朝の台所でスープを温めながら、私は鍋の底を静かにかき回した。人参の角が丸くなって、湯の中で転がる。湊の離乳食は、今日から少し粒を大きくしてみるつもりだ。舌ざわりに驚かないように、豆腐を崩して混ぜる。お腹の音は正直だ。空になった小さな器を洗っていると、窓の外でゴミ収集車のブレーキが鳴った。日常は、いつも同じ順番で背中を押してくれる。
湊は母に預ける。保育園の返事はまだ来ない。電話の向こうで母は、「大丈夫、大丈夫」と二度言って笑った。私も二度うなずく。靴を履く前に、玄関の向こうを確かめる。保冷バッグは、今日もそこにあった。グレーの布に、細いペンで一言。「だし、薄めに」。誰かの配慮は、手の温度みたいに確かだ。私は胸の奥で小さく礼を言い、バッグを内側へ引き入れた。
会社へ向かう道には、決まった信号の癖がある。赤が長い角、青がやけに短い横断歩道。急ぐときほど、時間は角砂糖みたいに溶けにくい。デスクに着いたらメールの数を深呼吸で数え、湊の笑顔をいちど思い浮かべてから、画面に目を落とす。経理の月末は、数字の波が静かに高い。間違いは見えづらい音で鳴るから、耳ではなく目で拾うしかない。
「白石さん、少し時間いい?」
午前十時、宮園部長の声が落ちた。会議室のドアを閉める音が、いつもより柔らかい。
「内部統制の件、新しい試算が必要で。白石さんに任せたい」
「私で、良ければ」
「任せたいんだよ。期末までにドラフト、まずは骨組みでいい。上に見せる前に、俺が見る」
紙を渡される手が、震えなかったのは幸いだ。私は資料の束を胸に抱えて、会釈した。部長の顔は厳しく見えて、目だけが少し笑っていた。責任の重みは、肩を下げさせる一方で、背筋を伸ばさせる。
席に戻ると、向かいの久遠遥真が、私のデスクの端にクリップを置いた。さっきまで彼の机の上で止まっていた青いクリップだ。
「これ、挟んでおくと楽ですよ。分割の境目が見やすいから」
「ありがとう。……内部統制の試算、任されました」
「良かったですね」
良かったですね、の中に、おめでとう、と気をつけて言わない距離があった。私はうなずくだけにして、画面へ視線を戻す。会話はそれで足りる。彼の声はいつも低く、必要な言葉だけを棚から出すみたいに取り出す。出しすぎない配慮は、見えない仕事だ。
昼は、社食の窓際が空いていた。私は温そば、彼はパンとスープとサラダ。トレイがテーブルに触れる音が二つ、ほぼ同時に鳴った。
「……温かいほう、選びましたね」
「え?」
「いや。良い選択だと思います」
彼はスプーンをゆっくり回して、スープの表面に渦を作る。会話の渦は作らない。沈黙は怖くないと教えられているみたいに、隣に置かれている。沈黙の輪郭は、意外とやさしい。
午後、コピー室は機械の熱気で少し暑かった。資料を印刷し、綴じ、チェックの付箋を貼る。視界の端がかすむ。インクの匂いが濃すぎる。紙束を抱えた腕の力がほどけて、私は少しだけ壁に背中を預けた。立ち眩みのタイミングは、待ってくれない。
「白石さん?」
名前が、やわらかいところに落ちて受け止められたみたいに聞こえた。肩に触れた手は、驚くほど震えていた。震えの方向は、私を支える方向ではなく、彼自身の内側に向かっているように思えた。
「すみません、……こういうの、得意じゃなくて」
「こういうの?」
「人に、触れるの。慣れてなくて。けど、倒れられると困るから」
彼は手を外そうとして、少しの間を置いて、そのまま支え続けた。私が壁から離れるのを待って、そっと腕を引く。紙の角が肌に当たる感触が戻ってくる。私は笑って、ありがとう、と言った。彼は「いえ」と短く答え、指先をぎこちなくズボンの縫い目に沿わせた。手を置く場所に困っている人の仕草が、少し愛おしいと思ってしまったのは、私のほうの困りごとだ。
残業を短く切り上げて、私は母の家に寄った。湊は昼寝の余韻で機嫌が良く、頬が桃色だった。母は「ね、ほら、この足」と、湊の足裏をくすぐって笑わせる。私は冷蔵庫の中の小松菜の残りをもらい、湊と母に「また明日」と手を振った。
夕方のマンションの前で、若い母親が倒れているのを見つけた。買い物袋が横に転がって、パックの豆腐がひとつ割れている。私は反射的に駆け寄った。肩に触れ、声をかける。浅い呼吸。意識はある。手首に触れて、脈の速さを数えた。湊を抱いた夜の記憶と重なって、胸がざわつく。管理人室に声をかけ、救急に電話をする。救急車の赤い光は、夕暮れの色を簡単に塗り替える。付き添いで病院へ向かい、問診の補助をして、ひとまずの安心を確かめるまでに、夜は容赦なく進んでいった。
マンションに戻ると、エレベーターホールの照明が白くて眩しかった。指先の乾燥が、蛍光灯に晒されると強く感じられる。そこで、彼――久遠遥真に会った。スーツの襟が少し乱れている。
「遅かったですね」
「ちょっと、救急車の付き添いで」
「大変でしたね」
彼の言葉は、どれも短くて温度がある。エレベーターを待つ間、二人で数字のパネルを見ていた。沈黙がもう少し続くと思ったとき、彼は手に持っていたグレーの保冷バッグを、こちらへ差し出した。私の玄関で見慣れた、あの布の手触りが目の前に来る。
「今日のは、鯛と人参。……お子さん、魚は平気?」
言葉が、私の足もとに落ちて、動けなくさせた。お子さん、の一言が、私の名前より先に呼ばれた気がした。エレベーターが到着して、ドアが開いたのに、誰も乗り込まない。空の箱が、こちらを待っている。私はようやく声を出した。
「どうして、知って……?」
彼は視線を逸らして、ボタンを押した。ドアが閉まりかけて、また開く。扉の縁が床に影を作る。
「朝、廊下で泣き声が。……迷惑なら、やめる」
「迷惑じゃ、ないです」
自分の声が少し高かった。落ち着け、と思うのに、落ち着く成分のある言葉がなかなか見つからない。彼はバッグを持ち直し、また差し出す。持ち手のところで、指がほんの少し白くなる。
「重いので。……よろしければ、ここまで」
受け取るか、断るか。両方に理由がある。私は持ち手を両手で挟んで、「ありがとうございます」と言った。エレベーターが無言で開いたまま、私たちを乗せた。鏡に映る二人は、余計なものを置いてきたみたいに無表情だ。
四階で降り、廊下が足音を吸い込む。私の部屋の前で、私はバッグを胸と鍵の間に挟みながら、彼に向き直った。
「……魚、平気です。小骨がないなら、もっと平気」
「よかった」
彼は短く笑った。安堵が表情から喉に降りてくるのが見えそうだった。声の震えは、さっきコピー室で感じた震えと同じ種類のものだ。揃いすぎている一致に、私は胸の奥がきゅっとして、視線をドアノブに落とした。
「ありがとう、ございました。助かっています」
「こちらこそ。……勝手に、すみません」
「勝手じゃないです。でも、いつもは……その、どなたかに、怒られませんか」
「怒られるのは、あまり得意じゃない」
「私も」
ふたりして、笑った。短い笑いは、すぐに静かになった。私は鍵を回し、ドアを開ける。部屋の明かりが廊下に流れ出す。彼は一歩下がり、明かりから距離を取った。光の輪の境目で足を止める癖は、彼のものだ。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。その直前、彼が何か言いかけて目を伏せたのを、私は見た。言葉が出る前に、目が先に照れているみたいに見えた。鍵が静かに回る音を、自分の心拍の上に乗せる。
台所でバッグを開ける。保冷材の下から出てきたのは、小さなタッパーが二つと、丁寧に包まれた出汁の小瓶。「鯛の身、塩ゆで」「人参ピュレ」「出汁は薄めに」と、シールに小さな字。出汁の蓋を開けると、鰹の匂いが薄く立つ。私は指先につけて舌に触れさせた。やさしい味が、喉から胸に落ちていく。ありがとうございます、と声に出してから、誰に対して言ったのかを考えるのをやめた。
スマホが震いた。匿名相談のアカウントからの短いメッセージが、画面の上で光っている。
〈遅い帰宅、お疲れさまでした。温かい飲み物を一杯〉
私は「はい」とだけ返し、湯を沸かす。カップに注いだ白湯に、息をかける。湯気が鼻先を撫でて、目の裏がじんわりする。泣くほどではないけれど、泣く直前のあの手前のところまで、温度を上げてくれる。
洗面台の鏡に映る顔は、少し赤くて、少し笑っていた。私は、自分の頬に手を当ててみる。温かい。温度は嘘をつかない。ポットの横に小さなメモを置いた。「骨のない鯛は、いつもありがとう」。誰に渡すのでもないメモは、明日の私に向けての宛名だ。けれど、もし。もしも、保冷バッグの中へ、小さな紙切れを紛れ込ませたとしても、世界は壊れないかもしれない。壊さない形を、探せるかもしれない。
ベビーベッドを覗くと、湊が手のひらを開いたり閉じたりしていた。夢の中で、何かを掴もうとしている。私はその指に自分の指を触れさせる。湊の手は、すぐに私の指を握った。小さな力が、安心の重さで返ってくる。
カーテンの隙間から、風が入る。台所のステンレスがうっすら冷たくなっていく。私は明日の段取りを頭の中で組み直した。午前は部長に骨組みを出し、午後は試算の数字を詰める。コピー室では先に深呼吸。スープは朝のうちに一度温め直して、保冷ボトルに入れる。やれることは、ひとつずつだ。
ベッドに潜り込む直前、スマホがもう一度震えた。
〈明日も、温かい飲み物を〉
打ちかけて、私は手を止めた。質問の形にするのは、まだ早い。私はシンプルに返す。
〈あなたも〉
送信。小さな青いチェックが、すぐに二つに増えた。見えない向こう側で、同じ温度の白湯を飲んでいる人を想像する。画面を伏せ、目を閉じる。今日の終わりに触れた手の震えと、保冷バッグの持ち手の硬さと、出汁の香り。すべてが混ざって、ひとつのやわらかい記憶になる。
明日は、私のほうから、何かを返そう。まだ名前のないその「何か」に、音の小さいリボンを結んで。秘密は隠すだけではなく、守る形にもできる。守るための名前は、きっと一緒に見つけられる。そう思いながら、私は眠りに落ちた。
湊は母に預ける。保育園の返事はまだ来ない。電話の向こうで母は、「大丈夫、大丈夫」と二度言って笑った。私も二度うなずく。靴を履く前に、玄関の向こうを確かめる。保冷バッグは、今日もそこにあった。グレーの布に、細いペンで一言。「だし、薄めに」。誰かの配慮は、手の温度みたいに確かだ。私は胸の奥で小さく礼を言い、バッグを内側へ引き入れた。
会社へ向かう道には、決まった信号の癖がある。赤が長い角、青がやけに短い横断歩道。急ぐときほど、時間は角砂糖みたいに溶けにくい。デスクに着いたらメールの数を深呼吸で数え、湊の笑顔をいちど思い浮かべてから、画面に目を落とす。経理の月末は、数字の波が静かに高い。間違いは見えづらい音で鳴るから、耳ではなく目で拾うしかない。
「白石さん、少し時間いい?」
午前十時、宮園部長の声が落ちた。会議室のドアを閉める音が、いつもより柔らかい。
「内部統制の件、新しい試算が必要で。白石さんに任せたい」
「私で、良ければ」
「任せたいんだよ。期末までにドラフト、まずは骨組みでいい。上に見せる前に、俺が見る」
紙を渡される手が、震えなかったのは幸いだ。私は資料の束を胸に抱えて、会釈した。部長の顔は厳しく見えて、目だけが少し笑っていた。責任の重みは、肩を下げさせる一方で、背筋を伸ばさせる。
席に戻ると、向かいの久遠遥真が、私のデスクの端にクリップを置いた。さっきまで彼の机の上で止まっていた青いクリップだ。
「これ、挟んでおくと楽ですよ。分割の境目が見やすいから」
「ありがとう。……内部統制の試算、任されました」
「良かったですね」
良かったですね、の中に、おめでとう、と気をつけて言わない距離があった。私はうなずくだけにして、画面へ視線を戻す。会話はそれで足りる。彼の声はいつも低く、必要な言葉だけを棚から出すみたいに取り出す。出しすぎない配慮は、見えない仕事だ。
昼は、社食の窓際が空いていた。私は温そば、彼はパンとスープとサラダ。トレイがテーブルに触れる音が二つ、ほぼ同時に鳴った。
「……温かいほう、選びましたね」
「え?」
「いや。良い選択だと思います」
彼はスプーンをゆっくり回して、スープの表面に渦を作る。会話の渦は作らない。沈黙は怖くないと教えられているみたいに、隣に置かれている。沈黙の輪郭は、意外とやさしい。
午後、コピー室は機械の熱気で少し暑かった。資料を印刷し、綴じ、チェックの付箋を貼る。視界の端がかすむ。インクの匂いが濃すぎる。紙束を抱えた腕の力がほどけて、私は少しだけ壁に背中を預けた。立ち眩みのタイミングは、待ってくれない。
「白石さん?」
名前が、やわらかいところに落ちて受け止められたみたいに聞こえた。肩に触れた手は、驚くほど震えていた。震えの方向は、私を支える方向ではなく、彼自身の内側に向かっているように思えた。
「すみません、……こういうの、得意じゃなくて」
「こういうの?」
「人に、触れるの。慣れてなくて。けど、倒れられると困るから」
彼は手を外そうとして、少しの間を置いて、そのまま支え続けた。私が壁から離れるのを待って、そっと腕を引く。紙の角が肌に当たる感触が戻ってくる。私は笑って、ありがとう、と言った。彼は「いえ」と短く答え、指先をぎこちなくズボンの縫い目に沿わせた。手を置く場所に困っている人の仕草が、少し愛おしいと思ってしまったのは、私のほうの困りごとだ。
残業を短く切り上げて、私は母の家に寄った。湊は昼寝の余韻で機嫌が良く、頬が桃色だった。母は「ね、ほら、この足」と、湊の足裏をくすぐって笑わせる。私は冷蔵庫の中の小松菜の残りをもらい、湊と母に「また明日」と手を振った。
夕方のマンションの前で、若い母親が倒れているのを見つけた。買い物袋が横に転がって、パックの豆腐がひとつ割れている。私は反射的に駆け寄った。肩に触れ、声をかける。浅い呼吸。意識はある。手首に触れて、脈の速さを数えた。湊を抱いた夜の記憶と重なって、胸がざわつく。管理人室に声をかけ、救急に電話をする。救急車の赤い光は、夕暮れの色を簡単に塗り替える。付き添いで病院へ向かい、問診の補助をして、ひとまずの安心を確かめるまでに、夜は容赦なく進んでいった。
マンションに戻ると、エレベーターホールの照明が白くて眩しかった。指先の乾燥が、蛍光灯に晒されると強く感じられる。そこで、彼――久遠遥真に会った。スーツの襟が少し乱れている。
「遅かったですね」
「ちょっと、救急車の付き添いで」
「大変でしたね」
彼の言葉は、どれも短くて温度がある。エレベーターを待つ間、二人で数字のパネルを見ていた。沈黙がもう少し続くと思ったとき、彼は手に持っていたグレーの保冷バッグを、こちらへ差し出した。私の玄関で見慣れた、あの布の手触りが目の前に来る。
「今日のは、鯛と人参。……お子さん、魚は平気?」
言葉が、私の足もとに落ちて、動けなくさせた。お子さん、の一言が、私の名前より先に呼ばれた気がした。エレベーターが到着して、ドアが開いたのに、誰も乗り込まない。空の箱が、こちらを待っている。私はようやく声を出した。
「どうして、知って……?」
彼は視線を逸らして、ボタンを押した。ドアが閉まりかけて、また開く。扉の縁が床に影を作る。
「朝、廊下で泣き声が。……迷惑なら、やめる」
「迷惑じゃ、ないです」
自分の声が少し高かった。落ち着け、と思うのに、落ち着く成分のある言葉がなかなか見つからない。彼はバッグを持ち直し、また差し出す。持ち手のところで、指がほんの少し白くなる。
「重いので。……よろしければ、ここまで」
受け取るか、断るか。両方に理由がある。私は持ち手を両手で挟んで、「ありがとうございます」と言った。エレベーターが無言で開いたまま、私たちを乗せた。鏡に映る二人は、余計なものを置いてきたみたいに無表情だ。
四階で降り、廊下が足音を吸い込む。私の部屋の前で、私はバッグを胸と鍵の間に挟みながら、彼に向き直った。
「……魚、平気です。小骨がないなら、もっと平気」
「よかった」
彼は短く笑った。安堵が表情から喉に降りてくるのが見えそうだった。声の震えは、さっきコピー室で感じた震えと同じ種類のものだ。揃いすぎている一致に、私は胸の奥がきゅっとして、視線をドアノブに落とした。
「ありがとう、ございました。助かっています」
「こちらこそ。……勝手に、すみません」
「勝手じゃないです。でも、いつもは……その、どなたかに、怒られませんか」
「怒られるのは、あまり得意じゃない」
「私も」
ふたりして、笑った。短い笑いは、すぐに静かになった。私は鍵を回し、ドアを開ける。部屋の明かりが廊下に流れ出す。彼は一歩下がり、明かりから距離を取った。光の輪の境目で足を止める癖は、彼のものだ。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。その直前、彼が何か言いかけて目を伏せたのを、私は見た。言葉が出る前に、目が先に照れているみたいに見えた。鍵が静かに回る音を、自分の心拍の上に乗せる。
台所でバッグを開ける。保冷材の下から出てきたのは、小さなタッパーが二つと、丁寧に包まれた出汁の小瓶。「鯛の身、塩ゆで」「人参ピュレ」「出汁は薄めに」と、シールに小さな字。出汁の蓋を開けると、鰹の匂いが薄く立つ。私は指先につけて舌に触れさせた。やさしい味が、喉から胸に落ちていく。ありがとうございます、と声に出してから、誰に対して言ったのかを考えるのをやめた。
スマホが震いた。匿名相談のアカウントからの短いメッセージが、画面の上で光っている。
〈遅い帰宅、お疲れさまでした。温かい飲み物を一杯〉
私は「はい」とだけ返し、湯を沸かす。カップに注いだ白湯に、息をかける。湯気が鼻先を撫でて、目の裏がじんわりする。泣くほどではないけれど、泣く直前のあの手前のところまで、温度を上げてくれる。
洗面台の鏡に映る顔は、少し赤くて、少し笑っていた。私は、自分の頬に手を当ててみる。温かい。温度は嘘をつかない。ポットの横に小さなメモを置いた。「骨のない鯛は、いつもありがとう」。誰に渡すのでもないメモは、明日の私に向けての宛名だ。けれど、もし。もしも、保冷バッグの中へ、小さな紙切れを紛れ込ませたとしても、世界は壊れないかもしれない。壊さない形を、探せるかもしれない。
ベビーベッドを覗くと、湊が手のひらを開いたり閉じたりしていた。夢の中で、何かを掴もうとしている。私はその指に自分の指を触れさせる。湊の手は、すぐに私の指を握った。小さな力が、安心の重さで返ってくる。
カーテンの隙間から、風が入る。台所のステンレスがうっすら冷たくなっていく。私は明日の段取りを頭の中で組み直した。午前は部長に骨組みを出し、午後は試算の数字を詰める。コピー室では先に深呼吸。スープは朝のうちに一度温め直して、保冷ボトルに入れる。やれることは、ひとつずつだ。
ベッドに潜り込む直前、スマホがもう一度震えた。
〈明日も、温かい飲み物を〉
打ちかけて、私は手を止めた。質問の形にするのは、まだ早い。私はシンプルに返す。
〈あなたも〉
送信。小さな青いチェックが、すぐに二つに増えた。見えない向こう側で、同じ温度の白湯を飲んでいる人を想像する。画面を伏せ、目を閉じる。今日の終わりに触れた手の震えと、保冷バッグの持ち手の硬さと、出汁の香り。すべてが混ざって、ひとつのやわらかい記憶になる。
明日は、私のほうから、何かを返そう。まだ名前のないその「何か」に、音の小さいリボンを結んで。秘密は隠すだけではなく、守る形にもできる。守るための名前は、きっと一緒に見つけられる。そう思いながら、私は眠りに落ちた。

