痛ましい出来事の後、咲はデパートに出勤する気力さえ失いかけていた。自宅の静かな部屋で、彼女はただ一人、窓の外の灰色を見つめていた。怜央の「甘えるな」という言葉が、呪いのように頭の中で繰り返される。
インターフォンが鳴り、咲は重い足取りで玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのは、神崎 怜央の秘書、篠原(しのはら)だった。
篠原は怜央の右腕として知られる、非常に有能で口の堅い女性だ。彼女が個人的に咲の自宅を訪ねてきたことに、咲は驚きを隠せない。
「東條様、お忙しいところ申し訳ございません。神崎社長の指示ではありません。これは、私個人の判断で動いています」
篠原は、周囲を窺うように静かにそう告げると、咲の部屋へと入った。
篠原は、咲が淹れた紅茶には手をつけず、核心を突きつけた。
「単刀直入に申し上げます。先日のデータ移行のエラー、あれは東條様のミスではありません」
「え…?」
「神崎社長は、エラーの原因が外部からの意図的な改ざんによるものであることを、すぐに突き止めています。そして、その裏にいる人物も」
「そんな…じゃあ、怜央は知っていたの? 知っていて、私を…」
咲の声は震えた。怒りよりも、切ないほどの裏切りが胸を締め付ける。
「社長は、改ざんを仕掛けたのが高千穂 葵様であることも把握しています。高千穂様は、東條様をプロジェクトから排除し、その混乱に乗じてシンフォニアと高千穂の提携を有利に進めるつもりでした」
咲は混乱した。「それなら、なぜ怜央は私を庇ってくれなかったの? なぜあんな酷い言葉を…」
篠原は静かに続けた。
「社長は、あなたを守るためです。東條様の周囲には、社長があなたを特別に庇護していると気づいた人間が大勢います。
もしあの場で社長があなたを庇えば、高千穂葵様はターゲットを東條デパートのプロジェクトではなく、東條様自身に切り替えていたでしょう」
「…私自身?」
「高千穂グループは、あなたの婚約者である隼人様を通じて、あなたのあらゆる私生活、そして東條デパートの弱みを握ろうとしています。社長は、あなたが深く関わる前に、わざと冷酷な言葉であなたをビジネスの最前線から遠ざけたのです」
「彼らしいやり方ですね」と咲は呟いた。
「はい。ただ、あれが彼にできる最大の優しさでした。彼は、あなたが政略結婚を選んだこと自体に、深く傷ついています。だからこそ、自分の本心を隠すために、あんな冷徹な仮面を被らざるを得なかったのでしょう」
篠原は一呼吸置き、咲に一枚の紙を手渡した。それは、怜央が水面下で進めていた、東條デパートの再建に関する極秘の財務分析報告書だった。
報告書を読み進めるうちに、咲は悟った。怜央は、咲の知らないところで、ずっと東條デパートの、そして咲自身の安全を守るために動いていたのだ。彼の冷酷な言葉も、葵と親密にしていた姿も、すべては咲を遠ざけ、守るための偽りの芝居だったのではないか。
(私は、彼を完全に誤解していた…)
胸の奥に灯った、小さな希望の炎が、一気に燃え上がった。冷たい態度をとっていたのは、彼もまた素直になれず、そして切ないほどに咲を愛しすぎていたからだ。
「わかりました、篠原さん。ありがとう」
咲の目に、もう涙はなかった。代わりに宿っていたのは、強い光だった。
彼女は立ち上がり、窓の外を見つめた。政略結婚という道は、東條デパートを救う唯一の方法ではない。そして、愛する人を誤解したまま、彼の優しささえ受け取らずに終わることはできない。
「私は、彼の優しさに報いる。そして、私の力でデパートを救う」
咲の心は、再び、立ち上がる決意に満たされていた。
インターフォンが鳴り、咲は重い足取りで玄関へ向かった。ドアを開けると、そこに立っていたのは、神崎 怜央の秘書、篠原(しのはら)だった。
篠原は怜央の右腕として知られる、非常に有能で口の堅い女性だ。彼女が個人的に咲の自宅を訪ねてきたことに、咲は驚きを隠せない。
「東條様、お忙しいところ申し訳ございません。神崎社長の指示ではありません。これは、私個人の判断で動いています」
篠原は、周囲を窺うように静かにそう告げると、咲の部屋へと入った。
篠原は、咲が淹れた紅茶には手をつけず、核心を突きつけた。
「単刀直入に申し上げます。先日のデータ移行のエラー、あれは東條様のミスではありません」
「え…?」
「神崎社長は、エラーの原因が外部からの意図的な改ざんによるものであることを、すぐに突き止めています。そして、その裏にいる人物も」
「そんな…じゃあ、怜央は知っていたの? 知っていて、私を…」
咲の声は震えた。怒りよりも、切ないほどの裏切りが胸を締め付ける。
「社長は、改ざんを仕掛けたのが高千穂 葵様であることも把握しています。高千穂様は、東條様をプロジェクトから排除し、その混乱に乗じてシンフォニアと高千穂の提携を有利に進めるつもりでした」
咲は混乱した。「それなら、なぜ怜央は私を庇ってくれなかったの? なぜあんな酷い言葉を…」
篠原は静かに続けた。
「社長は、あなたを守るためです。東條様の周囲には、社長があなたを特別に庇護していると気づいた人間が大勢います。
もしあの場で社長があなたを庇えば、高千穂葵様はターゲットを東條デパートのプロジェクトではなく、東條様自身に切り替えていたでしょう」
「…私自身?」
「高千穂グループは、あなたの婚約者である隼人様を通じて、あなたのあらゆる私生活、そして東條デパートの弱みを握ろうとしています。社長は、あなたが深く関わる前に、わざと冷酷な言葉であなたをビジネスの最前線から遠ざけたのです」
「彼らしいやり方ですね」と咲は呟いた。
「はい。ただ、あれが彼にできる最大の優しさでした。彼は、あなたが政略結婚を選んだこと自体に、深く傷ついています。だからこそ、自分の本心を隠すために、あんな冷徹な仮面を被らざるを得なかったのでしょう」
篠原は一呼吸置き、咲に一枚の紙を手渡した。それは、怜央が水面下で進めていた、東條デパートの再建に関する極秘の財務分析報告書だった。
報告書を読み進めるうちに、咲は悟った。怜央は、咲の知らないところで、ずっと東條デパートの、そして咲自身の安全を守るために動いていたのだ。彼の冷酷な言葉も、葵と親密にしていた姿も、すべては咲を遠ざけ、守るための偽りの芝居だったのではないか。
(私は、彼を完全に誤解していた…)
胸の奥に灯った、小さな希望の炎が、一気に燃え上がった。冷たい態度をとっていたのは、彼もまた素直になれず、そして切ないほどに咲を愛しすぎていたからだ。
「わかりました、篠原さん。ありがとう」
咲の目に、もう涙はなかった。代わりに宿っていたのは、強い光だった。
彼女は立ち上がり、窓の外を見つめた。政略結婚という道は、東條デパートを救う唯一の方法ではない。そして、愛する人を誤解したまま、彼の優しささえ受け取らずに終わることはできない。
「私は、彼の優しさに報いる。そして、私の力でデパートを救う」
咲の心は、再び、立ち上がる決意に満たされていた。

