政略結婚を受け入れると決めた夜から、咲は何度も文面を組み立て、何度も消した。怜央にだけは、誰より先に正直に伝えたかった。けれど電話の発信ボタンは押せず、せめて顔を見て話そうと決めた。
その夜、シンフォニア・ホールディングスの祝賀パーティーは、都心の五つ星ホテル最上階。ガラス越しに夜景が流れ、シャンデリアの反射が床に細い光の川をつくる。低く抑えたジャズと氷の触れ合う音、海外メディアの英語が混じるざわめき。成功の匂いには、少し金属の味がした。
咲は〈企画室長代理〉の名札をジャケットの内側に隠し、紺のドレスの裾を指先で整えて入場した。まわりはビーズとサテンのきらめき、濃い香水。自分だけが色のない影みたいだ、と一瞬思う。
会場の中心に怜央がいた。黒のタキシードが似合いすぎて、光を背負って見える。身振りは少なく、笑いは浅いのに、人の視線だけが彼の周りに吸い寄せられていく。——遠い。手が、届かない。
人垣がほどけた刹那、咲は息を整え、一歩踏み出した。
「ずいぶん派手な場所に来たな、東條のお嬢さん」
先に気づいたのは怜央だった。挨拶を交わしていた相手に短く会釈し、視線を咲に固定する。黒曜石のような瞳。そこに、一瞬だけ素肌の温度が走り——すぐに、消えた。
「少し、お時間をいただけますか。二人で——」
「何の用だ。東條の案件なら秘書へ。個人的な付き合いは終わっている」
抑えた声なのに、刃の面だけがはっきり届く。胸の内側が冷えていく。
「違うの。これは……私のこと。高千穂グループとの——婚約の話」
言葉にした途端、舌が乾いた。頬が強張り、視界の端でシャンパンの泡がゆっくり昇る。
怜央の顔から、音が消えたように表情が抜けた。次の瞬間、唇の片端が冷たく持ちあがる。
「そうか。噂は本当か」
「噂……?」
「東條の社長が倒れ、家を守るために資本で婚姻を買う。——お嬢様の道楽にしては、値札が大きい」
氷の欠片を喉に押し込まれたみたいだった。
「違う! 私は——デパートを、父を——」
「言い訳は要らない」怜央は目線を崩さない。「お前は結局、楽な道を選んだ。俺が言ったろう、“檻の中の遊び”だと。出る勇気は持たず、より豪華な檻を選び直しただけだ」
音楽は途切れない。笑い声もワイングラスの澄んだ響きも続いているのに、咲の耳には自分の鼓動だけが際立った。
「あなたには、関係ない」
かろうじて声を出す。「あなたがどう思おうと、私の——」
「関係ないさ。二度と」
そこでようやく、咲はわずかに目を伏せた。喉まで上がっていた言葉を飲み込む。——引き止めて、なんて、言わない。
「……わかりました。お邪魔しました」
踵を返す。背に刺さる視線を、背筋で押し返す。足を速めるほど、床の光の川が乱れて、涙腺の境目が曖昧になる。
自動ドアを抜けると、夜は冷たい雨に変わっていた。庇の下を素通りして、咲は濡れるのも構わず歩き出す。タクシー乗り場の列を避け、ホテルの脇道へ。ヒールが石畳を打つたび、胸の奥で薄いガラスが割れる。
(軽蔑、された——)
喉の奥で、湿った息が揺れる。(どれだけの覚悟をしてここに立ったかなんて、あの人は知らない)
街角で足を止め、腕で顔を覆った。指先に冷たい雨。涙は雨に紛れて、誰にも見えない。
咲の背が人の群れに消えていくのを見届けると、怜央は人波を避けてバルコニーへ出た。ガラスの向こうで、首都高の赤いテールランプが連なっている。雨は斜めに吹き込み、タキシードの肩に薄い斑紋を落とした。
内ポケットから、小さな紙片を取り出す。くしゃりと癖のついた折り紙——幼い日の咲が、不器用に折って手渡してくれた星。角はすっかり丸く、色も褪せているのに、指先に乗せると、なぜかいちばん重い。
「……楽な道、ね」
怜央は薄く笑った。自分の声が思ったより掠れている。
数日前から、彼は東條家の資金繰りを裏で追っていた。高千穂の動きも。数字の端に、いくつもの無理筋な線が走っている。資本提携は“救済”の顔をして、東條の地所とブランドを剥ぎ取る絵図——そして、隼人の周りにまとわりつく黒い噂。
咲の言葉が胸の奥で反響するたび、別の言葉が喉まで上がってくる。——言うな。ここで抱き寄せるな。ここで甘さを見せれば、あいつは戻れなくなる。あの家の檻は、俺よりも長く、硬い。
(行かせるものか)
手の中の折り紙を握って、すぐに開く。紙が雨を吸って、指先に貼りついた。
(俺が悪役になってでも、その婚約を潰す)
スマートフォンが震えた。秘書からの新着。
《高千穂サイド、明日午前の理事会で東條支援案上程の情報。条件に“縁組”の文言》
《例の投資ファンドが背後に。資料送付》
「動いてるな」
怜央は短く息を吐き、指示を打つ。
《メディア対策最優先。東條の現場を守る声明案を今夜中。高千穂の“善意”の構造に穴がある。そこを叩く》
《——俺が前に立つ》
雨脚が強くなる。頬を濡らすのが雨か汗か、わからなくなる瞬間がある。バルコニーのガラス越しに、会場の光が揺れた。遠く、紺のドレスの残像が胸の内側にこびりついて離れない。
(檻の中の遊び、だと? 冗談じゃない)
(檻ごと壊してやる)
怜央は折り紙をもう一度、丁寧に畳み直した。濡れた紙は形を保ちにくい。それでも、掌で温めれば、少しだけ言うことを聞く。
背後のドアが開き、スタッフが傘を差し出した。
「神崎様、次のスピーチのご準備を」
「すぐ行く」
怜央は折り紙を内ポケットに戻し、雨の匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、照明の海へと歩を返した。冷たい光の中へ、迷いのない歩幅で。
会場の奥で、またグラスが触れ合う音がした。
冷たい雨は、その音さえ洗い流すかのように、夜の街を濡らし続けている。
その夜、シンフォニア・ホールディングスの祝賀パーティーは、都心の五つ星ホテル最上階。ガラス越しに夜景が流れ、シャンデリアの反射が床に細い光の川をつくる。低く抑えたジャズと氷の触れ合う音、海外メディアの英語が混じるざわめき。成功の匂いには、少し金属の味がした。
咲は〈企画室長代理〉の名札をジャケットの内側に隠し、紺のドレスの裾を指先で整えて入場した。まわりはビーズとサテンのきらめき、濃い香水。自分だけが色のない影みたいだ、と一瞬思う。
会場の中心に怜央がいた。黒のタキシードが似合いすぎて、光を背負って見える。身振りは少なく、笑いは浅いのに、人の視線だけが彼の周りに吸い寄せられていく。——遠い。手が、届かない。
人垣がほどけた刹那、咲は息を整え、一歩踏み出した。
「ずいぶん派手な場所に来たな、東條のお嬢さん」
先に気づいたのは怜央だった。挨拶を交わしていた相手に短く会釈し、視線を咲に固定する。黒曜石のような瞳。そこに、一瞬だけ素肌の温度が走り——すぐに、消えた。
「少し、お時間をいただけますか。二人で——」
「何の用だ。東條の案件なら秘書へ。個人的な付き合いは終わっている」
抑えた声なのに、刃の面だけがはっきり届く。胸の内側が冷えていく。
「違うの。これは……私のこと。高千穂グループとの——婚約の話」
言葉にした途端、舌が乾いた。頬が強張り、視界の端でシャンパンの泡がゆっくり昇る。
怜央の顔から、音が消えたように表情が抜けた。次の瞬間、唇の片端が冷たく持ちあがる。
「そうか。噂は本当か」
「噂……?」
「東條の社長が倒れ、家を守るために資本で婚姻を買う。——お嬢様の道楽にしては、値札が大きい」
氷の欠片を喉に押し込まれたみたいだった。
「違う! 私は——デパートを、父を——」
「言い訳は要らない」怜央は目線を崩さない。「お前は結局、楽な道を選んだ。俺が言ったろう、“檻の中の遊び”だと。出る勇気は持たず、より豪華な檻を選び直しただけだ」
音楽は途切れない。笑い声もワイングラスの澄んだ響きも続いているのに、咲の耳には自分の鼓動だけが際立った。
「あなたには、関係ない」
かろうじて声を出す。「あなたがどう思おうと、私の——」
「関係ないさ。二度と」
そこでようやく、咲はわずかに目を伏せた。喉まで上がっていた言葉を飲み込む。——引き止めて、なんて、言わない。
「……わかりました。お邪魔しました」
踵を返す。背に刺さる視線を、背筋で押し返す。足を速めるほど、床の光の川が乱れて、涙腺の境目が曖昧になる。
自動ドアを抜けると、夜は冷たい雨に変わっていた。庇の下を素通りして、咲は濡れるのも構わず歩き出す。タクシー乗り場の列を避け、ホテルの脇道へ。ヒールが石畳を打つたび、胸の奥で薄いガラスが割れる。
(軽蔑、された——)
喉の奥で、湿った息が揺れる。(どれだけの覚悟をしてここに立ったかなんて、あの人は知らない)
街角で足を止め、腕で顔を覆った。指先に冷たい雨。涙は雨に紛れて、誰にも見えない。
咲の背が人の群れに消えていくのを見届けると、怜央は人波を避けてバルコニーへ出た。ガラスの向こうで、首都高の赤いテールランプが連なっている。雨は斜めに吹き込み、タキシードの肩に薄い斑紋を落とした。
内ポケットから、小さな紙片を取り出す。くしゃりと癖のついた折り紙——幼い日の咲が、不器用に折って手渡してくれた星。角はすっかり丸く、色も褪せているのに、指先に乗せると、なぜかいちばん重い。
「……楽な道、ね」
怜央は薄く笑った。自分の声が思ったより掠れている。
数日前から、彼は東條家の資金繰りを裏で追っていた。高千穂の動きも。数字の端に、いくつもの無理筋な線が走っている。資本提携は“救済”の顔をして、東條の地所とブランドを剥ぎ取る絵図——そして、隼人の周りにまとわりつく黒い噂。
咲の言葉が胸の奥で反響するたび、別の言葉が喉まで上がってくる。——言うな。ここで抱き寄せるな。ここで甘さを見せれば、あいつは戻れなくなる。あの家の檻は、俺よりも長く、硬い。
(行かせるものか)
手の中の折り紙を握って、すぐに開く。紙が雨を吸って、指先に貼りついた。
(俺が悪役になってでも、その婚約を潰す)
スマートフォンが震えた。秘書からの新着。
《高千穂サイド、明日午前の理事会で東條支援案上程の情報。条件に“縁組”の文言》
《例の投資ファンドが背後に。資料送付》
「動いてるな」
怜央は短く息を吐き、指示を打つ。
《メディア対策最優先。東條の現場を守る声明案を今夜中。高千穂の“善意”の構造に穴がある。そこを叩く》
《——俺が前に立つ》
雨脚が強くなる。頬を濡らすのが雨か汗か、わからなくなる瞬間がある。バルコニーのガラス越しに、会場の光が揺れた。遠く、紺のドレスの残像が胸の内側にこびりついて離れない。
(檻の中の遊び、だと? 冗談じゃない)
(檻ごと壊してやる)
怜央は折り紙をもう一度、丁寧に畳み直した。濡れた紙は形を保ちにくい。それでも、掌で温めれば、少しだけ言うことを聞く。
背後のドアが開き、スタッフが傘を差し出した。
「神崎様、次のスピーチのご準備を」
「すぐ行く」
怜央は折り紙を内ポケットに戻し、雨の匂いを肺いっぱいに吸い込んでから、照明の海へと歩を返した。冷たい光の中へ、迷いのない歩幅で。
会場の奥で、またグラスが触れ合う音がした。
冷たい雨は、その音さえ洗い流すかのように、夜の街を濡らし続けている。

