、じわじわとこちらへ滲む。私は閉じかけた引き出しに指をかけなおし、顔を上げる。

 「今日の資料、とても良かった。骨がある。頼りにしているよ」

 「ありがとうございます」

 会長は軽くうなずき、手元の予定表に視線を戻した。解散の合図。私が立ち上がると、廊下の向こうから端席の男が歩いてきた。久遠遥真。視線は相変わらず低く、こちらを通り過ぎるとき、会長へ一礼する。

 「はる、午後の来客、頼んだよ」

 「はい」

 “はる”。呼び慣れた響き。私の耳はその一音に過剰に敏感で、心臓が一度だけ大きく鳴った。会長室の扉が閉まったあと、私はコピー室へ回って追加資料を取りに行った。誰もいない部屋の中、紙の匂いが濃い。機械のモニタに表示される数字が、息を整えるためのメトロノームになる。

 定時を少し過ぎて、社食前を通りかかる。窓の外の空は薄青く、ガラスに反射した照明が人工の星みたいに見えた。私は自販機で温かいほうじ茶を買い、缶を手のひらで転がした。湊のミルクの時間、母の夕飯、帰りのスーパー。やることを一つずつ胸の棚に並べ直す。

 帰路の途中、スマホが震えた。匿名相談のアカウントからメッセージ。

 〈幼い頃、あなたに助けられた〉

 文字の形そのものに、気配が宿ることがある。指先に鳥肌が立つ。スクロールする手が止まらない。“彼”なのか。問いは喉まで来て、そこで丸くなる。私はすぐには返事をせず、呼吸の速さを一度、白湯で薄めることにした。

 マンションの外灯に照らされる植え込みの影は、季節で形を変える。秋が近いせいか、影の輪郭が少しだけ濃い。エレベーターホールに入ったところで、またスマホが鳴った。今度は母から。

 「凛? 今、平気?」

 「大丈夫。湊はどう?」

 「よく飲んで、よく笑ってるよ。あ、そうだ。妙なこと思い出して。昔の内々の“縁談”、覚えてる? おばあちゃんが勝手に話してたやつ」

 おでこの奥がきゅっとなる。“縁談”。祖母が同窓会で盛り上がって、勝手に決めて、勝手に破談になった。子どもの私は、言葉だけを珍しい貝殻みたいに拾っていた。けれど名前は――

 「相手の苗字、なんて言ったっけ」

 「ええとね、くどう……だったと思うけど」

 くどう。私の口の中で音がひっくり返る。く・どう。久遠。偶然は日常の服を着てやってくるから、見分けが難しい。

 「……そう。ありがと。湊、よろしくね」

 通話を切る。エレベーターの鏡に、考えごとの顔をした私が映る。階数表示が四から三へ、ゆっくり降りてくる。だが扉が開く音はしない。高層階の風の通り道で、機械が息を整えている。ふと、背後から気配。

 「白石さん」

 振り向くと、久遠遥真がいた。ネクタイを少し緩め、肩の力は抜けている。エレベーターのボタンに指を伸ばしかけて、彼はそれを引っ込めた。

 「今日は階段で」

 「……高いところ、苦手なんですか」

 「少し。構造が見えると、考えすぎてしまうので」

 その言い方に、私は小さく笑う。彼は視線を落とし、階段の方を顎で示した。流れるような仕草ではない。動きの端々に、小さな逡巡が混ざる。二人で踊り場まで歩く。壁の白が蛍光灯を拾って、影は薄い。

 「白石さんって、困った時ほど他人を助けますよね」

 階段の折り返しで、彼が言った。唐突ではないが、準備のない言葉。私は手すりに指をかけ、彼の横顔を見る。目の奥が静かに濡れているみたいに見えて、胸の奥がざわつく。

 「どうして、そう思うんですか」

 「見ていると、そう思うだけです」

 「見てるんですか」

 「見ますよ。同じ部署ですし」

 彼はいつも通り低い声で、いつも通り必要な言葉を取り出す。だけど粒の細さが違う。私の耳に残る砂粒が、子どもの頃の商店街の石畳と同じ感触を持っている。私は吸い寄せられるように、言葉をひとつ足した。

 「港南の、商店街」

 彼の足が止まる。踊り場で風は吹かないのに、誰かがページをめくる音がした気がした。彼は手すりから手を離し、ポケットに指を入れる。「覚えてるんですか」と、少しだけ笑って、すぐに消した。

 「麦茶、出ましたよね」

 「……出ました」

 「冷たすぎて、頭が痛くなりました」

 記憶の角度が重なった瞬間、私の呼吸がひとつ、深くなる。彼は私を見ない。私も彼を見ない。踊り場の壁に映る小さな影だけが、会話の相槌みたいに揺れた。

 「義理堅い、らしいですよ」

 「そう、らしいですね」

 会長の言葉が二人の間を通る。笑っていいのか、真面目にうなずくのか、一瞬だけ迷って、それから私は笑った。笑いは短いが、喉の奥まで乾かない。彼も、それに合わせて口元だけで笑う。階段を上り直す。一段ずつ、言葉の代わりに足音を置く。

 部屋に戻ると、玄関の前に今日の保冷バッグ。メモには「出汁、昆布多め」。私はバッグを台所に置いて、湯を沸かし、鍋に昆布を浸す。台所のステンレスに灯りが映り、細い川みたいに流れる。湊の写真立ての横に、昔の私と妹の写真がある。夏祭りの顔。綿あめの白い雲。写真の中の私は、誰かの手をぎゅっと握っている。妹の手。子どもの頃から、私は何かと誰かの手を掴んでいないと、不安になる質だった。

 スマホが震える。匿名相談のアカウントから。

 〈幼い頃、あなたに助けられた〉

 同じ文が、今度は文末に小さな波線を連れてきていた。揺れているのは、向こう側なのか、こちら側なのか。

 〈あの時、手が温かかった〉

 私は指を止める。言葉はすでに心の中で返っている。――あなたも、今、十分に温かい。けれど文字にすると、簡単に薄まってしまう温度がある。私は代わりに、スープの写真を一枚撮った。昆布を引き上げる前、表面にぽつりと泡が浮いた瞬間の写真。説明は付けない。送信。すぐに青いチェックが二つつく。

 〈いい匂いが画面からしそうです〉

 〈しませんよ〉

 〈想像で補います〉

 短いやり取り。言葉は少ないのに、温度はじわじわ増える。背後で湯の立つ音が大きくなる。昆布を引き上げ、鯛の身と人参を入れる。台所の匂いは、人の記憶と仲が良い。やさしい匂いは、賢く過去を呼ぶ。

 スープが煮える間に、母に電話をする。湊はよく飲んで、今は寝たという。私は「ありがとう」を二度言って切った。通話のあと、さっきの“縁談”という単語がまた胸に浮かぶ。祖母の無邪気な押しの強さ、父の苦笑い、母のため息。私は自分の口の中で“くどう”の二音を何度か転がした。

 夜の廊下は静かだ。ゴミ出しの袋が一つ、エレベーターホールの角に立てかけられている。私はスープを冷ましながら、ドアスコープに目を当てる。逆さまの廊下は無人。けれど空気の端に、人の気配は残る。見えないのに、確かにいるもの。匂い、温度、息。名前のないままここにいる優しさは、私の生活の調味料を、ほんの少しだけ甘くしている。

 食卓にスープをよそい、自分用の器にだけ、少しだけ生姜を落とす。湯気から立ち上る生姜の辛さが、今日の頭の中を整理してくれる。私はその湯気に顔を近づけて、静かに目を閉じる。

 ――助けられた。

 匿名のメッセージの一文が、素直に胸に落ちる。あの夏の午後、泣いていた男の子の手は軽くて、汗ばんでいた。私は「こっち」と言って、狭いアーケードの陰を選び、車の音から遠ざけた。交番で冷たい麦茶を渡されたとき、男の子はコップを両手で持って、丁寧にお辞儀をした。あの時の“ありがとう”は、たぶん私にではなく、麦茶に向けられていたけれど、それでよかった。

 「義理堅い、か」

 呟いて、笑う。義理堅いのは、たぶん私もだ。私は今日も、誰かの仕事を回し、誰かの暮らしを守る数字を整える。見返りのない親切に、勝手に返礼を考える。名のない優しさへ、名のないお礼を準備する。それが生活の呼吸なら、悪くない。

 皿を洗い、ふきんで拭く。布は少し柔軟剤の香りがして、指に気持ちがいい。私は引き出しから小さなメモ用紙を一枚出した。ペン先で、迷って、書く。

 〈鯛は骨を取ってくれてありがとう。人参の甘みは、昆布で底上げしました〉

 宛名はない。けれど、宛先はある。明朝、保冷バッグにこれをそっと滑り込ませる。そのイメージが、今日の眠りを軽くする。境界線をまたぎすぎないために、言葉を二行に抑えた。気配だけを返す。名前は、まだ渡さない。

 湊が寝返りをして、布団の端を握る。私はそっとその手を開いて、指先にキスを落とす。赤ん坊の手は、世界の中心みたいに温かい。窓の外では、風が少し強くなったらしい。ベランダの物干し竿が、こつん、と鳴る。

 ベッドに入る前、もう一度だけスマホを開く。匿名相談の画面に短い文。

 〈いつか、ちゃんと言いたいことがあります〉

 たぶん“彼”。でも、まだ決めなくていい。わからないことを、わからないまま抱く夜は、案外静かだ。私は画面を伏せ、灯りを消す。部屋が闇に沈むと、ステンレスの薄い反射だけが、ひとかけらの川みたいに残った。

 明日は階段を一段飛ばしで上ってみよう。息が切れたら、踊り場で隣に座ればいい。麦茶の代わりに白湯を分け合って、名前の話は、まだしない。秘密は、隠すだけではなく、育てることもできる。今日の私の手は、そのためにある。