夜更けの邸宅。
玄関ホールに戻った紗良は、怜司の靴を見て足を止めた。
すでに帰宅している――そう気づいた瞬間、胸が締めつけられる。

(ホテルで……あの人と会っていたのに)

玲奈の白い指が怜司の腕に触れた場面が脳裏に焼き付いて離れない。
冷たい吐息を押し殺し、紗良は静かに自室へ駆け込んだ。



一方その頃、怜司は書斎で書類に目を通していた。
しかし文字は視界に入らない。
拳を握りしめたまま、ラウンジでの光景が脳裏に蘇る。

「……見られていなければいいが」

唇を噛む。
玲奈の誘いを突き放したにもかかわらず、その一瞬を誤解されれば、紗良にとっては「裏切り」にしか映らない。



翌朝。
食卓に並ぶ朝食を前に、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
カトラリーの触れ合う音が妙に響く。

「紗良……」
意を決したように怜司が口を開いた。
「昨日は――」

「説明なんて、いらないわ」

紗良の声は冷たく震えていた。
「もう十分。聞きたくない」

怜司の瞳に影が落ちる。

「違うんだ。俺は――」
「やめて! そんな言葉、信じられると思う?」



怜司の胸に鋭い痛みが走る。
それでも真実を語ることはできない。
神宮寺家の陰謀に紗良を巻き込むわけにはいかないからだ。

「……俺を信じてくれ」
かすれるように告げるが、その言葉はあまりにも弱々しく響いた。

紗良は俯いたまま小さく首を振る。
「もう無理よ。あなたのどの顔が本当なのか、分からない」



沈黙が落ちる。
怜司は伸ばしかけた手を止め、拳を固く握り締めた。

(どうして話せない……どうして、彼女を守ることが、こんなにも彼女を傷つけてしまうんだ)

胸の奥で叫びが渦巻く。
だが怜司はただ冷たい仮面を被るしかなかった。



食卓を去る紗良の背中は遠く、怜司の視線はその背を追いながらも、一歩も動けなかった。

(紗良……必ず、誤解を解いてみせる。だが今はまだ……)

彼の心には、愛と沈黙の苦悩が深く突き刺さっていた。