夜。
「急ぎでお話がありますの」と玲奈から連絡を受け、怜司はひとりホテルのラウンジに現れた。
人気の少ない空間、ピアノの旋律が静かに響く。
テーブルで待っていた玲奈は、深紅のドレスに身を包み、妖艶な笑みを浮かべていた。

「ごきげんよう、怜司さま」
「……呼び出したのは何の用だ」

怜司の声は冷たい。
だが玲奈は怯むことなく、ワイングラスを傾けた。

「あなたの会社に迫る危機――父の動きを封じるには、神宮寺家との協力が必要ですわ。
けれど、そのためには条件があるの」

「条件?」
「奥さまと……別れていただくこと」



怜司の眉がぴくりと動いた。
「……何を言っている」
「本気ですわ。私は、あなたを支えられる。あなたを孤独にしないのは私よ」

玲奈の指先が怜司の腕に触れる。
怜司は即座に振り払い、低い声で告げた。

「ふざけるな。俺の妻は紗良だけだ」



だがその瞬間――。
ラウンジの入口近くで立ち尽くす影があった。
偶然そこを通りかかった紗良。

視界に飛び込んできたのは、夫と令嬢が向かい合い、柔らかく言葉を交わす光景。
玲奈の白い手が怜司の腕に伸びる瞬間を、はっきりと見てしまった。

胸が凍りつく。
(やっぱり……怜司さんは私を裏切っていたのね)

息が詰まり、声にならない叫びを胸に押し込めたまま、紗良は踵を返し、その場から逃げ出した。



「……怜司さま」
玲奈の瞳が揺れる。
振り払われた腕を見下ろしながらも、胸の奥に熱い疼きを覚えていた。

怜司は苛立ちを押し殺し、拳を固く握る。
「二度とこんな真似はするな」

冷たい声が響いたが、その背後には、すでに紗良の姿はなかった。



夜風に当たりながら屋敷へ戻った紗良の心には、ただひとつの確信が残っていた。
――もう、怜司を信じられない。

こうして夫婦の溝は、決定的な深さを刻んでいった。