朝いちばんの廊下は、夜の名残りをゆっくり吐き出していた。玄関を開けると足もとに小さな保冷バッグ。薄いグレーの布地、チャックの端に「今日のは人参を多めに」とだけ書かれたメモ。名前はない。
私はそれを台所へ運び、蓋を開ける。白身魚のほぐしと柔らかく煮た人参とじゃがいも、小さなタッパーに分けられた野菜だしのスープ。湯気は消えているのに、湯気の記憶のような匂いが立ち上る。お礼を言う相手がいないのが、いちばん困る。
ベビーベッドで湊がむにっと息を漏らす。まだ歯は二つ。眉の形は妹に似ている。写真立てに指を触れ、「朝だよ」と声に出す。短い朝のルーティンは手のひらが覚えている。離乳食を小分けで冷凍し、残りのスープで自分の食パンをひたす。洗濯機を回してから、匿名のレシピアカウントを開いた。
「人参の甘みを、スープで逃がさない方法」。写真を載せ、工程を短く整える。いいねがぽつぽつ増え、いつもの相談アカからメッセージが届く――〈今日のあなたは頑張りすぎ。冷たい飲み物は控えて〉。生活の呼吸回数まで知っているみたいな言いぶりに、監視されてるみたい、と冗談を書いては消し、お礼だけ返してスマホを伏せた。
駅までの道は、保育園に急ぐ親子の会話で満ちている。門の前を通ると先生が笑った。笑顔が少し痛い。会社のドアが開く瞬間、空気は紙とプリンターの匂いに変わる。経理は月末が戦場。今日も机の上は数字の海だ。
向かいの席には久遠遥真がいる。落ち着いた低い声。派手さは何もないのに、視界に入る人。私が計上の列を追って眉間に皺を寄せると、別の資料を滑らせてくる。
「ここ、同じ仕入先の行が重なってます。右の列をソートすると早いですよ」
「ありがとう。助かる」
「いえ。お互いさまですから」
彼の指先には紙のくぼみが染みついていて、それは注意深さの跡に見えた。大きな声を出したところを見たことがない。笑うとき、口角だけがささやかに上がる。距離の取り方が、正確だ。
昼休みは社食。私はA定食、彼はサラダとスープとパン。窓の外の雲が薄い。隣に並んでトレイを運びながら、彼がぽつりと言う。
「温かい飲み物、飲んでますか」
「え?」
「いや、なんとなく」
ごまかすときの口角だけの笑い。私の顔は見ない。スープにスプーンを沈め、ゆっくりかき混ぜる銀の音がさらさら鳴る。言いかけてやめる。“あなた、もしかして”という言葉は、準備のいらない爆弾だ。まだ投げてはいけない。
午後の会議は長かった。議事録を書きながら、私は湊の昼寝の時間を頭の隅で数えている。定時で上がることを良しとしない空気は、うちの会社にもまだある。けれど私は母に甘える線を今日も踏む。退勤ボタンを押し、早足で駅へ向かった。
帰宅すると、靴を脱ぐ前に湊が笑って手を伸ばす。その笑顔を抱え込むように床に座り込む。鼻先が触れる距離。おかえり、と言うのは、どちらなのか。
夜は短い。湊はお風呂で泣き、湯気が壁に貼りつき、パジャマが肌に冷たく触れる。ミルクを飲ませて寝かしつけ、台所の電気を少しだけ落とす。次の朝用に根菜を切って火にかけ、冷まして冷蔵庫へ。スマホの通知が震えた。
〈今日のあなたは頑張りすぎ〉。間を置いて、もう一行。〈水分は温かいもので〉。私は笑い、マグに残っていたスープを飲み干す。画面の向こうの人が、私の生活の呼吸の回数を知っているみたいで、少し怖い。でも、怖さよりありがたさが先に来る。
週末、マンションの掲示板に紙が一枚貼られた。早朝の騒音について。具体的には書かれていない言葉の中に、泣き声、という音が埋まっている気がした。心臓が手の内側に落ちて汗をかく。すれ違ったおばさまに条件反射で頭を下げ、エレベーターの鏡に映る自分の顔をなるべく見ないようにする。
扉が開いた先に会長が立っていた。会社の顔。テレビで見る大きな笑い皺が、ここでは少し柔らかい。「おや、白石くん。おはよう」。私は会釈し、隣に社用車が止まる。会長が振り向いて言う。「……はる、来たか」。社用車の影から、久遠――彼が一歩出てきた。自然に呼び捨てにされる“はる”。意味が遅れて脳に届く。
彼は軽く会釈し、会長は運転手に一声かけて乗り込んだ。車のドアが閉まる音が長く響く。「……おはようございます」と彼。私はうなずくだけ。何を見たのか、まだ言葉にできない。
その夜、洗濯機を回し、ベランダに出て物干し竿をつかむ。風が少し冷たく、耳の内側でひゅうと鳴る。共用廊下の角に紙袋が立てかけてあった。哺乳瓶の洗浄ブラシ、新しい乳首、ミルクの缶。レシートも添えてある。誰が、どうやって。周囲を見回すが人の気配はない。
ドアスコープに目を当てる。逆さまの廊下がのび、踵を返す影がいちどこちらを振り向いた気がした。目が合った、と錯覚する。心臓が跳ね、息が止まる。影は小さく手を上げ、それから消えた。これは気のせい。そう言い聞かせながら紙袋を持ち上げる。重みは現実で、持ち手が手のひらに細く食い込む。
台所のテーブルに置いても、しばらく立ち尽くした。助かる。けれど、怖い。ありがとう、と言いたい。けれど、誰に。感情が忙しく、言葉が追い付かない。湊が泣き出し、抱き上げる。泣き声は身体の中から出るから、止めるというより隣に並べるしかない。おさまっていく鼓動に自分の鼓動を合わせる。
いつもの相談アカに〈おやすみなさい〉とだけ送る。すぐに返ってきた同じ言葉を見て、知らないふりをしているのはどちらなのかと笑った。ドアの向こうの気配と、画面の向こうの声が、同じ人かもしれないという仮説は温かいのに、手に持ったまま眠るには少し危ない。
翌朝、保冷バッグはまた玄関前にあった。今度は「ささみと豆腐を少し」というメモ。バッグを胸に抱いてドアスコープを覗く。廊下に人影はない。私は心のなかで“朝だけの同居人”と呟く。生活の隙間に、気配だけ住んでいる人。光と影のちょうどあいだ。
出勤口でまた会長と目が合った。会長は私にうなずき、少し遅れて来た彼に向けて言う。「はる、午後の件、頼むよ」「はい。大丈夫です」。短い返事が耳の奥に残る。タイムカードを押す瞬間、生活と仕事の境目が紙の薄さしかないことに気づく。
社食の列で彼と並ぶ。話すことはほとんどない。隣にいる人の熱が、ひとつ壁を隔てて伝わってくる。彼はパンとスープ、私は白ごはん。トレイを置いたとき、彼が小声で言う。「温かい飲み物、続けてください」。私は「うん」とだけ返す。言葉はそこまでで足りた。
掲示板の紙は週末を越えてまだ貼ってある。剥がせない匿名の文句は、誰にも当たらない矢になって、それでも確かに刺さる。帰り道に静音タイプのドアクッションを買った。できることをひとつずつ。夜、洗濯物を干しながら、共用廊下の角を見る。誰もいない。警戒心と期待が綱引きをして、どちらも少しずつ負けてくれる。
足音。軽い靴の音が遠くから近づき、角で止まる。私は立ち尽くす。ドアスコープ越し、背の高い細い影がこちらに向き直る。チャイムは鳴らない。影は静かに紙袋を床に置いた。指先が一瞬、持ち手を離すのを惜しむように見える。次の瞬間、影は踵を返し、角の向こうに消えた。
鍵に触れただけで手を引く。開ければ生活の形が変わる気がした。湯を沸かし、湊のミルクを用意する。沸騰の音が四隅を転がって静かになる。湯気に触れ、少しだけ泣きたい気持ちがほどけた。スマホが震え、画面に短い言葉――〈おやすみなさい〉。私は同じ言葉を返し、灯りを落とす。
台所のステンレスが月の光を返し、細い線を作る。線は床を渡って玄関まで。そこに、もうひとつの生活の足跡が薄く重なって見える。朝だけの同居人。そう呼んでいいのかもまだわからない気配。名前のない優しさのことを、私たちはどう扱えばいいのだろう。お礼も請求書もないやり取りを、どこまで生活に置いておけるのだろう。
眠りに落ちる直前、ひとつだけ決めた。明日、保冷バッグの中に小さなメモを入れる。ありがとうの代わりに、スープのコツを一行。あなたが置いた優しさを、私の手の温度で、いちど返す。名前のないまま、手だけ温め合う方法が、もしあるのなら。
私はそれを台所へ運び、蓋を開ける。白身魚のほぐしと柔らかく煮た人参とじゃがいも、小さなタッパーに分けられた野菜だしのスープ。湯気は消えているのに、湯気の記憶のような匂いが立ち上る。お礼を言う相手がいないのが、いちばん困る。
ベビーベッドで湊がむにっと息を漏らす。まだ歯は二つ。眉の形は妹に似ている。写真立てに指を触れ、「朝だよ」と声に出す。短い朝のルーティンは手のひらが覚えている。離乳食を小分けで冷凍し、残りのスープで自分の食パンをひたす。洗濯機を回してから、匿名のレシピアカウントを開いた。
「人参の甘みを、スープで逃がさない方法」。写真を載せ、工程を短く整える。いいねがぽつぽつ増え、いつもの相談アカからメッセージが届く――〈今日のあなたは頑張りすぎ。冷たい飲み物は控えて〉。生活の呼吸回数まで知っているみたいな言いぶりに、監視されてるみたい、と冗談を書いては消し、お礼だけ返してスマホを伏せた。
駅までの道は、保育園に急ぐ親子の会話で満ちている。門の前を通ると先生が笑った。笑顔が少し痛い。会社のドアが開く瞬間、空気は紙とプリンターの匂いに変わる。経理は月末が戦場。今日も机の上は数字の海だ。
向かいの席には久遠遥真がいる。落ち着いた低い声。派手さは何もないのに、視界に入る人。私が計上の列を追って眉間に皺を寄せると、別の資料を滑らせてくる。
「ここ、同じ仕入先の行が重なってます。右の列をソートすると早いですよ」
「ありがとう。助かる」
「いえ。お互いさまですから」
彼の指先には紙のくぼみが染みついていて、それは注意深さの跡に見えた。大きな声を出したところを見たことがない。笑うとき、口角だけがささやかに上がる。距離の取り方が、正確だ。
昼休みは社食。私はA定食、彼はサラダとスープとパン。窓の外の雲が薄い。隣に並んでトレイを運びながら、彼がぽつりと言う。
「温かい飲み物、飲んでますか」
「え?」
「いや、なんとなく」
ごまかすときの口角だけの笑い。私の顔は見ない。スープにスプーンを沈め、ゆっくりかき混ぜる銀の音がさらさら鳴る。言いかけてやめる。“あなた、もしかして”という言葉は、準備のいらない爆弾だ。まだ投げてはいけない。
午後の会議は長かった。議事録を書きながら、私は湊の昼寝の時間を頭の隅で数えている。定時で上がることを良しとしない空気は、うちの会社にもまだある。けれど私は母に甘える線を今日も踏む。退勤ボタンを押し、早足で駅へ向かった。
帰宅すると、靴を脱ぐ前に湊が笑って手を伸ばす。その笑顔を抱え込むように床に座り込む。鼻先が触れる距離。おかえり、と言うのは、どちらなのか。
夜は短い。湊はお風呂で泣き、湯気が壁に貼りつき、パジャマが肌に冷たく触れる。ミルクを飲ませて寝かしつけ、台所の電気を少しだけ落とす。次の朝用に根菜を切って火にかけ、冷まして冷蔵庫へ。スマホの通知が震えた。
〈今日のあなたは頑張りすぎ〉。間を置いて、もう一行。〈水分は温かいもので〉。私は笑い、マグに残っていたスープを飲み干す。画面の向こうの人が、私の生活の呼吸の回数を知っているみたいで、少し怖い。でも、怖さよりありがたさが先に来る。
週末、マンションの掲示板に紙が一枚貼られた。早朝の騒音について。具体的には書かれていない言葉の中に、泣き声、という音が埋まっている気がした。心臓が手の内側に落ちて汗をかく。すれ違ったおばさまに条件反射で頭を下げ、エレベーターの鏡に映る自分の顔をなるべく見ないようにする。
扉が開いた先に会長が立っていた。会社の顔。テレビで見る大きな笑い皺が、ここでは少し柔らかい。「おや、白石くん。おはよう」。私は会釈し、隣に社用車が止まる。会長が振り向いて言う。「……はる、来たか」。社用車の影から、久遠――彼が一歩出てきた。自然に呼び捨てにされる“はる”。意味が遅れて脳に届く。
彼は軽く会釈し、会長は運転手に一声かけて乗り込んだ。車のドアが閉まる音が長く響く。「……おはようございます」と彼。私はうなずくだけ。何を見たのか、まだ言葉にできない。
その夜、洗濯機を回し、ベランダに出て物干し竿をつかむ。風が少し冷たく、耳の内側でひゅうと鳴る。共用廊下の角に紙袋が立てかけてあった。哺乳瓶の洗浄ブラシ、新しい乳首、ミルクの缶。レシートも添えてある。誰が、どうやって。周囲を見回すが人の気配はない。
ドアスコープに目を当てる。逆さまの廊下がのび、踵を返す影がいちどこちらを振り向いた気がした。目が合った、と錯覚する。心臓が跳ね、息が止まる。影は小さく手を上げ、それから消えた。これは気のせい。そう言い聞かせながら紙袋を持ち上げる。重みは現実で、持ち手が手のひらに細く食い込む。
台所のテーブルに置いても、しばらく立ち尽くした。助かる。けれど、怖い。ありがとう、と言いたい。けれど、誰に。感情が忙しく、言葉が追い付かない。湊が泣き出し、抱き上げる。泣き声は身体の中から出るから、止めるというより隣に並べるしかない。おさまっていく鼓動に自分の鼓動を合わせる。
いつもの相談アカに〈おやすみなさい〉とだけ送る。すぐに返ってきた同じ言葉を見て、知らないふりをしているのはどちらなのかと笑った。ドアの向こうの気配と、画面の向こうの声が、同じ人かもしれないという仮説は温かいのに、手に持ったまま眠るには少し危ない。
翌朝、保冷バッグはまた玄関前にあった。今度は「ささみと豆腐を少し」というメモ。バッグを胸に抱いてドアスコープを覗く。廊下に人影はない。私は心のなかで“朝だけの同居人”と呟く。生活の隙間に、気配だけ住んでいる人。光と影のちょうどあいだ。
出勤口でまた会長と目が合った。会長は私にうなずき、少し遅れて来た彼に向けて言う。「はる、午後の件、頼むよ」「はい。大丈夫です」。短い返事が耳の奥に残る。タイムカードを押す瞬間、生活と仕事の境目が紙の薄さしかないことに気づく。
社食の列で彼と並ぶ。話すことはほとんどない。隣にいる人の熱が、ひとつ壁を隔てて伝わってくる。彼はパンとスープ、私は白ごはん。トレイを置いたとき、彼が小声で言う。「温かい飲み物、続けてください」。私は「うん」とだけ返す。言葉はそこまでで足りた。
掲示板の紙は週末を越えてまだ貼ってある。剥がせない匿名の文句は、誰にも当たらない矢になって、それでも確かに刺さる。帰り道に静音タイプのドアクッションを買った。できることをひとつずつ。夜、洗濯物を干しながら、共用廊下の角を見る。誰もいない。警戒心と期待が綱引きをして、どちらも少しずつ負けてくれる。
足音。軽い靴の音が遠くから近づき、角で止まる。私は立ち尽くす。ドアスコープ越し、背の高い細い影がこちらに向き直る。チャイムは鳴らない。影は静かに紙袋を床に置いた。指先が一瞬、持ち手を離すのを惜しむように見える。次の瞬間、影は踵を返し、角の向こうに消えた。
鍵に触れただけで手を引く。開ければ生活の形が変わる気がした。湯を沸かし、湊のミルクを用意する。沸騰の音が四隅を転がって静かになる。湯気に触れ、少しだけ泣きたい気持ちがほどけた。スマホが震え、画面に短い言葉――〈おやすみなさい〉。私は同じ言葉を返し、灯りを落とす。
台所のステンレスが月の光を返し、細い線を作る。線は床を渡って玄関まで。そこに、もうひとつの生活の足跡が薄く重なって見える。朝だけの同居人。そう呼んでいいのかもまだわからない気配。名前のない優しさのことを、私たちはどう扱えばいいのだろう。お礼も請求書もないやり取りを、どこまで生活に置いておけるのだろう。
眠りに落ちる直前、ひとつだけ決めた。明日、保冷バッグの中に小さなメモを入れる。ありがとうの代わりに、スープのコツを一行。あなたが置いた優しさを、私の手の温度で、いちど返す。名前のないまま、手だけ温め合う方法が、もしあるのなら。

