鏡の裏側

 部屋の隅に、小さな姿見が置かれていた。古い木枠にひびが入り、少し歪んだその鏡は、誰も気に留めないような存在だった。

 私は夜遅くまで勉強をしていた。部屋は暗く、机の上のランプだけがかろうじて文字を照らしている。ふと、視線が鏡に映った自分に止まった。

 「……あれ?」

 手元のペンを持ったまま、私は眉をひそめる。鏡の中の自分が、微かに動きが遅れている。いつもなら呼吸やまばたきに合わせて同じように動くはずなのに。

 試しに腕を上げる。鏡の中の私は、ぎこちなく、こちらの動きにわずかに遅れて腕を動かした。その遅れは、ほんの数秒。でも、確実に、違和感として胸に刺さった。

 「気のせい……だよな」

 私は自分に言い聞かせて、再び勉強に戻ろうとした。しかし、鏡の中の私が小さく笑った。

 「……笑った?」

 息が止まり、私は思わず後ずさる。鏡の中の私の口元は、確かに笑っている。だが、私は笑っていない。机の上の手はまだペンを握ったまま。

 心臓がバクバクと音を立てる。息を整え、もう一度鏡を見る。今度は私の姿が消え、暗い影だけが映っていた。影はじっと私を見返し、そしてゆっくりと手を伸ばした。

 「やめ……やめて……」

 声にならない声を上げた瞬間、影は鏡の表面を破るかのようにこちらに迫った。冷たい風が部屋を満たし、ランプが一瞬消えた。

 気づくと、私は床に倒れていた。ランプはいつも通り点いている。机の上も、ペンも、すべて元通り。

 しかし、鏡を見る勇気は、もう二度と湧かなかった。

 次の日、鏡はいつの間にか消えていた。誰も置いた覚えはないと言う。

 でも夜になると、まだ部屋のどこかから、かすかな笑い声が聞こえる気がする。

 ――鏡の 裏側は、きっと、誰かが見ているのだ。