桜が舞い散る四月の朝、村瀬菜月(むらせなつき)は大きなスーツケースを引きずりながら、新宿駅の人波に揉まれていた。

「うわあああ…」

思わず漏れた声は、故郷福井の山々にこだまするような、のんびりとした響きだった。でも今、その声は東京の喧騒にかき消されてしまう。

菜月は立ち止まって、改めて駅構内を見回した。テレビで見たことはあったけれど、実際に目の当たりにする人の多さは想像を超えていた。みんな足早に歩いて、誰も立ち止まらない。まるで時間に追われているみたい。

「あの-、すんません」

通りかかったサラリーマンに声をかけようとしたが、彼は菜月の存在に気づくこともなく通り過ぎていった。

「ほやほや(そうそう)…東京って本当に冷たいんやって」

小さくつぶやいて、菜月はスマートフォンの地図アプリを確認した。目指すは都内某所にある女子大学の寮。入学式まであと三日。新生活への期待と不安が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いている。

地下鉄に乗り換えて、ようやく最寄り駅に到着した頃には、もう夕方になっていた。菜月の頬は疲労で少し赤らんでいる。

寮は駅から徒歩十分ほどの場所にある、白い四階建ての建物だった。エントランスで管理人さんに鍵を受け取り、エレベーターで三階へ。

「312号室…あった」

ドアの前で深呼吸をして、菜月は恐る恐る鍵を回した。

「お疲れさま!」

ドアを開けた瞬間、明るい声が響いた。部屋の奥から現れたのは、ショートカットの女の子。きりりとした目元で、菜月より少し背が高い。

「私、佐伯未来(さえきみく)。よろしく!あなたが菜月ちゃんよね?」

「あ、はい!村瀬菜月です。よろしくお願いします」

菜月は慌てて頭を下げた。標準語で話そうと意識したつもりだったが、語尾がどこかぎこちない。

「ふうん、関西?」未来が首をかしげる。

「いえ、福井です」

「福井かあ。恐竜の?」

「ほや!恐竜博物館、有名やの」

「『ほや』?」未来がくすりと笑った。「面白い言い方するのね」

菜月の頬が赤らんだ。早速方言が出てしまった。

「あ、えーっと…そうです、って意味です」

慌てて言い直すと、未来は手をひらひらと振った。

「別に直さなくていいよ。私、方言好きだから。なんか温かい感じがして」

その言葉に菜月は少しほっとした。でも心の片隅では、やっぱり気をつけなければと思っていた。

二人は一緒に夕食を作ることになった。菜月がスーツケースから出した食材を見て、未来が目を丸くする。

「これ何?」

「へしこです。鯖のこんか漬け(ぬか漬け)や」

「へしこ…初めて聞いた。どんな味?」

「しょっぱくて、お酒のお供にいいんやざ。ご飯にも合うし」

菜月は自然体で説明したが、途中で気づいて慌てる。

「あ、『いいんです』って言いたかったんです」

「『いいんやざ』でも伝わるよ。むしろそっちの方が菜月ちゃんらしくていい」

未来の優しさに救われながら、菜月は少しずつ東京での生活をスタートさせようとしていた。

窓の外では、東京の夜景がきらきらと輝いている。故郷の福井では見ることのできない、まばゆい光の海。

「明日から、がんばらんなんの」

小さくつぶやいた菜月の言葉を、未来は聞き逃さなかった。

「『がんばらんなん』…『頑張らなければならない』ってこと?」

「そうです。方言、変ですよね」

「変じゃない。むしろ『頑張らなければならない』より、なんだか心がこもってる気がする」

未来の言葉に、菜月の心は温かくなった。

でもきっと、大学に行けばそうはいかないだろう。もっとたくさんの人と出会って、もっと標準語を話さなければならない。

その夜、菜月は故郷に電話をかけた。

「もしもし、お母さん?東京着いたで」

「おお、菜月け。元気にしとっけ?寮はどうやの?」

受話器から聞こえる母の声は、いつものような福井弁。それがこんなにも懐かしく、心に染みるものだとは思わなかった。

「うん、ルームメイトの子がやさしくて。でも…ちょっと不安やの」

「何やて?」

「福井弁がね、つい出てしまうやって。恥ずかしいしの」

電話の向こうで母が笑う声が聞こえた。

「そんなもん、にんならん(気にしない)。あんたはあんたやもん。無理して変わる必要なんかないやて」

「でも…」

「大丈夫やて。きっとみんな、あんたのことを好きになってくれるけ」

母の言葉に少し勇気をもらいながら、菜月は受話器を置いた。

明日は入学式。新しい自分になれるだろうか。それとも、故郷の言葉を抱えたまま、東京という大海原に飛び込んでいくのだろうか。

窓際のベッドに横になりながら、菜月は天井を見つめていた。隣のベッドでは、未来が既に寝息を立てている。

「あの町の言葉と、この町のわたし…」

そんな言葉が、ふと心に浮かんだ。

明日から始まる大学生活。どんな出会いが待っているのか、菜月にはまだ分からなかった。