バイトでの失敗から一週間。菜月は少しずつ立ち直り、お茶部での活動に打ち込んでいた。

「今日は一時間、正座で茶道の稽古をします」

麻美部長の言葉に、部員たちは覚悟を決めた。

「一時間かあ…」さくらが不安そうにつぶやいた。

「大丈夫、慣れればできるようになるわよ」真由が励ました。


畳の上に正座した菜月。背筋を伸ばし、きれいな姿勢を保っている。

「菜月ちゃん、さすがね。姿勢が美しいわ」麻美部長が感心した。

「おばあちゃんに小さい時から仕込まれたがやて」

「『仕込まれた』って、厳しく教わったの?」さくらが聞いた。

「うん、お正月とか親戚が来る時は、ずっとおちょきんしとかんなんかったがよ」

「『おちょきん』?」部員たちが首をかしげた。

「あ、正座のことやて」

「可愛い言い方ね」真由が笑った。「『おちょきん』…なんか響きが優しい」



「ふう…」

さくらが小さく息を吐いた。足がしびれ始めている。

「大丈夫?」菜月が心配そうに聞いた。

「うん、でもちょっときついかも」

「私も最初はそうやった。でも慣れるやて」

菜月は余裕の表情。子供の頃からの訓練が活きている。


「もうすぐ終わりよ、頑張って」麻美部長が励ました。

みんな必死に耐えている。さくらは顔を真っ赤にしながらも、なんとか姿勢を保っていた。

「菜月ちゃんは平気そうね」佐藤先輩が感心した。

「子供の頃からやっとったから」



「お疲れさまでした」

麻美部長の合図で、ようやく足を崩すことができた。

「あー、やっと終わった」さくらが大きく伸びをした。

菜月も足を崩そうとした瞬間…

「あ、あれ?」

足が動かない。完全にしびれている。

「菜月ちゃん、どうしたの?」

「おちょきんしてたら、足しびれてんた!」

菜月が慌てた声で言った。

部員たちが一瞬静まり返り、そして大爆笑。

「『おちょきん』って言い方、やっぱり可愛い!」真由が笑い転げた。

「『しびれてんた』も面白い」佐藤先輩も笑っている。

「笑わんといてよ!」菜月が恥ずかしそうに言った。

「でも、菜月ちゃんでもしびれるんだね」さくらがくすくす笑いながら、菜月の足をマッサージしてくれた。

「あ、ありがとう、さくらちゃん」

「どういたしまして」

さくらの手が優しく菜月の足をさすっている。菜月は少しドキドキした。

「でも『おちょきん』って、正座のことだったんだ」新入部員の子が言った。

「そうやて。福井では普通に使うがよ」

「覚えちゃいそう」さくらが笑った。



「失礼します」

またしても圭介が現れた。

「あ、圭介先輩」菜月が驚いた。

お茶部のメンバーは少し警戒した表情。またこの人か、という雰囲気。

「こんにちは。お邪魔してすみません」

「どうぞ」麻美部長が丁寧に応対した。

圭介が部室に入ってくると、先ほどの会話を聞いていたことが分かった。

「『おちょきん』…」

圭介は手帳を取り出して、メモを取り始めた。

「正座を『おちょきん』と言うんですね。これは興味深い」

菜月は複雑な気持ちになった。またメモを取られている。

さくらの表情が曇った。

「圭介先輩、また菜月ちゃんの言葉をメモしてるんですか?」

「え?ああ、すみません」圭介が慌てて手帳を閉じた。

「でも、これは純粋に言語学的な興味で…」

「いつもそう言いますよね」さくらが少しきつい口調で言った。

「さくらちゃん」菜月が止めようとした。

「菜月ちゃんは研究材料じゃないのに」

部室の空気が張り詰めた。

「すみません」圭介が深々と頭を下げた。「確かに、僕の態度には問題があったかもしれません」

麻美部長が仲裁に入った。

「田中さん、今日はどういったご用件ですか?」

「はい、実は菜月さんにお話があって」

「また研究の話ですか?」さくらが口を挟んだ。

「いえ、今回は違います」

圭介が菜月を見た。

「先日の誤解の件、改めてお詫びとお話がしたくて」

菜月は迷った。圭介先輩は本当に自分のことを理解しようとしてくれているのか、それとも研究対象としてしか見ていないのか。

「あの、圭介先輩」

「はい」

「私の方言を聞いて、すぐメモを取るのは…正直、嫌やて」

圭介が驚いた表情を見せた。

「そうですか…申し訳ありませんでした」

「研究材料として見られてる気がして」

「それは誤解です」圭介が必死に説明した。「僕は確かに言語学を専攻していますが、菜月さんのことは…」

「どう思ってるんですか?」

部員たちが二人のやり取りを見守っている。

「僕は…」圭介が言葉に詰まった。

「正直に言ってください」

圭介は深呼吸をして、覚悟を決めた。

「菜月さんのことが好きです。最初は方言に興味を持ったのは事実ですが、今は菜月さん自身に惹かれています」

部室が静まり返った。

「でも、僕の態度が誤解を招いてしまって。メモを取るのも、菜月さんの言葉を忘れたくないからで…」

「先輩…」

「でも、それが菜月さんを不快にさせていたなら、これからはやめます」

圭介の真剣な表情に、菜月の心が揺れた。

さくらは複雑な表情で二人を見ていた。

「あの、圭介先輩」菜月が口を開いた。

「はい」

「メモを取るのは、完全にやめなくてもいいです」

「え?」

「でも、その前に私に聞いてください。『今の言葉、メモしてもいい?』って」

圭介の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます」

「それから、私のことを『研究対象』として見るんやなくて、一人の人間として見てください」

「もちろんです」

二人は見つめ合った。

さくらは拳を握りしめていた。菜月が圭介先輩を許してしまった。

麻美部長が咳払いをした。

「それでは、田中さん。今日の用件は?」

「はい、今度の日曜日、お時間いただけませんか?」

「デートの誘いですか?」真由がにやりと笑った。

「はい」圭介が素直に答えた。

菜月の顔が真っ赤になった。

「あの…」

「お茶部の活動は?」さくらが口を挟んだ。

「日曜日は活動ないわよ」麻美部長が言った。

さくらは黙ってしまった。

「どうでしょうか?」圭介が菜月を見た。

菜月は迷った。でも、ちゃんと向き合ってみるべきかもしれない。

「はい、大丈夫です」

「ありがとうございます」

圭介が嬉しそうに笑った。

「それでは、詳細はまたメールで」

「はい」

圭介が部室を出て行った後、部員たちが菜月を囲んだ。

「やった!デートじゃない」真由が興奮している。

「菜月ちゃん、良かったね」麻美部長も笑顔。

でも、さくらだけは笑っていなかった。

「さくらちゃん、どうしたん?」菜月が心配そうに聞いた。

「ううん、何でもない」

さくらは無理に笑顔を作った。

「菜月ちゃんが幸せならいいの」

でも、その笑顔は少し寂しそうだった。

◆帰り道◆

「さくらちゃん、一緒に帰ろう」

「ごめん、今日は先に帰るね」

さくらは足早に去って行った。

菜月は不安になった。さくらの様子がおかしい。

「菜月ちゃん」麻美部長が声をかけてきた。

「はい?」

「田島さんのこと、気づいてる?」

「え?」

「彼女、菜月ちゃんのこと、特別に思ってるみたい」

菜月は驚いた。そういえば、さくらはいつも自分を守ってくれて、圭介先輩に対して厳しくて…

「まさか…」

「まあ、確証はないけどね。でも、気にかけてあげて」

「はい」

菜月は複雑な気持ちで家路についた。

圭介先輩とのデートは決まったけれど、さくらのことが気になる。

そして、未来はこのことをどう思うだろう。

恋は、本当に複雑だ。