その後、鶴間は二浪して地元の国公立大学の美術教育科に入学し、卒業後に美術の先生になって、母校の高校に勤めている。西岡はデザインの専門学校に入学して、Webデザイナーとして働き、あちこち転職を繰り返してたが、最近やっとひとつの会社に落ち着いたらしい。毎日残業ばっからしいが、元気でやっているようだ。

 俺は、東京の私立美大に現役で合格して、裸婦画家(らふがか)を目指した。

 奈保美を描いてから、俺の描きたいものがなんだったのかがようやくわかった。

 女の裸だった。

 苦手意識がありながらも、女たちの裸体をうつくしいと感じて、なんとか綺麗に紙の上に表出(ひょうしゅつ)したいという気持ちが強くあった。それは他のモチーフにはない想いだった。

 奈保美が、美術館で彫刻と出逢って運命が変わったように、俺も奈保美に出逢って、運命が変わった。

 肌理(きめ)こまかい肌、ゆるやかな腰の曲線。奈保美と別れてからも、俺は毎日、奈保美のからだを、頭の中で想い、描き続けていた。

 奈保美とは、あえて連絡先を交換しなかった。あのアトリエで出会い、アトリエで別れた俺たちの関係は、アトリエで完結したほうが良いという暗黙の了解が、互いのあいだに流れていた。

 ふたりだけのクロッキーが終わると、奈保美はしずかに服を着替え、満足そうに微笑み、俺を一瞥(いちべつ)し、何事もなかったかのように去っていった。曇り硝子に照らし出された琥珀の瞳は、かすかに濡れていた。渋い橙の髪が、廊下のくらやみに溶けてゆく残像が、今でも脳裏に残り続けている。

 俺たちに再会があるのかはわからない。ふたたび会いたいのかも、会ってどうしたいのかも、わからなかった。だが描き続けていれば、奈保美とは、またどこかで巡りあうような気がしていた。勝手に抱いていた、淡い願いのようなものだった。

 黙って筆を動かし続け、何枚も絵を描き、美大を卒業した。裸婦画家を描いて、何度か個展を、ちいさなギャラリーでおこなった。

 絵は、(まった)く売れなかった。

たまに好きもののおっさんが買ってくれる程度で、俺は裸婦画家を名乗りながら、美大の教授に紹介された、美術予備校の講師のアルバイトでなんとか食い繋いでいる状態だった。売れてゆく大学時代の同期を横目に、暗い思いに囚われ、何度か絵のモデルになってくれた女たちと寝たこともある。モディリアーニや竹久夢二(たけひさゆめじ)等、歴代の画家たちが、モデルと恋愛関係になったことは、美術史の授業で知っていたが、まさか自分も同じ道を辿るとは思わなかった。こんな画家の端くれの俺でも。

 モデルの女たちは、俺以外の画家とも経験がある女も中にはいて、あと腐れのない恋愛には慣れているようで、別れたら未練なく去るのも互いにはやかった。奈保美ほど鮮明に、記憶にも残らず、時の流れの中を流れてゆく淡水(あわみず)のような恋だった。

 腐っていた時期だったと思う。その時に煙草も覚えた。正直、奈保美が公園で吸っているのを見たときは、なんでこんな苦くて、くさいにおいを纏えるのか、全く理解ができなかったが、いざ吸ってみると、現実を忘れさせてくれる苦さに酔える感覚が面白くて、いつの間にか癖になっていた。

 奈保美も同じ気持ちだったのかな。

 闇に溶けてゆく煙を見ては、彼女のことを思い出した。公園で煙草咥えて愉快に踊る女。面白かったな。何人か付き合った女の中でも、あんな変な女はいなかった。

 煙草を吸い終える。赤い火が、縮んだ煙草の細長いからだを呑み込む。白い灰皿の中で、薄墨(うすずみ)となって、しずかに溶けて消えてゆく。恋愛と同じだ。一度燃えあがったものは、最後、白い灰になって終わってゆく。

 いつの間にか、それが俺の感傷の(ひた)りかたになっていた。

 漫画家になるつもりはなかった。裸婦画家として、生計(せいけい)を立てていくことが難しくなっていたとき、ギャラリーに、青年向け漫画を描いている先生が、たまたま興味を持って立ち寄ってくださった。

 硬そうな白い髭をまばらに太い顎に生やした5、60代の男性だった。

 さして広くもない、吉祥寺の個人経営ギャラリーで、無名の俺の裸婦画を「おっぱいの描き方が綺麗だ」と、気に入ってくれて、先生の担当編集者に、販売していた俺のポストカードや、展示していた絵を、写真に撮って送ってもいいか尋ねられた。

 あまり深く考えずOKを出した。

 その後、編集者から連絡があり、成人向け漫画、つまりエロ漫画家として仕事をもらうことになった。

 初めは、原作の先生がついて、作画担当として描いた読切(よみきり)漫画が、有名な成人向け雑誌に掲載され、その原作の先生と一緒に連載をした。一年ほど連載して、その漫画が2巻で打ち切りになった。

連載を長く続けることはできなかったが、元々漫画家志望ではなかった俺は、心が失望で砕けることはなく、逆に自分の絵が載った単行本が2冊も世に出たことに驚いていた。

毎月雑誌に、俺の絵が掲載されていることにしずかな興奮を覚え、かつ裸婦画で稼いでいたころよりも月給があがったことによろこび、なんとなくで引き受けてしまったエロ漫画の世界に関心を持ち、その後も続けることになる。

 いろんなアングルから裸の女を描くことにもなり、画力もあがったし、速度もあがった。原作の先生と一緒に作った2作目の連載は、4巻でまた打ち切りになってしまったが、その後、別の原作者の先生と組んだ3作目の連載が軌道に乗り、ひと月の生活費が余って貯金できるくらいには生計を立てられるようになった。

 雑誌のエロ漫画特集で取りあげられたことがきっかけで、エロ漫画界隈(かいわい)では、わりと有名なほうになっているらしい。

 あまり名声にこだわったことはないので、そうなんだとしか思えなかった。

 ただ、淡々と絵を描いて、金をもらえる日々が続いていけばいいとだけ思っていた。

大きな野望もなく、ただ淡々と。


 奈保美と再会したのは、そんな矢先だった。

 握った彼女の細い腕から、どくどくと激しく脈打つ血のめぐりが伝わってくる。

 俺たちは互いに大きく目を瞠り、時が止まったようにみつめあっていた。

 奈保美が目をまばたかせると、俺も緊張を解いて息を吐いた。

ちりちりとした鈍い糸が、ふたりのあいだにふらついて、やがて溶けて消えてゆくのを感じた。

 奈保美は眉を寄せて、不審げに俺を睨むようにしていたが、やがてはっと何かに気付いて顔を近づけた。急に鼻と鼻がふれあうほどに彼女の顔が近くなったので、俺は驚き、身をすくめてしまった。

動きにつれて彼女の腕がこちら側へ引っ張られて、俺に覆い被さるように勢いづいた。

 奈保美は、すんでで爪先立ちして、体勢を整えた。


「春一郎くん……、だよね」


「まあ、はい」


 キャスケットを被っているので、目元が陰っていたが、琥珀色の大きな瞳が、薄いくらやみの中で、ひらひらとかがやいて主張していた。

その中に映る自分の顔を見て答える。淡々としているが、少し驚いた顔をしていた。久しぶりに特別な女に会うわりに、間抜けで情けない(つら)だった。

 奈保美の頬から、透明なひかりの粒が空気中に放たれる。

 俺にしか見えていない。

俺をみつめる瞳の水面が、先ほどよりも黄金を増し、どこか痛みを伴った、刺すようなかがやきをしていた。

大きく震えると、彼女の琥珀を洗ったなみだがアーモンド型の目尻に流れ、頂点がふくれたやわらかな頬を伝っていった。


「奈保美さん?」


「ああ、ごめん。音楽を聴いたときに、感動して泣くことってあるだろう。今そんな気分なんだ」


 相変わらず、独特の喋りかたと答えだった。


「まさか、君とまた会えるとは思わなかった」


 (かす)れた小声だった。奈保美は大袈裟(おおげさ)に「うっ」とくぐもった声を出すと、腰を曲げた。


「えっ、ああ(わり)い!」


 奈保美の腕を摑む手の力が強すぎたことに気付いて、ゆるめる。

 それとなく俺たちは互いのあいだを詰めていた距離を離して、ひとひとり分が入れるくらいの間隔を空けた。

少し冷えた風が、空いたはざまを、ひゅうと撫でた。かたわらで電車が走って起こした風だった。

 奈保美が俺のことを覚えていた。その事実だけで、腕の毛が震えて、白く電気が発光して流れるような感覚になる。ふわふわと、からだと心が落ち着かなかった。

 奈保美は、片手の人差しゆびで涙を拭って、にこりとわらって、腕を腰のあたりで組んだ。

 少し体勢を崩した首を、かるく横に倒す。三十代後半に見えないほどに、あどけなかった。

 特急が勢いよく走り、奈保美の髪がひらひらとゆれて、金色の影をまとう。うすくあかりの灯った車内から漏れるひかりが、空がかげって少し暗くなっていた俺たちを一瞬だけ白く照らして、輪郭を浮き彫りにさせた。

 ホームにまばらにいる人達の音が、戻ってくる。

ばらばらとかさついた中にも特有の温度がある空間が、なんだか居心地が悪く、俺は首筋に片手を当てて、左斜め上をゆるく見上げた。脈が大きく、はやくなっている。秋の気配が額にふれて、冷えた温度を感じた。


「奈保美さん、どこで降りんの」


「え? 次のつぎ、木枯(こが)らし駅だけど」


「……じゃあ、俺もそこで降りるから」


「え? 春一郎くんもそこなの」


「いや、違うけど。……積もる話もあるし、木枯らし駅のカフェ入って、ちょっと話さない」


 奈保美の顔に視線を戻し、ゆびさきで、まるくカフェを示すような動きをすると、奈保美はぶっと吹いて「いいよ」と言った。


「でも、カフェじゃ私たちっぽくなくない?」


「は?」


 何言ってんだこの女。


「十年前の、あのときみたいにさ。公園で話さない?」


 奈保美は余裕のある笑みを浮かべ、少し乱れた髪を耳にかける。

 そのとき、俺の脳裏に、あの日の公園の透明な空気と、金と赤に染まる森がゆれる音が聞こえていた。波のさざめきのように大きくなってはちいさく(うな)って、心地よいざわめきを生んでいる。