翌日の昼休み。菜月は決意を固めて、お茶部の部室に向かっていた。

「よし、頑張るやて」

ドアをノックすると、麻美部長の声が聞こえた。

「どうぞ」

「失礼します。昨日の菜月です」

「あら、菜月ちゃん!」真由が嬉しそうに振り返った。「また来てくれたのね」

「はい、あの…もしよろしければ、お茶部に入部させてください」

部室が一瞬静かになり、そして拍手が沸き起こった。

「やったー!」「嬉しい!」部員たちが口々に歓迎してくれる。

「決め手は何だったの?」麻美部長が笑顔で聞いた。

「ここにいると、ありのままの自分でいられるような気がして」

「それが一番大切よね」佐藤先輩がうなずいた。



「それじゃ、簡単な自己紹介をお願いします」

菜月は部員のみんなの前に立った。

「村瀬菜月です。福井県出身で、18歳です。和菓子作りとお茶が好きで、方言がよう出てしまいますが、よろしくお願いします」

「『よう出てしまいます』って可愛いわね」真由がにこにこした。

「あの、方言のこと、迷惑じゃないですか?」

「とんでもない!」麻美部長が首を振った。「むしろ、お茶の世界には寂和敬静寂(わけいせいじゃく)』という心があるのよ。お互いを尊重し合う気持ちが大切なの」

「菜月ちゃんの方言も、その人らしさの一部。大切にしてほしいわ」

菜月の目に涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」

◆部活動スタート◆

「今日は茶道の基本的な動作を覚えましょう」

畳の上に正座した菜月。姿勢がとても美しい。

「菜月ちゃん、お茶の経験があるのね。とても綺麗な姿勢よ」

「おばあちゃんに教わったやて」

「その『やて』、本当に優しい響きね」新入部員の1年生・田島さくらが言った。

さくらは菜月と同じ1年生で、今日初めて部活見学に来たのだった。

「田島さんも入部を考えてるの?」菜月が聞いた。

「はい、でもお茶のことは全然分からなくて…」

「私も初心者やて。一緒に頑張りましょう」

「ありがとうございます!菜月先輩」

「先輩なんて、そんな」菜月が照れていると、みんなが笑った。



「まずは茶筅(ちゃせん)の持ち方から」

麻美部長の指導で、菜月とさくらは一緒に練習した。

「こうやって、優しく回すんにゃの」

「『にゃの』?」さくらが首をかしげた。

「あ、『ですね』という意味です」

「面白い言い方!覚えちゃいそう」

さくらが屈託なく笑った。菜月はほっとした。方言を嫌がらずに、むしろ面白がってくれている。

「さくらちゃんは東京の子?」

「はい、生まれも育ちも東京です。でも菜月さんの話し方、すごく温かくて好きです」

「ありがとう」

二人は自然と仲良くなった。

◆お茶の時間◆

練習の後は、みんなでお茶を飲む時間。

「菜月ちゃん、昨日の研究発表会はどうだった?」真由が聞いた。

「実は、ちょっと複雑な気持ちになって…」

菜月は昨日の出来事を話した。突然名前を呼ばれたこと、方言を「研究対象」として扱われた気分になったこと。

「なるほどね」佐藤先輩がうなずいた。「気持ちは分かるわ」

「でも」麻美部長が言った。「その田中くんは、菜月ちゃんの方言の美しさを多くの人に伝えたかったのかもしれないわよ」

「そうでしょうか?」

「恋は複雑なものよ」真由がにやりと笑った。「彼の本当の気持ちを知るには、時間が必要かもね」

◆その時、部室にノック◆

「失礼します」

ドアを開けて入ってきたのは、圭介だった。

「あ、圭介先輩」菜月が驚いた。

「菜月さん、こちらにいらしたんですね」

お茶部のメンバーが圭介を見ている。昨日に続いて、また現れた。

「あの、田中さんですね?」麻美部長が立ち上がった。「昨日も来られましたが…」

「はい、すみません。菜月さんにお話があって」

「お茶部の活動中なんですが」佐藤先輩が少しきつい口調で言った。

「申し訳ありません」圭介が頭を下げた。「菜月さん、昨日はありがとうございました。お礼をさせてください」

「あの、圭介先輩」菜月が立ち上がった。「少しお話できますか?」

お茶部のメンバーが心配そうに見ている中、菜月と圭介は廊下に出た。

◆廊下での会話◆

「昨日は、事前に相談なしに名前を呼んでしまって、申し訳ありませんでした」

圭介が深々と頭を下げた。

「いえ、そんなに謝らなくても…」

「でも、菜月さんが嫌な思いをされたのは事実です」

菜月は少し驚いた。圭介先輩が自分の気持ちに気づいてくれていたなんて。

「あの、圭介先輩は私のことを『研究材料』だと思ってますか?」

圭介が顔を上げた。

「なぜそんなことを?」

「昨日の発表を聞いていて、私の方言を『興味深い現象』として見てるような気がして」

圭介は困ったような表情を浮かべた。

「確かに、学術的な興味もあります。でも、それだけではありません」

「どういう意味ですか?」

「菜月さんの方言を通して、菜月さんという人を知りたいんです」

菜月の心がドキドキした。

「故郷への愛情、家族への思い、そういうものが言葉に込められている。それが美しいんです」

「圭介先輩…」

「もしよろしければ、今度お茶でもいかがですか?研究の話ではなく、菜月さんのお話を聞かせてください」

菜月は迷った。圭介先輩の言葉は誠実に聞こえるけれど、まだ完全には信用できない。

「少し、時間をください」

「もちろんです」圭介が微笑んだ。「急かすつもりはありません」

◆部室に戻って◆

「どうだった?」真由が心配そうに聞いた。

「圭介先輩、謝ってくれました」

「そう、良かったじゃない」

「でも、まだちょっと迷ってるんにゃ」

「『迷っています』ね」さくらが微笑んだ。「でも、慎重になるのは大切ですよ」

「さくらちゃん、ありがとう」

麻美部長が口を開いた。

「菜月ちゃん、焦る必要はないのよ。お茶の心は『一期一会』。でも、それは急ぐという意味じゃない。一つ一つの出会いを大切にするということ」

「なるほど」

「田中くんとも、じっくりと関係を築いていけばいいのよ」

◆部活動の後◆

「菜月先輩、今日はありがとうございました」さくらがお辞儀した。

「こちらこそ。さくらちゃんも入部してくれる?」

「はい!ぜひお願いします」

二人は一緒に部室を出た。

「先輩の方言、本当に素敵です。私も覚えちゃいそう」

「そんなこと言わんといて。恥ずかしいやて」

「あ、『言わんといて』!可愛い」

菜月は笑った。さくらのような子がいてくれると心強い。

◆寮への帰り道◆

駅に向かう途中、菜月はファミレスの前を通った。バイト先のサニーテーブルだ。

中を覗くと、佳乃が忙しそうに働いている。手を振ると、佳乃も気づいて手を振り返してくれた。

「今日はお休みやったの」

そんなことを思いながら歩いていると、後ろから声がかかった。

「菜月!」

振り返ると、未来がやってきた。

「未来ちゃん、どうしたん?」

「お茶部、どうだった?息切れしながら聞いた。

「入部したやて」

「良かった!」未来が嬉しそうに笑った。「菜月ちゃんらしい選択よ」

「ありがとう。あと、新しい友達もできたやて」

「そう、良かったじゃない」

二人は並んで歩いた。

「あ、そうそう」菜月が思い出した。「圭介先輩が謝りに来てくれた」

未来の表情が少し曇った。

「そう…」

「でも、まだお茶の誘いは保留にしてるやて」

「なぜ?」

「まだ、圭介先輩の本当の気持ちがよく分からんから」

未来はほっとした。でも、それと同時に複雑な気持ちにもなった。

「菜月ちゃんは、圭介先輩のことが好きなの?」

菜月は立ち止まった。

「分からん」

「分からない?」

「好きやと思うけど、同時に怖いねん」

「怖い?」

「もし、私のことを本当に理解してくれなかったら…」

未来は菜月の手を握った。

「菜月ちゃんを理解できない人は、その人の方がもったいないのよ」

「ありがとう、未来ちゃん」

二人は見つめ合った。夕日が二人を優しく照らしている。

◆寮に帰って◆

「今日は充実した一日やったの」

ベッドに横になりながら菜月がつぶやいた。

「お茶部に入れて良かったわね」

「うん、みんな優しいし、新しい友達もできたし」

「さくらちゃん?」

「そう、すごく素直で可愛い子やて」

未来は微笑んだ。菜月が新しい友達を作るのは嬉しいけれど、少し寂しくもある。

「私も菜月ちゃんの友達と会ってみたいな」

「ほんまに?今度紹介するやて」

その時、菜月の携帯が鳴った。悠真からだった。

「はい、悠真?」

「おう、菜月。部活決まったんやってな」

「うん、お茶部に入ったやて」

「ええやん。菜月らしくて」

「そうかの?」

「おう、菜月はもともと落ち着いとるし、お茶が似合いそうや」

悠真の言葉に菜月は嬉しくなった。

「ありがとう、悠真」

「それと、無理せんでもいいからな。菜月のペースで頑張ればいい」

電話を切った後、未来が言った。

「悠真くん、本当に菜月ちゃんのことを分かってくれてるのね」

「うん、幼なじみやから」

「羨ましいな」

「え?」

「そんなに理解し合える人がいるなんて」

未来の言葉に、菜月は何か特別なものを感じた。

「未来ちゃんも、私のこと分かってくれてるやて」

「本当?」

「本当や。あんたがおらんかったら、東京でやっていけんかった」

未来の胸が温かくなった。

「私も、菜月ちゃんに出会えて良かった」

二人は笑い合った。

明日からまた、新しい日々が始まる。お茶部での活動、バイト、そして複雑な恋心。

菜月の東京ライフは、ますます彩り豊かになっていく。