「ヌードモデルの仕事辞めたら?」


 「くれない」での、いつものクロッキー会が終わり、西岡と鶴間を先に返して、奈保美とふたりきりの午後を過ごしていた俺は、唐突にそう言い放った。

 奈保美は、俺と接触してから、わざと帰りの時間を遅らせているように感じていた。何故かはわからない。俺のことが気になっていると言っていたから、俺と話す時間を持ちたいのだろうか。

__そもそも、何故気になっているんだ? 

 もやもやと彼女に引っ張られていた。考えようとしなくても、自然と彼女のことを考えてしまう。

 壁一面に張られた曇り硝子に差し込む西日は、薄闇をはらみ、アトリエを灰色と茜が入り混じったいろに染めていた。空気もかすみがかっている。

 奈保美は、口と目をまるく開け、何を言われたのか理解が追いつかないという顔をしていたが、やがてうすく開けていたくちびるをちいさく震わせた。

 纏っているモスグリーンのニットワンピースが、ひたりと肌に吸い付き、なめらかな身体のラインをはっきりとさせていた。


「え、……なんで?」


 俺はまっすぐに奈保美を見やっていたが、やがて目を逸らし、まぶたを伏せた。丸椅子に座って硬くなっていた脚を伸ばして、上履きでかるく床を蹴る。


「……一昨日(おととい)、公園であんたを見かけた」


 とたん、奈保美の顔はみるみる赤く色づき、額まで広がり、のぼせあがった。その(あか)は、照れているようにも、怒っているようにもみえた。

 一瞬目をみひらき、琥珀(こはく)をきらめかせたが、何かをあきらめたようにまぶたを半分伏せ、俺から目を逸らした。鼻からみじかく息をつく。長いまつげがこまかく震えていた。


「……なんだ。見てたのかよ。声かけてくれりゃいいのに、逆に恥ずかしいな。はは……」


 いつもの、ふざけているのか真面目に言っているのかわからない、奈保美の声が降ってきた。


「服着て歌っていたときのあんたのほうが、いきいきしてて、たのしそうだった」


 伏せたまぶたの裏で、黄金の公園で歌い踊っていた奈保美の姿が、うつしだされていた。


「性欲おばけの男子高校生の前で、全裸でマ○コ見せてるなんてすけべな仕事、あんたに向いてねぇよ」


 ひと息に告げる。

 奈保美は目をひらいたまま、凍ったように硬直した。

やがてしずかに短く口から息を吐き、固まったくちびるを震わせる。


「私が、やりたくてやった仕事なんだ。君にとやかく言われる筋合いないね。……まだ働いたこともない、お子ちゃまのくせに」


「……は?」


 頭が真っ白になった。憤怒(ふんど)で、イーゼルとそれに乗ったクロッキー帳を蹴りあげそうになったが、すんでのところで冷静になり、自分を客観視した。やがて、怒りが剥がれてやってきたのは、目の前の年上の女に対する、残酷な感情だった。


「まともに働ける身体(からだ)しておいて、こんなすけべな仕事選んだあんたの気がしれねぇな」


 奈保美に向かってわらったことのない俺は、満面の笑顔を浮かべて彼女を見やった。刺し殺すように。そこに温度はなかった。冷たい笑顔とつめたい声だった。

 奈保美の頬は、先ほどよりもさらに赤く染まり、水辺でゆれる楓の紅葉(こうよう)のようになる。


「ヌードモデルの仕事、馬鹿にするなよ!」


 目の前が割れるような音量だった。しなやかに伸ばされた奈保美の脚が、薄暗い影を徐々に深めながら俺に迫ってくる。

 かたりと音が鳴った。

 イーゼルが俺に覆い被さるように倒れ、スツールもつられて倒れ、秋の空気によって冷えた床に、俺は背中を打った。

 まぶたを強く閉じる。梅の花が咲いたように、目の前に紅がちかちかと舞った。

 鈍い痛みが肩甲骨に走り__


「あっ、ごめん! ごめんよ……!」


 奈保美の焦った声が、溶けて歪んで暗い視界に届く。

 動けなくなるほどではない、かるい痛みだった。だが、心の痛みのほうが、勝っていた。今思えば、俺もかなり悪かったが。

右腕を支点にして、ゆっくりとからだを起こし、左腕で押すようにクロッキー帳とイーゼルを立て直すと、鞄を握ってアトリエのドアへ向かって、駆けていった。うつむいた顔を、ひらひらと前髪が覆ってゆれる。

 奈保美が俺の背中に向かって何か声をかけていたが、それをすべて無視した。透明な凛と低い彼女の声は、衣服に染み渡らず、頬を滑り、冷えた空気の中に(にじ)んで、きんと(こお)り、固まって落ちてゆく。


 無意識に脚を動かして、たどり着いたのは、昨日、奈保美が歌い踊っていた公園だった。

 昨日よりも、森の葉は、色彩があざやかに燃えていた。

赤や緑、黄は、俺の足にかかって、ステンドグラスのように、あわい陽光に透かされてゆらゆらとゆれて重なっていた。

 ズボンのポケットに入れていた、てのひらサイズのスケッチブックを取り出す。昨日よりも、深緑の表紙は、()めているように感じた。

そっと右手で撫でて、こまかなほこりを払うとページをひらき、()だ無地のざらりとした紙に鉛筆の芯を立てた。

まるく尖った芯のさきが、黒く擦れて止まる。

ゆびさきにこめた筋力がふっと落ちる。

 描けない。

 何も描けなかった。

 芯は、一点だけ強い圧力をかけられ、そこから徐々に割れていった。

 墨の粉が、真っ白な画用紙を汚しただけだった。

その中のひとかけらが、青褪めた空気の中を落ちて、黒いズボンに溶けていった。

 一枚、また一枚と画用紙をめくってゆく。

白い世界に当てられた鉛筆の芯は、ただ小刻みに震えるだけで、何も生み出さなかった。こめかみをつめたい汗が伝う。頭をかすかに動かすと、画用紙のしろにぽつりとしずくが落ち、涙のように滲んだ。端にあった墨と混じり、ちいさかった黒の点が滲んで大きくなる。


「ははっ。奈保美さんにあんな(ひど)いこと言っといて、結局何も描けねぇじゃん」


 口角をあげて乾いたわらいをこぼした。黒で汚した画用紙をゆびさきでつまむと、腕を高くあげた。ぶちぶちという音を立てて、リングから画用紙が破れて離れてゆく。何度もその行為を繰り返した。

俺の頭上から、雪のように画用紙が降ってくる。黄金の地が、白い紙でいろどられてゆく。

 風が吹き、地に張り付いていた画用紙たちが、はらはらと羽ばたく音がした。

 首を落としてうなだれ、その様を目にうつさなかった。

奥歯を噛む。さらに強く噛む。つばに、かすかな血の味が滲んでいた。

 どれくらいそうしていただろう。紙の羽ばたく音がしなくなった。

風も()んだ。


「__春一郎くん!」


 水を放つような、低くて透明な女の声が背後からした。聞き慣れたまろやかさ。

まぶたに熱水をかけられたように、俺は目をみひらいて、声のした方角に顔を向けた。


「奈保美__」


 つぶやきは、風に切り取られた。

 奈保美が、広い公園の木々のあいだを切り通して作られた白木の階段から、俺を見下ろしていた。右手は欄干(らんかん)にそっと乗せて。

 どこかで、鳥が、空気の合間を縫って、ぴりりと高く鳴く。

 強い風が吹く。

 奈保美の波打つゆたかな髪が、(はた)のようになびいて、金の影をひらひらとまとう。背後に広がるのは、森と、雲ひとつない秋晴れの空。

 シャボン玉色をした淡いこもれびが、俺と彼女のはざまを縫う。

 ひかりが森と雲の影に隠れ、落ち着きをみせると、奈保美が肩で息をしていることが遠目からわかった。こめかみと首すじに、汗の粒を浮かせている。

 走ってきたんだ。

 胸の奥底が、鈍い糸でしめつけられるようだった。

透明な風が、重く感じた。

 俺たちは、互いに口と目を開けてみつめあっていたが、やがて奈保美が息を整えると、口角をあげて目元をゆるませた。琥珀のひとみが、濡れたようにきらめいた。長い脚を伸ばすと、階段を一段一段、丁寧に降りてくる。足がやわらかく変形して、落ち着くのがわかった。地に降り立つと、腕を腰に回し、ゆったりとした速度で俺に近づいてきた。奈保美の衣服や髪にまとわれている空気だけ、一温高いような気がした。シューズから骨の浮きでた足の甲を伸ばし、つまさきから目の前に着地すると、地に残された画用紙をひらと拾いあげ、俺の膝の上に乗せた。

 俺の手の甲には、汗のしずくが浮いていて、乾いた画用紙に吸い取られて消えた。

 顔をあげた奈保美と目が合った。大きな琥珀の深遠(しんえん)に、俺の空虚(くうきょ)な顔がうつっていた。


「私は君の絵、すきだよ」


 葉で撫でられたような、やわらかな笑顔だった。奈保美がかけていた眼鏡のレンズは、虹色にきらめいて、やがて空をうつして水浅葱に染まる。

 俺は瞳をゆらして、硬直していた。


「は……」


 ひとこと、乾いた息が漏れて、間近に迫っていた奈保美の眼鏡のレンズを曇らせた。

流れてゆく時間と共に、曇ったレンズが、斜め右上から元に戻ってゆく。琥珀色の大きな瞳が、ふたたび現れた。レンズ越しに、濡れたようにかがやいていた。くすぐるようなあまい薫りが、垂れた髪から流れている。


「君の絵には、女性の裸体をうつくしく描こうという敬意を感じる」


 奈保美の(つむ)ぐ言葉の吐息の一音いちおんの熱が、くちびるの表面にふれて、淡く濡れる。


「__世界中の誰が否定しても、私は君の味方だ」


 奈保美の手が、ゆびさきだけで俺の膝をそっと撫でた。

ぞくりとするような感触が走った。

足を引いてベンチに寄せ、くちびるを噛む。

奈保美は顔をくしゃりと中央へ寄せ、笑顔はさらにまぶしくなったが。そのまま消えてしまいそうな切なさがあった。

 高い背を直角に曲げて俺に顔を寄せていた奈保美は、背の筋肉を伸ばし、垂直にからだを起こした。髪がやわらかくゆれて、先が背後の緑に溶ける。膝を曲げて手をのせ、ふたたび俺に視線を合わせると、淡い笑みを浮かべた。


「ねぇ、私が、君にだけ私を覗かせていた理由。答え出たかい?」


「いや……」


「私はね。君は、君だけは、私のことを性的な目で見ないで、私の真実の姿を描いてくれると思ってたんだ」


 息を止めた。奈保美の声だけが、透明な空間に浮きあがって聞こえた。先ほどよりも奈保美のひとみは大きく照り()えて、真っ直ぐに驚いた俺の顔だけをうつしていた。

 奈保美が胸元にそっと右手を置いた。

 自然に視線が誘導される。

 奈保美のゆたかな胸があった。ニット生地の布に守られているが、俺はその中身を知っている。ずっとみつめて、描いてきた。薄黄金色のなめらかな肌。杏色の乳首が浮くように頂点をいろどる、一番身近な乳房を。


「このからだのせいで、今までいやな思いばかりしてきた」


 淡々としているが、先ほどよりも一音低い声だった。

まるく豊かな彼女の胸の輪郭が、ざらついた彼女の過去を、言葉よりも雄弁に語っていた。痴漢(ちかん)にあったとも、ストーカーされたとも、恋愛面でなにかあったとも、具体的なことは何も言わなかったが、俺は子どもながらにそれらを察した。

奈保美のからだが通り過ぎてきた、暗いくらい幾重もの夜が、映画のように四角く並んで、背後に流れた。

 たわわに実った果実のような胸は、ブラジャーで固定され、風が吹いてもゆるがなかった。纏われたワンピースは、ぴったりと彼女の肌に寄り添い、無駄な贅肉のないからだの輪郭をあらわにしていた。そこにかかるひと束の髪が、滲んで溶けてゆくような艶をはらんで波打って流れている。そこに秋が寄り添って溶けていた。


「会社を辞めて、上野の美術館に行ったんだ。大学時代に美術史を専攻していてね。働いていて、息が詰まると美術館に足を運ぶことがあった。私にとって美術館は現実から離れられる、息がしやすい場所だった。

そこで彫刻を見た。千年前に掘られたという、乳白色(にゅうはくしょく)の石の彫刻は、石鹸(せっけん)のようにやわらかそうで、ふれれば、ゆびが飲み込まれてしまうんじゃないかと思うほどだったよ。

それを見ていたらね、自然に涙があふれた。千年前って、神様を信じている職人が作ったものだから、目に見えない何かを信じている強い気持ちとかが、輪郭のやわらかな線や、溝の薄青い影にあらわれていて、すごく胸を打った。胸の奥深くの、血の泉が湧く場所に、痺れるような痛みが走ったんだ。人の心を打つってこういうことだと思った。

彫刻は炎を掲げた女性像で、うつくしい裸体だった。その裸体をみていて、私も芸術品として、誰かに私のからだを見てもらいたいと思ったんだ。性的なものではなく、世界のどこかにいる、名前も知らない誰かの胸を打つ絵として、表現の題材に使ってもらえたらと思ったんだ」


 奈保美の目は、濃く深くなっていた。俺ではない過去をみつめていた。自分の中の深淵(しんえん)(ひた)って、たゆたっている記憶のかけらの一部を、大きな琥珀の内側からじっと。


「本当は、次の仕事が決まるまでの(つな)ぎとして、ヌードモデルの仕事をしていたんだ」


 虚空をみつめる澄んだ瞳には、徐々に目の前の風景が実態を持って映しだされているようだった。一度過去に戻って深い場所まで潜ったことで、今目の前にある現実世界のしんと冷えた空気や、ひかり、森の深い薫りが、奈保美の肌に浸透しやすくなったのか、先ほどよりかろやかに(しゃべ)っていた。木々が平行に並ぶさきにある、太陽が水浅葱の空と溶けて滲んでいる、ここよりも遥かに澄んだところへ、彼女の焦点があった。

 奈保美の声は心地よく、公園の森林が生み出す空気とともに、俺の肌に馴染んだ。

 俺たちの間に、風がひとつ吹く。奈保美の前髪が浮き、富士額(ふじびたい)が陽光に撫でられて、淡くしろい輪郭を描いた。ひとみはゆれずに、ただそよぐ森をうついしていた。


「でも、私も途中から真剣にこの仕事と向き合うようになった」


 森を見ていた奈保美が、俺のほうを振り返る。


「君の秋空のようなまなざしを見て」


 視界にあたたかなひかりが漏れ入ってきたが、それは奈保美の(かも)しだす気配だった。彼女の薄黄金の肌が、濡れたようにつやめき、俺をとらえている。

 雨に濡れた曇り硝子のように、視界がゆがんで、滲んでいた。

 俺はいつの間にか、眸を震わせていた。


「さあ、なみだを拭いて」


 目の前に降りていた暗い透明な幕を裂くように、薄青い影がさっと訪れた。

 奈保美の右腕が、俺の左頬に伸ばされていた。やさしく風が切られる。


「え?」


 刹那、俺の中の熱さと、奈保美の皮膚のつめたさが交互に訪れて、すぐに去ってゆく。

 気付いたときには、俺の左目の端に生まれていた熱い涙のしずくが、彼女の人差しゆびで(ぬぐ)われていた。

 奈保美が右手をどけると、先ほどよりも淡く赤く染まった陽光が、瞳孔(どうこう)を真っ直ぐに射抜いて、離れていった。


「ごめんね。私の花を見せて困らせて」


「いや……」


 自分が泣いていたことにも気付いていなかった。彼女に拭われて、はじめて涙の感触に気付いた。熱い質量が下睫毛から剥がれてゆく。

 奈保美の手が離れてゆく。ゆびをかかげたままだったので、サムズアップしているようなポーズになっていた。すべてを肯定(こうてい)してくれる形に。


「でも君は、私の裸をえっちな目で見なかったよね」


 俺は奈保美をしばしみつめた後、ふっと視線を逸らしてうつむいた。前下がりの黒髪が、冷えた空気を漂い、俺の顔を覆って、影を作った。


「これからどうすんの? ヌードモデルの仕事ずっとやってくの?」


「次の仕事が決まったんだ」


 奈保美が、一拍置いて答えた。

 俺は膝の上で、前後に動かしていた人差し指のさきを止めた。


「……へー。次何になんの」


「大学時代に、美術史(びじゅつし)の研究をしていてね。学芸員(がくげいいん)の資格を取っていたんだ」


「へー……」


 かすみのような声が出た。

俺はなんでもないことのように、ふたたびゆびさきを動かし始めた。先ほどよりも鈍い動きにしかならなかった。

 奈保美はゆったりと立ちあがり、背中に腕を回し、腰のあたりでゆるく組むと、広場をまわるように、脚を伸ばして歩き始めた。背に流したゆたかな髪がゆれ、秋の空気と混じり合っていた。


「君の描く姿を目にして、もう一度自分のやりたいことが考え直せた。私は絵を見るのがすきで、描かれた意味について考えるのがすきだった」


 顔を天に向ける。何か()き物が落ちたかのような、(すず)やかな微笑みを浮かべた横顔で。


「知人の紹介で面接を受けて、ちいさい美術館の学芸員として雇ってもらえることになったんだ」


「へー、すげえじゃん」


 俺はうつむいたまま(こた)えた。

未だ前髪がまぶたに当たっていたので、奈保美からは、俺の表情(かお)はわからなくなっていただろう。うすいまぶたの中央に当たる陽光がまぶしくて、涙が出そうな(から)い痛みが、眼球に走っていた。

 奈保美は歩みを止めて、片脚だけ遊ぶようにあげると、俺のほうを向いて、にかりと笑んだ。


「最初は、契約社員からだけどね」


「じゃあヌードモデルのバイト、辞められんじゃん」


 俺も顔をあげて、満面の笑顔を作った。陽光はまだ紺色に溶けておらず、はやく木々の重なりで(さえぎ)って欲しいと、心のどこかで思っていた。


「ありがとう。人生のこのときに、君に出会えてよかった」


 奈保美は目をみひらいて、俺を見やっていた。澄んだ琥珀が、真っ直ぐに俺を見つめている。

俺はそれを受け止めることができなかった。まぶたを閉じて、その純粋な(きら)めきから目を逸らした。

 それから公園には、風が吹かなかった。透明な、かすかに橙に染まった空気だけがただ流れて、夜の紺色に変わって俺たちを包んでいた。

 奈保美は俺がまぶたを閉じても、しばらく俺のことをみつめていた気がする。

そういう気配があった。