ある日の夜、菜月は久しぶりに実家に電話をかけた。

最後に話したのは一ヶ月以上前。色々あって忙しく、つい連絡を怠っていた。

「もしもし、お母さん?」

「おお、菜月け!久しぶりやの」

母の声を聞いた瞬間、菜月の目に涙が浮かんだ。

「ごめん、しばらく連絡できんくて」

「ええがよ、ええがよ。忙しいんやろ?元気にしとっけ?」

「うん、元気やて」

「そっけ、良かった。お母さん、心配しとったがよ」



「最近どうしとるがけ?バイトは?大学は?」

母が矢継ぎ早に質問してくる。

「バイトも大学も順調やて。お茶部の活動も楽しいしの」

「そっけ、良かった。あ、そうそう、悠真のお母さんから聞いたがやけど」

「何?」

「菜月、彼氏できたんやってな」

菜月の顔が赤くなった。

「悠真、お母さんに言ったがけ?」

「そうみたいやの。どんな人ながけ?」

「えーっと、大学の先輩で、言語学を勉強してて、すごく優しい人やて」

「ほう、言語学?」

「うん、方言とか古語とかを研究してるがよ」

「菜月の方言も研究されとるがけ?」

母が少し心配そうに聞いた。

「最初はそうやったかもしれんけど、今は違うがよ。ちゃんと私のこと見ててくれるがやて」

「そっけ、良かった」

母の声が安心したように聞こえた。


「あのね、お母さん」

「うん?」

「私、東京で方言のことでようけ失敗したがやて」

「どんな?」

菜月は今までの出来事を話した。バイト先での誤解、新婚カップルへの「けなるい」発言、雑誌を拾った時の「おとましい」騒動。

「そんなことがあったがけ」

「うん、その時は恥ずかしくて、方言やめようかと思ったやて」

「でも、やめんかったんやろ?」

「うん、みんなが私の方言を大切にしてくれて」

「そっけ」

母が優しく言った。

「菜月、お母さんな、心配しとったがよ」

「何を?」

「東京に行って、菜月が菜月やなくなってしまうんやないかって」

菜月は驚いた。

「標準語ばっかり話して、故郷のこと忘れて、別人みたいになってしまうんやないかって」

「そんなこと、ないやて」

「でも、今の話聞いて安心したわ」

「どうして?」

「菜月、ちゃんと方言で話しとるもん」

母の言葉に、菜月はハッとした。

確かに、母との電話では自然に福井弁が出ている。標準語を意識することなく、ありのままに話している。

「そっけやの」

「菜月は、ちゃんと菜月のままや」

母の言葉が、菜月の胸に響いた。


「おばあちゃんは元気?」

「元気やて。この前も、菜月のこと話しとったわ」

「何て言ってた?」

「『菜月は東京で頑張っとるけ、応援せんなん』って」

菜月の目に涙が浮かんだ。

「おばあちゃん…」

「あ、おばあちゃん来たわ。代わるけ?」

「うん!」

電話の向こうで声が変わった。

「もしもし、菜月け?」

「おばあちゃん!」

「久しぶりやの。元気にしとっけ?」

「うん、元気やて」

「そっけ、良かった。あのね、菜月」

「うん?」

「この前、福井に来た時、すごく嬉しかったやて」

「私も嬉しかった」

「菜月が東京でようやっとるって聞いて、おばあちゃん誇らしいがよ」

「ありがとう、おばあちゃん」

「方言のこと、悩んどるって悠真から聞いたけど」

「うん、でも今は大丈夫やて」

「そっけ。菜月、覚えとるけ?おばあちゃんが言った言葉」

「どの言葉?」

「自分らしさを忘れんようにって」

「覚えてる」

「方言も、故郷のことも、全部菜月の一部や。それを大切にしてくれる人が、本当にええ人やで」

「うん、圭介先輩は大切にしてくれてる」

「そっけ、良かった。幸せになりや」

「ありがとう、おばあちゃん」

「菜月、また代わるけ」

母の声に戻った。

「お母さん、あのね」

「うん?」

「私、最近色々あったがやけど、みんなに支えられて乗り越えられた」

「そっけ」

「さくらちゃんとか、未来ちゃんとか、お茶部のみんなとか、バイト先のみんなとか」

「ええ友達ができたがやね」

「うん」

「お母さん、嬉しいわ」

母の声が少し震えていた。

「菜月が一人で東京に行って、お母さんすごく心配やったがよ」

「ごめん、心配かけて」

「ええがよ。でも、今の菜月の声聞いて、ちゃんと成長しとるって分かった」

「成長してる?」

「うん。声に自信があるもん」

菜月は気づかなかったが、確かに以前より自信を持って話している気がする。

「お母さん、ありがとう」

「何が?」

「いつも応援してくれて」

「当たり前やろ。菜月はお母さんの大切な娘やもん」



「お父さんは?」

「仕事やて。でも、菜月のこと、いつも心配しとるけ」

「そうなが」

父は口数が少ないけれど、いつも家族を大切にしてくれる。

「お父さんも、菜月が幸せならええって言っとったわ」

「お父さんに、ありがとうって伝えて」

「自分で電話せ」母が笑った。

「そっけやの」



「あのね、お母さん」

「うん?」

「圭介先輩、来年から京都の大学院に行くことになったがやて」

「遠距離恋愛になるがけ」

「うん」

「大丈夫け?」

「大丈夫やて。私、頑張るから」

「ほうか(そうか)。応援しとるで」

「ありがとう」

「でもな、菜月」

「うん?」

「無理はせんようにの」

「分かってる」

「恋愛も大事やけど、自分のことも大切にせな」

「うん」

「それから、たまには実家に帰ってきやよ」

「うん、夏休みに帰るけ」

「楽しみにしとるわ」



「そろそろ時間やの」

母が言った。

「もう?」

「うん。長電話になってしもうた」

「ごめん」

「ええがよ。久しぶりに菜月の声聞けて嬉しかった」

「私も」

「また電話してや」

「うん、今度はもっと頻繁に電話する」

「楽しみにしとるで」

「お母さん、大好きやて」

「お母さんも、菜月のこと大好きやで」

母の声が優しく響いた。

「じゃあ、またね」

「うん、元気でな」

「お母さんも」

電話を切った後、菜月は涙が止まらなかった。

嬉しい涙だった。

母の声、おばあちゃんの声、故郷の温かさ。

全部が懐かしくて、愛おしかった。

◆一人の部屋で◆

ベッドに横になって、菜月は天井を見つめた。

「私、幸せやて」

小さくつぶやいた。

東京での生活は大変だった。

方言で失敗したり、誤解されたり、友達に告白されたり、恋愛で悩んだり。

でも、全部が自分を成長させてくれた。

そして、いつも支えてくれる人たちがいる。

圭介先輩、さくら、佳乃、お茶部のみんな、バイト先のみんな、悠真、未来。

そして、故郷の家族。

「みんな、ありがとう」

窓の外では、東京の夜景が輝いている。

でも、菜月の心の中には、故郷の景色も輝いていた。

田んぼの風景、おばあちゃんの家、悠真と遊んだ公園。

「あの町の言葉と、この町のわたし」

両方を持って生きていく。

それが、菜月の選んだ道。

そして、その道は間違っていないと、母との電話で確信できた。

「頑張るやて」

小さくつぶやいて、菜月は眠りについた。

明日からまた、新しい一日が始まる。

でも、もう怖くない。

自分らしく、堂々と生きていける。

方言も、故郷も、全部を誇りに思いながら。

菜月の物語は、まだまだ続いていく。