奈保美は、ヌードモデルを辞めることになった。
最後に彼女がモデルとしてやってくる日の数日前に、俺たちの前で講師から奈保美の退職の紹介があり、奈保美ファンの西岡と鶴間はほとんど半泣きでそれを聞いていた。
俺は事前に知っていたが、ふたりにそれを教えることはなかった。あまりにも俺が無感情な表情だったので、西岡は「やっぱ春ちゃんは、奈保美ちゃんに興味なかったんだな」と納得してくれた。めんどい憶測をされなくて、その件に関しては安堵していた。
奈保美の最後のモデルの日がやってきた。
色々なポージングをしてくれる奈保美の裸体の美は、完成されたものがありつつも、どこか遠慮しているような感じがした。
皆で描いた最後の奈保美は、一度も俺に性器をみせることはなかった。曇り硝子から差し込んでくる西陽が、薄黄金の輪郭を青白く浮きあがらせていた。奈保美が美術館で昔鑑賞したという、石のヴィーナスとひとしく。
最後のクロッキー会が終わった。
奈保美は、社会人らしい丁寧な礼を俺たちにすると、服を着てアトリエを後にした。
俺は奈保美に声を掛けなかった。ただ、彼女のゆびや脚の関節が、ひといきれでかすかに濁った空気の中を泳ぐのを、ひとつひとつ写真を撮るように確認していた。すべてが、青くたゆたっていた。
クロッキー会が落ち着き、奈保美はさきにアトリエを出ていった。
西岡と鶴間が、奈保美への名残や、思い出を語っているのを、どこか心を遠くに置いて聞いていた。
彼らが片付け終わり、共に帰ることを促されても、俺は「ひとりで考えたいことがあるから」と断った。
ふたりは、意味深な視線を俺に送ったが、「思春期あるあるだな」とうなずきながら、しみじみとつぶやくと、アトリエを去って行った。
しずかな空気だけが、残されていた。
ひたと閉められていたドアが、ふたたびひらく。
秋の枯れてあまい香りを連れて、細長いからだが、猫のようにしなやかにアトリエの中に入ってきた。
橙の前髪が、眼鏡の上でさらりとゆれる。
奈保美が、ふたたび俺の前に姿をあらわした。
さやかな音がする。それは奈保美の鳴らす靴音だった。
靴音が止む。いつの間にか、外からさやさやと雨が落ちる音が聞こえていた。
曇り硝子はいっそう滲んで、深みを増したひかりをこちら側に与えている。薄緑と薄水のマーブルに染まったアトリエの中で、無限の時間をたゆたっているように居心地がよかった。
奈保美はスツールに座っていた俺の目の前まで来ると、腕を組んで口をひらいた。
「最後に、私のこと描いてくれよ」
目元を細め、満足そうな笑みを浮かべて小首をかしげる奈保美の、薄紅に染まった頬の頂点から、今までになかった官能が、昂りをみせていることがわかった。
まつげから髪、爪の先まで漂う色香が、馥郁とした香りをたずさえて、俺の腕の関節あたりにふれてくる。
ぞわりと右腕の血脈が震えるのがわかった。
俺は、奈保美を一瞥すると、黙ってイーゼルとキャンバスを設置し直した。
互いに挑むような態度だった。
奈保美は羽織っていた深緑のジャケットを、勢いよく脱ぎ捨てる。中に着ていたグレージュのエンパイアワンピースの釦を外し、下から上へと剥ぐように脱いでゆく。奈保美の肘で止まったワンピースは、くしゃりとした塊になった。両腕を天へあげ、交差する。爪のさきまでゆるやかに伸び、血脈の末端まで、新鮮な酸素が行き渡っているように、心地よさげだった。
奈保美の長い腕にまとわれたワンピースは、たなびいて、鶴の翼のようにひらひらと彼女の横を流れた。背筋を伸ばし、右脚を軸に、左脚を蹴るようにすっと伸ばし、水辺で風を受け止めているように腹をそらして。からだは百日紅の幹のようにしなやかで、雨に滲む曇り硝子の淡い陽光を、腹の窪みや脇の窪みで受け止めて、鈍く反射していた。首筋から頬にかけて、乳白色のなめらかなひかりの線が走っていた。正面から逸らされた顔は、恍惚としていて、うっすらと澄んだ茜に染まっていた。ゆたかな香水を、顔の周りに吹きかけられたような色香のある笑顔をしていた。
伸びやかにポーズを変えて、真っ直ぐに注がれていた俺の視線を受け止めようとしていた。
俺は目の前の奈保美を、最初はただ淡々と模写していたが、徐々に筆の走りを速めて、クロッキー帳の中で縦横にいじったり撫でたりしていた。
いつの間にか俺の腰は、スツールから半分尻があがり、奈保美はテーブルの上に乗り、大きく開脚して、俺に性器をみせつけていた。息は荒く、こめかみや額に汗が浮いては、頬を伝って流れてゆく。
「いいじゃん、奈保美さん」
俺は無意識に口をひらいていた。中から炙りだされた嗜虐性が、うっすらとあがった口角や、細められた目元に滲みだしているのが、温度でわかった。
「今までで、一番良い顔してるよ」
舌先をくちびるの端から出し、ぺろりと上唇を舐める。煽るような仕草を、無意識にしていた。この頃から、サディストの気があったのだろう。
奈保美は首を横に倒し、うっとりと目を細め、くちびるを艶やかにあげていた。顔は茜に染まり、頬や額や首すじに、汗のしずくが浮いていた。エクスタシーの極みに達した女の顔だった。
俺たちはアトリエにいながら、ベッドの上で愛し合っているような、奇妙な感覚に陥っていた。
白い紙越しに奈保美を抱いていた。彼女の輪郭を炭で描くたび、やわらかな肌の上を、ゆびさきでなぞるような心地だった。
奈保美も俺に線で描かれるたび、よがるようにその長い肢体をくねらせた。右手のゆびを自分の性器に這わせ、ひとさし指と中指でゆっくりとひらいた。脚は限界までひらかれ、薄黄金色のオブジェが、花園を中央に置いている。汗でしっとりと濡れた太ももは、なめらかな象牙のように薄ぼんやりとかがやいていた。犯すはずのものが、犯しがたいうつくしさを放っていた。
永遠にも思われるときが流れ、やがて談笑の中でゆったりと黄金に染まり、窓からこぼれるミントグリーンのくらがりと共に、しずかに終わっていった。
最後に彼女がモデルとしてやってくる日の数日前に、俺たちの前で講師から奈保美の退職の紹介があり、奈保美ファンの西岡と鶴間はほとんど半泣きでそれを聞いていた。
俺は事前に知っていたが、ふたりにそれを教えることはなかった。あまりにも俺が無感情な表情だったので、西岡は「やっぱ春ちゃんは、奈保美ちゃんに興味なかったんだな」と納得してくれた。めんどい憶測をされなくて、その件に関しては安堵していた。
奈保美の最後のモデルの日がやってきた。
色々なポージングをしてくれる奈保美の裸体の美は、完成されたものがありつつも、どこか遠慮しているような感じがした。
皆で描いた最後の奈保美は、一度も俺に性器をみせることはなかった。曇り硝子から差し込んでくる西陽が、薄黄金の輪郭を青白く浮きあがらせていた。奈保美が美術館で昔鑑賞したという、石のヴィーナスとひとしく。
最後のクロッキー会が終わった。
奈保美は、社会人らしい丁寧な礼を俺たちにすると、服を着てアトリエを後にした。
俺は奈保美に声を掛けなかった。ただ、彼女のゆびや脚の関節が、ひといきれでかすかに濁った空気の中を泳ぐのを、ひとつひとつ写真を撮るように確認していた。すべてが、青くたゆたっていた。
クロッキー会が落ち着き、奈保美はさきにアトリエを出ていった。
西岡と鶴間が、奈保美への名残や、思い出を語っているのを、どこか心を遠くに置いて聞いていた。
彼らが片付け終わり、共に帰ることを促されても、俺は「ひとりで考えたいことがあるから」と断った。
ふたりは、意味深な視線を俺に送ったが、「思春期あるあるだな」とうなずきながら、しみじみとつぶやくと、アトリエを去って行った。
しずかな空気だけが、残されていた。
ひたと閉められていたドアが、ふたたびひらく。
秋の枯れてあまい香りを連れて、細長いからだが、猫のようにしなやかにアトリエの中に入ってきた。
橙の前髪が、眼鏡の上でさらりとゆれる。
奈保美が、ふたたび俺の前に姿をあらわした。
さやかな音がする。それは奈保美の鳴らす靴音だった。
靴音が止む。いつの間にか、外からさやさやと雨が落ちる音が聞こえていた。
曇り硝子はいっそう滲んで、深みを増したひかりをこちら側に与えている。薄緑と薄水のマーブルに染まったアトリエの中で、無限の時間をたゆたっているように居心地がよかった。
奈保美はスツールに座っていた俺の目の前まで来ると、腕を組んで口をひらいた。
「最後に、私のこと描いてくれよ」
目元を細め、満足そうな笑みを浮かべて小首をかしげる奈保美の、薄紅に染まった頬の頂点から、今までになかった官能が、昂りをみせていることがわかった。
まつげから髪、爪の先まで漂う色香が、馥郁とした香りをたずさえて、俺の腕の関節あたりにふれてくる。
ぞわりと右腕の血脈が震えるのがわかった。
俺は、奈保美を一瞥すると、黙ってイーゼルとキャンバスを設置し直した。
互いに挑むような態度だった。
奈保美は羽織っていた深緑のジャケットを、勢いよく脱ぎ捨てる。中に着ていたグレージュのエンパイアワンピースの釦を外し、下から上へと剥ぐように脱いでゆく。奈保美の肘で止まったワンピースは、くしゃりとした塊になった。両腕を天へあげ、交差する。爪のさきまでゆるやかに伸び、血脈の末端まで、新鮮な酸素が行き渡っているように、心地よさげだった。
奈保美の長い腕にまとわれたワンピースは、たなびいて、鶴の翼のようにひらひらと彼女の横を流れた。背筋を伸ばし、右脚を軸に、左脚を蹴るようにすっと伸ばし、水辺で風を受け止めているように腹をそらして。からだは百日紅の幹のようにしなやかで、雨に滲む曇り硝子の淡い陽光を、腹の窪みや脇の窪みで受け止めて、鈍く反射していた。首筋から頬にかけて、乳白色のなめらかなひかりの線が走っていた。正面から逸らされた顔は、恍惚としていて、うっすらと澄んだ茜に染まっていた。ゆたかな香水を、顔の周りに吹きかけられたような色香のある笑顔をしていた。
伸びやかにポーズを変えて、真っ直ぐに注がれていた俺の視線を受け止めようとしていた。
俺は目の前の奈保美を、最初はただ淡々と模写していたが、徐々に筆の走りを速めて、クロッキー帳の中で縦横にいじったり撫でたりしていた。
いつの間にか俺の腰は、スツールから半分尻があがり、奈保美はテーブルの上に乗り、大きく開脚して、俺に性器をみせつけていた。息は荒く、こめかみや額に汗が浮いては、頬を伝って流れてゆく。
「いいじゃん、奈保美さん」
俺は無意識に口をひらいていた。中から炙りだされた嗜虐性が、うっすらとあがった口角や、細められた目元に滲みだしているのが、温度でわかった。
「今までで、一番良い顔してるよ」
舌先をくちびるの端から出し、ぺろりと上唇を舐める。煽るような仕草を、無意識にしていた。この頃から、サディストの気があったのだろう。
奈保美は首を横に倒し、うっとりと目を細め、くちびるを艶やかにあげていた。顔は茜に染まり、頬や額や首すじに、汗のしずくが浮いていた。エクスタシーの極みに達した女の顔だった。
俺たちはアトリエにいながら、ベッドの上で愛し合っているような、奇妙な感覚に陥っていた。
白い紙越しに奈保美を抱いていた。彼女の輪郭を炭で描くたび、やわらかな肌の上を、ゆびさきでなぞるような心地だった。
奈保美も俺に線で描かれるたび、よがるようにその長い肢体をくねらせた。右手のゆびを自分の性器に這わせ、ひとさし指と中指でゆっくりとひらいた。脚は限界までひらかれ、薄黄金色のオブジェが、花園を中央に置いている。汗でしっとりと濡れた太ももは、なめらかな象牙のように薄ぼんやりとかがやいていた。犯すはずのものが、犯しがたいうつくしさを放っていた。
永遠にも思われるときが流れ、やがて談笑の中でゆったりと黄金に染まり、窓からこぼれるミントグリーンのくらがりと共に、しずかに終わっていった。



