「ヌードモデルの仕事辞めたら?」
「くれない」での、いつものクロッキー会が終わり、西岡と鶴間を先に返して、奈保美とふたりきりの午後を過ごしていた俺は、唐突にそう言い放った。
奈保美は、俺と接触してから、わざと帰りの時間を遅らせているように感じていた。何故かはわからない。俺のことが気になっていると言っていたから、俺と話す時間を持ちたいのだろうか。
__そもそも、何故気になっているんだ?
もやもやと彼女に引っ張られていた。考えようとしなくても、自然と彼女のことを考えてしまう。
壁一面に張られた曇り硝子に差し込む西日は、薄闇をはらみ、アトリエを灰色と茜が入り混じったいろに染めていた。空気もかすみがかっている。
奈保美は、口と目をまるく開け、何を言われたのか理解が追いつかないという顔をしていたが、やがてうすく開けていたくちびるをちいさく震わせた。
纏っているモスグリーンのニットワンピースが、ひたりと肌に吸い付き、なめらかな身体のラインをはっきりとさせていた。
「え、……なんで?」
俺はまっすぐに奈保美を見やっていたが、やがて目を逸らし、まぶたを伏せた。丸椅子に座って硬くなっていた脚を伸ばして、上履きでかるく床を蹴る。
「……一昨日、公園であんたを見かけた」
とたん、奈保美の顔はみるみる赤く色づき、額まで広がり、のぼせあがった。その紅は、照れているようにも、怒っているようにもみえた。
一瞬目をみひらき、琥珀をきらめかせたが、何かをあきらめたようにまぶたを半分伏せ、俺から目を逸らした。鼻からみじかく息をつく。長いまつげがこまかく震えていた。
「……なんだ。見てたのかよ。声かけてくれりゃいいのに、逆に恥ずかしいな。はは……」
いつもの、ふざけているのか真面目に言っているのかわからない、奈保美の声が降ってきた。
「服着て歌っていたときのあんたのほうが、いきいきしてて、たのしそうだった」
伏せたまぶたの裏で、黄金の公園で歌い踊っていた奈保美の姿が、うつしだされていた。
「性欲おばけの男子高校生の前で、全裸でマ○コ見せてるなんてすけべな仕事、あんたに向いてねぇよ」
ひと息に告げる。
奈保美は目をひらいたまま、凍ったように硬直した。
やがてしずかに短く口から息を吐き、固まったくちびるを震わせる。
「私が、やりたくてやった仕事なんだ。君にとやかく言われる筋合いないね。……まだ働いたこともない、お子ちゃまのくせに」
「……は?」
頭が真っ白になった。憤怒で、イーゼルとそれに乗ったクロッキー帳を蹴りあげそうになったが、すんでのところで冷静になり、自分を客観視した。やがて、怒りが剥がれてやってきたのは、目の前の年上の女に対する、残酷な感情だった。
「まともに働ける身体しておいて、こんなすけべな仕事選んだあんたの気がしれねぇな」
奈保美に向かってわらったことのない俺は、満面の笑顔を浮かべて彼女を見やった。刺し殺すように。そこに温度はなかった。冷たい笑顔とつめたい声だった。
奈保美の頬は、先ほどよりもさらに赤く染まり、水辺でゆれる楓の紅葉のようになる。
「ヌードモデルの仕事、馬鹿にするなよ!」
目の前が割れるような音量だった。しなやかに伸ばされた奈保美の脚が、薄暗い影を徐々に深めながら俺に迫ってくる。
かたりと音が鳴った。
イーゼルが俺に覆い被さるように倒れ、スツールもつられて倒れ、秋の空気によって冷えた床に、俺は背中を打った。
まぶたを強く閉じる。梅の花が咲いたように、目の前に紅がちかちかと舞った。
鈍い痛みが肩甲骨に走り__
「あっ、ごめん! ごめんよ……!」
奈保美の焦った声が、溶けて歪んで暗い視界に届く。
動けなくなるほどではない、かるい痛みだった。だが、心の痛みのほうが、勝っていた。今思えば、俺もかなり悪かったが。
右腕を支点にして、ゆっくりとからだを起こし、左腕で押すようにクロッキー帳とイーゼルを立て直すと、鞄を握ってアトリエのドアへ向かって、駆けていった。うつむいた顔を、ひらひらと前髪が覆ってゆれる。
奈保美が俺の背中に向かって何か声をかけていたが、それをすべて無視した。透明な凛と低い彼女の声は、衣服に染み渡らず、頬を滑り、冷えた空気の中に滲んで、きんと氷り、固まって落ちてゆく。
無意識に脚を動かして、たどり着いたのは、昨日、奈保美が歌い踊っていた公園だった。
昨日よりも、森の葉は、色彩があざやかに燃えていた。
赤や緑、黄は、俺の足にかかって、ステンドグラスのように、あわい陽光に透かされてゆらゆらとゆれて重なっていた。
ズボンのポケットに入れていた、てのひらサイズのスケッチブックを取り出す。昨日よりも、深緑の表紙は、褪めているように感じた。
そっと右手で撫でて、こまかなほこりを払うとページをひらき、未だ無地のざらりとした紙に鉛筆の芯を立てた。
まるく尖った芯のさきが、黒く擦れて止まる。
ゆびさきにこめた筋力がふっと落ちる。
描けない。
何も描けなかった。
芯は、一点だけ強い圧力をかけられ、そこから徐々に割れていった。
墨の粉が、真っ白な画用紙を汚しただけだった。
その中のひとかけらが、青褪めた空気の中を落ちて、黒いズボンに溶けていった。
一枚、また一枚と画用紙をめくってゆく。
白い世界に当てられた鉛筆の芯は、ただ小刻みに震えるだけで、何も生み出さなかった。こめかみをつめたい汗が伝う。頭をかすかに動かすと、画用紙のしろにぽつりとしずくが落ち、涙のように滲んだ。端にあった墨と混じり、ちいさかった黒の点が滲んで大きくなる。
「ははっ。奈保美さんにあんな酷いこと言っといて、結局何も描けねぇじゃん」
口角をあげて乾いたわらいをこぼした。黒で汚した画用紙をゆびさきでつまむと、腕を高くあげた。ぶちぶちという音を立てて、リングから画用紙が破れて離れてゆく。何度もその行為を繰り返した。
俺の頭上から、雪のように画用紙が降ってくる。黄金の地が、白い紙でいろどられてゆく。
風が吹き、地に張り付いていた画用紙たちが、はらはらと羽ばたく音がした。
首を落としてうなだれ、その様を目にうつさなかった。
奥歯を噛む。さらに強く噛む。つばに、かすかな血の味が滲んでいた。
どれくらいそうしていただろう。紙の羽ばたく音がしなくなった。
風も止んだ。
「__春一郎くん!」
水を放つような、低くて透明な女の声が背後からした。聞き慣れたまろやかさ。
まぶたに熱水をかけられたように、俺は目をみひらいて、声のした方角に顔を向けた。
「奈保美__」
つぶやきは、風に切り取られた。
奈保美が、広い公園の木々のあいだを切り通して作られた白木の階段から、俺を見下ろしていた。右手は欄干にそっと乗せて。
どこかで、鳥が、空気の合間を縫って、ぴりりと高く鳴く。
強い風が吹く。
奈保美の波打つゆたかな髪が、旗のようになびいて、金の影をひらひらとまとう。背後に広がるのは、森と、雲ひとつない秋晴れの空。
シャボン玉色をした淡いこもれびが、俺と彼女のはざまを縫う。
ひかりが森と雲の影に隠れ、落ち着きをみせると、奈保美が肩で息をしていることが遠目からわかった。こめかみと首すじに、汗の粒を浮かせている。
走ってきたんだ。
胸の奥底が、鈍い糸でしめつけられるようだった。
透明な風が、重く感じた。
俺たちは、互いに口と目を開けてみつめあっていたが、やがて奈保美が息を整えると、口角をあげて目元をゆるませた。琥珀のひとみが、濡れたようにきらめいた。長い脚を伸ばすと、階段を一段一段、丁寧に降りてくる。足がやわらかく変形して、落ち着くのがわかった。地に降り立つと、腕を腰に回し、ゆったりとした速度で俺に近づいてきた。奈保美の衣服や髪にまとわれている空気だけ、一温高いような気がした。シューズから骨の浮きでた足の甲を伸ばし、つまさきから目の前に着地すると、地に残された画用紙をひらと拾いあげ、俺の膝の上に乗せた。
俺の手の甲には、汗のしずくが浮いていて、乾いた画用紙に吸い取られて消えた。
顔をあげた奈保美と目が合った。大きな琥珀の深遠に、俺の空虚な顔がうつっていた。
「私は君の絵、すきだよ」
葉で撫でられたような、やわらかな笑顔だった。奈保美がかけていた眼鏡のレンズは、虹色にきらめいて、やがて空をうつして水浅葱に染まる。
俺は瞳をゆらして、硬直していた。
「は……」
ひとこと、乾いた息が漏れて、間近に迫っていた奈保美の眼鏡のレンズを曇らせた。
流れてゆく時間と共に、曇ったレンズが、斜め右上から元に戻ってゆく。琥珀色の大きな瞳が、ふたたび現れた。レンズ越しに、濡れたようにかがやいていた。くすぐるようなあまい薫りが、垂れた髪から流れている。
「君の絵には、女性の裸体をうつくしく描こうという敬意を感じる」
奈保美の紡ぐ言葉の吐息の一音いちおんの熱が、くちびるの表面にふれて、淡く濡れる。
「__世界中の誰が否定しても、私は君の味方だ」
奈保美の手が、ゆびさきだけで俺の膝をそっと撫でた。
ぞくりとするような感触が走った。
足を引いてベンチに寄せ、くちびるを噛む。
奈保美は顔をくしゃりと中央へ寄せ、笑顔はさらにまぶしくなったが。そのまま消えてしまいそうな切なさがあった。
高い背を直角に曲げて俺に顔を寄せていた奈保美は、背の筋肉を伸ばし、垂直にからだを起こした。髪がやわらかくゆれて、先が背後の緑に溶ける。膝を曲げて手をのせ、ふたたび俺に視線を合わせると、淡い笑みを浮かべた。
「ねぇ、私が、君にだけ私を覗かせていた理由。答え出たかい?」
「いや……」
「私はね。君は、君だけは、私のことを性的な目で見ないで、私の真実の姿を描いてくれると思ってたんだ」
息を止めた。奈保美の声だけが、透明な空間に浮きあがって聞こえた。先ほどよりも奈保美のひとみは大きく照り映えて、真っ直ぐに驚いた俺の顔だけをうつしていた。
奈保美が胸元にそっと右手を置いた。
自然に視線が誘導される。
奈保美のゆたかな胸があった。ニット生地の布に守られているが、俺はその中身を知っている。ずっとみつめて、描いてきた。薄黄金色のなめらかな肌。杏色の乳首が浮くように頂点をいろどる、一番身近な乳房を。
「このからだのせいで、今までいやな思いばかりしてきた」
淡々としているが、先ほどよりも一音低い声だった。
まるく豊かな彼女の胸の輪郭が、ざらついた彼女の過去を、言葉よりも雄弁に語っていた。痴漢にあったとも、ストーカーされたとも、恋愛面でなにかあったとも、具体的なことは何も言わなかったが、俺は子どもながらにそれらを察した。
奈保美のからだが通り過ぎてきた、暗いくらい幾重もの夜が、映画のように四角く並んで、背後に流れた。
たわわに実った果実のような胸は、ブラジャーで固定され、風が吹いてもゆるがなかった。纏われたワンピースは、ぴったりと彼女の肌に寄り添い、無駄な贅肉のないからだの輪郭をあらわにしていた。そこにかかるひと束の髪が、滲んで溶けてゆくような艶をはらんで波打って流れている。そこに秋が寄り添って溶けていた。
「会社を辞めて、上野の美術館に行ったんだ。大学時代に美術史を専攻していてね。働いていて、息が詰まると美術館に足を運ぶことがあった。私にとって美術館は現実から離れられる、息がしやすい場所だった。
そこで彫刻を見た。千年前に掘られたという、乳白色の石の彫刻は、石鹸のようにやわらかそうで、ふれれば、ゆびが飲み込まれてしまうんじゃないかと思うほどだったよ。
それを見ていたらね、自然に涙があふれた。千年前って、神様を信じている職人が作ったものだから、目に見えない何かを信じている強い気持ちとかが、輪郭のやわらかな線や、溝の薄青い影にあらわれていて、すごく胸を打った。胸の奥深くの、血の泉が湧く場所に、痺れるような痛みが走ったんだ。人の心を打つってこういうことだと思った。
彫刻は炎を掲げた女性像で、うつくしい裸体だった。その裸体をみていて、私も芸術品として、誰かに私のからだを見てもらいたいと思ったんだ。性的なものではなく、世界のどこかにいる、名前も知らない誰かの胸を打つ絵として、表現の題材に使ってもらえたらと思ったんだ」
奈保美の目は、濃く深くなっていた。俺ではない過去をみつめていた。自分の中の深淵に浸って、たゆたっている記憶のかけらの一部を、大きな琥珀の内側からじっと。
「本当は、次の仕事が決まるまでの繋ぎとして、ヌードモデルの仕事をしていたんだ」
虚空をみつめる澄んだ瞳には、徐々に目の前の風景が実態を持って映しだされているようだった。一度過去に戻って深い場所まで潜ったことで、今目の前にある現実世界のしんと冷えた空気や、ひかり、森の深い薫りが、奈保美の肌に浸透しやすくなったのか、先ほどよりかろやかに喋っていた。木々が平行に並ぶさきにある、太陽が水浅葱の空と溶けて滲んでいる、ここよりも遥かに澄んだところへ、彼女の焦点があった。
奈保美の声は心地よく、公園の森林が生み出す空気とともに、俺の肌に馴染んだ。
俺たちの間に、風がひとつ吹く。奈保美の前髪が浮き、富士額が陽光に撫でられて、淡くしろい輪郭を描いた。ひとみはゆれずに、ただそよぐ森をうついしていた。
「でも、私も途中から真剣にこの仕事と向き合うようになった」
森を見ていた奈保美が、俺のほうを振り返る。
「君の秋空のようなまなざしを見て」
視界にあたたかなひかりが漏れ入ってきたが、それは奈保美の醸しだす気配だった。彼女の薄黄金の肌が、濡れたようにつやめき、俺をとらえている。
雨に濡れた曇り硝子のように、視界がゆがんで、滲んでいた。
俺はいつの間にか、眸を震わせていた。
「さあ、なみだを拭いて」
目の前に降りていた暗い透明な幕を裂くように、薄青い影がさっと訪れた。
奈保美の右腕が、俺の左頬に伸ばされていた。やさしく風が切られる。
「え?」
刹那、俺の中の熱さと、奈保美の皮膚のつめたさが交互に訪れて、すぐに去ってゆく。
気付いたときには、俺の左目の端に生まれていた熱い涙のしずくが、彼女の人差しゆびで拭われていた。
奈保美が右手をどけると、先ほどよりも淡く赤く染まった陽光が、瞳孔を真っ直ぐに射抜いて、離れていった。
「ごめんね。私の花を見せて困らせて」
「いや……」
自分が泣いていたことにも気付いていなかった。彼女に拭われて、はじめて涙の感触に気付いた。熱い質量が下睫毛から剥がれてゆく。
奈保美の手が離れてゆく。ゆびをかかげたままだったので、サムズアップしているようなポーズになっていた。すべてを肯定してくれる形に。
「でも君は、私の裸をえっちな目で見なかったよね」
俺は奈保美をしばしみつめた後、ふっと視線を逸らしてうつむいた。前下がりの黒髪が、冷えた空気を漂い、俺の顔を覆って、影を作った。
「これからどうすんの? ヌードモデルの仕事ずっとやってくの?」
「次の仕事が決まったんだ」
奈保美が、一拍置いて答えた。
俺は膝の上で、前後に動かしていた人差し指のさきを止めた。
「……へー。次何になんの」
「大学時代に、美術史の研究をしていてね。学芸員の資格を取っていたんだ」
「へー……」
かすみのような声が出た。
俺はなんでもないことのように、ふたたびゆびさきを動かし始めた。先ほどよりも鈍い動きにしかならなかった。
奈保美はゆったりと立ちあがり、背中に腕を回し、腰のあたりでゆるく組むと、広場をまわるように、脚を伸ばして歩き始めた。背に流したゆたかな髪がゆれ、秋の空気と混じり合っていた。
「君の描く姿を目にして、もう一度自分のやりたいことが考え直せた。私は絵を見るのがすきで、描かれた意味について考えるのがすきだった」
顔を天に向ける。何か憑き物が落ちたかのような、涼やかな微笑みを浮かべた横顔で。
「知人の紹介で面接を受けて、ちいさい美術館の学芸員として雇ってもらえることになったんだ」
「へー、すげえじゃん」
俺はうつむいたまま応えた。
未だ前髪がまぶたに当たっていたので、奈保美からは、俺の表情はわからなくなっていただろう。うすいまぶたの中央に当たる陽光がまぶしくて、涙が出そうな辛い痛みが、眼球に走っていた。
奈保美は歩みを止めて、片脚だけ遊ぶようにあげると、俺のほうを向いて、にかりと笑んだ。
「最初は、契約社員からだけどね」
「じゃあヌードモデルのバイト、辞められんじゃん」
俺も顔をあげて、満面の笑顔を作った。陽光はまだ紺色に溶けておらず、はやく木々の重なりで遮って欲しいと、心のどこかで思っていた。
「ありがとう。人生のこのときに、君に出会えてよかった」
奈保美は目をみひらいて、俺を見やっていた。澄んだ琥珀が、真っ直ぐに俺を見つめている。
俺はそれを受け止めることができなかった。まぶたを閉じて、その純粋な煌めきから目を逸らした。
それから公園には、風が吹かなかった。透明な、かすかに橙に染まった空気だけがただ流れて、夜の紺色に変わって俺たちを包んでいた。
奈保美は俺がまぶたを閉じても、しばらく俺のことをみつめていた気がする。
そういう気配があった。
「くれない」での、いつものクロッキー会が終わり、西岡と鶴間を先に返して、奈保美とふたりきりの午後を過ごしていた俺は、唐突にそう言い放った。
奈保美は、俺と接触してから、わざと帰りの時間を遅らせているように感じていた。何故かはわからない。俺のことが気になっていると言っていたから、俺と話す時間を持ちたいのだろうか。
__そもそも、何故気になっているんだ?
もやもやと彼女に引っ張られていた。考えようとしなくても、自然と彼女のことを考えてしまう。
壁一面に張られた曇り硝子に差し込む西日は、薄闇をはらみ、アトリエを灰色と茜が入り混じったいろに染めていた。空気もかすみがかっている。
奈保美は、口と目をまるく開け、何を言われたのか理解が追いつかないという顔をしていたが、やがてうすく開けていたくちびるをちいさく震わせた。
纏っているモスグリーンのニットワンピースが、ひたりと肌に吸い付き、なめらかな身体のラインをはっきりとさせていた。
「え、……なんで?」
俺はまっすぐに奈保美を見やっていたが、やがて目を逸らし、まぶたを伏せた。丸椅子に座って硬くなっていた脚を伸ばして、上履きでかるく床を蹴る。
「……一昨日、公園であんたを見かけた」
とたん、奈保美の顔はみるみる赤く色づき、額まで広がり、のぼせあがった。その紅は、照れているようにも、怒っているようにもみえた。
一瞬目をみひらき、琥珀をきらめかせたが、何かをあきらめたようにまぶたを半分伏せ、俺から目を逸らした。鼻からみじかく息をつく。長いまつげがこまかく震えていた。
「……なんだ。見てたのかよ。声かけてくれりゃいいのに、逆に恥ずかしいな。はは……」
いつもの、ふざけているのか真面目に言っているのかわからない、奈保美の声が降ってきた。
「服着て歌っていたときのあんたのほうが、いきいきしてて、たのしそうだった」
伏せたまぶたの裏で、黄金の公園で歌い踊っていた奈保美の姿が、うつしだされていた。
「性欲おばけの男子高校生の前で、全裸でマ○コ見せてるなんてすけべな仕事、あんたに向いてねぇよ」
ひと息に告げる。
奈保美は目をひらいたまま、凍ったように硬直した。
やがてしずかに短く口から息を吐き、固まったくちびるを震わせる。
「私が、やりたくてやった仕事なんだ。君にとやかく言われる筋合いないね。……まだ働いたこともない、お子ちゃまのくせに」
「……は?」
頭が真っ白になった。憤怒で、イーゼルとそれに乗ったクロッキー帳を蹴りあげそうになったが、すんでのところで冷静になり、自分を客観視した。やがて、怒りが剥がれてやってきたのは、目の前の年上の女に対する、残酷な感情だった。
「まともに働ける身体しておいて、こんなすけべな仕事選んだあんたの気がしれねぇな」
奈保美に向かってわらったことのない俺は、満面の笑顔を浮かべて彼女を見やった。刺し殺すように。そこに温度はなかった。冷たい笑顔とつめたい声だった。
奈保美の頬は、先ほどよりもさらに赤く染まり、水辺でゆれる楓の紅葉のようになる。
「ヌードモデルの仕事、馬鹿にするなよ!」
目の前が割れるような音量だった。しなやかに伸ばされた奈保美の脚が、薄暗い影を徐々に深めながら俺に迫ってくる。
かたりと音が鳴った。
イーゼルが俺に覆い被さるように倒れ、スツールもつられて倒れ、秋の空気によって冷えた床に、俺は背中を打った。
まぶたを強く閉じる。梅の花が咲いたように、目の前に紅がちかちかと舞った。
鈍い痛みが肩甲骨に走り__
「あっ、ごめん! ごめんよ……!」
奈保美の焦った声が、溶けて歪んで暗い視界に届く。
動けなくなるほどではない、かるい痛みだった。だが、心の痛みのほうが、勝っていた。今思えば、俺もかなり悪かったが。
右腕を支点にして、ゆっくりとからだを起こし、左腕で押すようにクロッキー帳とイーゼルを立て直すと、鞄を握ってアトリエのドアへ向かって、駆けていった。うつむいた顔を、ひらひらと前髪が覆ってゆれる。
奈保美が俺の背中に向かって何か声をかけていたが、それをすべて無視した。透明な凛と低い彼女の声は、衣服に染み渡らず、頬を滑り、冷えた空気の中に滲んで、きんと氷り、固まって落ちてゆく。
無意識に脚を動かして、たどり着いたのは、昨日、奈保美が歌い踊っていた公園だった。
昨日よりも、森の葉は、色彩があざやかに燃えていた。
赤や緑、黄は、俺の足にかかって、ステンドグラスのように、あわい陽光に透かされてゆらゆらとゆれて重なっていた。
ズボンのポケットに入れていた、てのひらサイズのスケッチブックを取り出す。昨日よりも、深緑の表紙は、褪めているように感じた。
そっと右手で撫でて、こまかなほこりを払うとページをひらき、未だ無地のざらりとした紙に鉛筆の芯を立てた。
まるく尖った芯のさきが、黒く擦れて止まる。
ゆびさきにこめた筋力がふっと落ちる。
描けない。
何も描けなかった。
芯は、一点だけ強い圧力をかけられ、そこから徐々に割れていった。
墨の粉が、真っ白な画用紙を汚しただけだった。
その中のひとかけらが、青褪めた空気の中を落ちて、黒いズボンに溶けていった。
一枚、また一枚と画用紙をめくってゆく。
白い世界に当てられた鉛筆の芯は、ただ小刻みに震えるだけで、何も生み出さなかった。こめかみをつめたい汗が伝う。頭をかすかに動かすと、画用紙のしろにぽつりとしずくが落ち、涙のように滲んだ。端にあった墨と混じり、ちいさかった黒の点が滲んで大きくなる。
「ははっ。奈保美さんにあんな酷いこと言っといて、結局何も描けねぇじゃん」
口角をあげて乾いたわらいをこぼした。黒で汚した画用紙をゆびさきでつまむと、腕を高くあげた。ぶちぶちという音を立てて、リングから画用紙が破れて離れてゆく。何度もその行為を繰り返した。
俺の頭上から、雪のように画用紙が降ってくる。黄金の地が、白い紙でいろどられてゆく。
風が吹き、地に張り付いていた画用紙たちが、はらはらと羽ばたく音がした。
首を落としてうなだれ、その様を目にうつさなかった。
奥歯を噛む。さらに強く噛む。つばに、かすかな血の味が滲んでいた。
どれくらいそうしていただろう。紙の羽ばたく音がしなくなった。
風も止んだ。
「__春一郎くん!」
水を放つような、低くて透明な女の声が背後からした。聞き慣れたまろやかさ。
まぶたに熱水をかけられたように、俺は目をみひらいて、声のした方角に顔を向けた。
「奈保美__」
つぶやきは、風に切り取られた。
奈保美が、広い公園の木々のあいだを切り通して作られた白木の階段から、俺を見下ろしていた。右手は欄干にそっと乗せて。
どこかで、鳥が、空気の合間を縫って、ぴりりと高く鳴く。
強い風が吹く。
奈保美の波打つゆたかな髪が、旗のようになびいて、金の影をひらひらとまとう。背後に広がるのは、森と、雲ひとつない秋晴れの空。
シャボン玉色をした淡いこもれびが、俺と彼女のはざまを縫う。
ひかりが森と雲の影に隠れ、落ち着きをみせると、奈保美が肩で息をしていることが遠目からわかった。こめかみと首すじに、汗の粒を浮かせている。
走ってきたんだ。
胸の奥底が、鈍い糸でしめつけられるようだった。
透明な風が、重く感じた。
俺たちは、互いに口と目を開けてみつめあっていたが、やがて奈保美が息を整えると、口角をあげて目元をゆるませた。琥珀のひとみが、濡れたようにきらめいた。長い脚を伸ばすと、階段を一段一段、丁寧に降りてくる。足がやわらかく変形して、落ち着くのがわかった。地に降り立つと、腕を腰に回し、ゆったりとした速度で俺に近づいてきた。奈保美の衣服や髪にまとわれている空気だけ、一温高いような気がした。シューズから骨の浮きでた足の甲を伸ばし、つまさきから目の前に着地すると、地に残された画用紙をひらと拾いあげ、俺の膝の上に乗せた。
俺の手の甲には、汗のしずくが浮いていて、乾いた画用紙に吸い取られて消えた。
顔をあげた奈保美と目が合った。大きな琥珀の深遠に、俺の空虚な顔がうつっていた。
「私は君の絵、すきだよ」
葉で撫でられたような、やわらかな笑顔だった。奈保美がかけていた眼鏡のレンズは、虹色にきらめいて、やがて空をうつして水浅葱に染まる。
俺は瞳をゆらして、硬直していた。
「は……」
ひとこと、乾いた息が漏れて、間近に迫っていた奈保美の眼鏡のレンズを曇らせた。
流れてゆく時間と共に、曇ったレンズが、斜め右上から元に戻ってゆく。琥珀色の大きな瞳が、ふたたび現れた。レンズ越しに、濡れたようにかがやいていた。くすぐるようなあまい薫りが、垂れた髪から流れている。
「君の絵には、女性の裸体をうつくしく描こうという敬意を感じる」
奈保美の紡ぐ言葉の吐息の一音いちおんの熱が、くちびるの表面にふれて、淡く濡れる。
「__世界中の誰が否定しても、私は君の味方だ」
奈保美の手が、ゆびさきだけで俺の膝をそっと撫でた。
ぞくりとするような感触が走った。
足を引いてベンチに寄せ、くちびるを噛む。
奈保美は顔をくしゃりと中央へ寄せ、笑顔はさらにまぶしくなったが。そのまま消えてしまいそうな切なさがあった。
高い背を直角に曲げて俺に顔を寄せていた奈保美は、背の筋肉を伸ばし、垂直にからだを起こした。髪がやわらかくゆれて、先が背後の緑に溶ける。膝を曲げて手をのせ、ふたたび俺に視線を合わせると、淡い笑みを浮かべた。
「ねぇ、私が、君にだけ私を覗かせていた理由。答え出たかい?」
「いや……」
「私はね。君は、君だけは、私のことを性的な目で見ないで、私の真実の姿を描いてくれると思ってたんだ」
息を止めた。奈保美の声だけが、透明な空間に浮きあがって聞こえた。先ほどよりも奈保美のひとみは大きく照り映えて、真っ直ぐに驚いた俺の顔だけをうつしていた。
奈保美が胸元にそっと右手を置いた。
自然に視線が誘導される。
奈保美のゆたかな胸があった。ニット生地の布に守られているが、俺はその中身を知っている。ずっとみつめて、描いてきた。薄黄金色のなめらかな肌。杏色の乳首が浮くように頂点をいろどる、一番身近な乳房を。
「このからだのせいで、今までいやな思いばかりしてきた」
淡々としているが、先ほどよりも一音低い声だった。
まるく豊かな彼女の胸の輪郭が、ざらついた彼女の過去を、言葉よりも雄弁に語っていた。痴漢にあったとも、ストーカーされたとも、恋愛面でなにかあったとも、具体的なことは何も言わなかったが、俺は子どもながらにそれらを察した。
奈保美のからだが通り過ぎてきた、暗いくらい幾重もの夜が、映画のように四角く並んで、背後に流れた。
たわわに実った果実のような胸は、ブラジャーで固定され、風が吹いてもゆるがなかった。纏われたワンピースは、ぴったりと彼女の肌に寄り添い、無駄な贅肉のないからだの輪郭をあらわにしていた。そこにかかるひと束の髪が、滲んで溶けてゆくような艶をはらんで波打って流れている。そこに秋が寄り添って溶けていた。
「会社を辞めて、上野の美術館に行ったんだ。大学時代に美術史を専攻していてね。働いていて、息が詰まると美術館に足を運ぶことがあった。私にとって美術館は現実から離れられる、息がしやすい場所だった。
そこで彫刻を見た。千年前に掘られたという、乳白色の石の彫刻は、石鹸のようにやわらかそうで、ふれれば、ゆびが飲み込まれてしまうんじゃないかと思うほどだったよ。
それを見ていたらね、自然に涙があふれた。千年前って、神様を信じている職人が作ったものだから、目に見えない何かを信じている強い気持ちとかが、輪郭のやわらかな線や、溝の薄青い影にあらわれていて、すごく胸を打った。胸の奥深くの、血の泉が湧く場所に、痺れるような痛みが走ったんだ。人の心を打つってこういうことだと思った。
彫刻は炎を掲げた女性像で、うつくしい裸体だった。その裸体をみていて、私も芸術品として、誰かに私のからだを見てもらいたいと思ったんだ。性的なものではなく、世界のどこかにいる、名前も知らない誰かの胸を打つ絵として、表現の題材に使ってもらえたらと思ったんだ」
奈保美の目は、濃く深くなっていた。俺ではない過去をみつめていた。自分の中の深淵に浸って、たゆたっている記憶のかけらの一部を、大きな琥珀の内側からじっと。
「本当は、次の仕事が決まるまでの繋ぎとして、ヌードモデルの仕事をしていたんだ」
虚空をみつめる澄んだ瞳には、徐々に目の前の風景が実態を持って映しだされているようだった。一度過去に戻って深い場所まで潜ったことで、今目の前にある現実世界のしんと冷えた空気や、ひかり、森の深い薫りが、奈保美の肌に浸透しやすくなったのか、先ほどよりかろやかに喋っていた。木々が平行に並ぶさきにある、太陽が水浅葱の空と溶けて滲んでいる、ここよりも遥かに澄んだところへ、彼女の焦点があった。
奈保美の声は心地よく、公園の森林が生み出す空気とともに、俺の肌に馴染んだ。
俺たちの間に、風がひとつ吹く。奈保美の前髪が浮き、富士額が陽光に撫でられて、淡くしろい輪郭を描いた。ひとみはゆれずに、ただそよぐ森をうついしていた。
「でも、私も途中から真剣にこの仕事と向き合うようになった」
森を見ていた奈保美が、俺のほうを振り返る。
「君の秋空のようなまなざしを見て」
視界にあたたかなひかりが漏れ入ってきたが、それは奈保美の醸しだす気配だった。彼女の薄黄金の肌が、濡れたようにつやめき、俺をとらえている。
雨に濡れた曇り硝子のように、視界がゆがんで、滲んでいた。
俺はいつの間にか、眸を震わせていた。
「さあ、なみだを拭いて」
目の前に降りていた暗い透明な幕を裂くように、薄青い影がさっと訪れた。
奈保美の右腕が、俺の左頬に伸ばされていた。やさしく風が切られる。
「え?」
刹那、俺の中の熱さと、奈保美の皮膚のつめたさが交互に訪れて、すぐに去ってゆく。
気付いたときには、俺の左目の端に生まれていた熱い涙のしずくが、彼女の人差しゆびで拭われていた。
奈保美が右手をどけると、先ほどよりも淡く赤く染まった陽光が、瞳孔を真っ直ぐに射抜いて、離れていった。
「ごめんね。私の花を見せて困らせて」
「いや……」
自分が泣いていたことにも気付いていなかった。彼女に拭われて、はじめて涙の感触に気付いた。熱い質量が下睫毛から剥がれてゆく。
奈保美の手が離れてゆく。ゆびをかかげたままだったので、サムズアップしているようなポーズになっていた。すべてを肯定してくれる形に。
「でも君は、私の裸をえっちな目で見なかったよね」
俺は奈保美をしばしみつめた後、ふっと視線を逸らしてうつむいた。前下がりの黒髪が、冷えた空気を漂い、俺の顔を覆って、影を作った。
「これからどうすんの? ヌードモデルの仕事ずっとやってくの?」
「次の仕事が決まったんだ」
奈保美が、一拍置いて答えた。
俺は膝の上で、前後に動かしていた人差し指のさきを止めた。
「……へー。次何になんの」
「大学時代に、美術史の研究をしていてね。学芸員の資格を取っていたんだ」
「へー……」
かすみのような声が出た。
俺はなんでもないことのように、ふたたびゆびさきを動かし始めた。先ほどよりも鈍い動きにしかならなかった。
奈保美はゆったりと立ちあがり、背中に腕を回し、腰のあたりでゆるく組むと、広場をまわるように、脚を伸ばして歩き始めた。背に流したゆたかな髪がゆれ、秋の空気と混じり合っていた。
「君の描く姿を目にして、もう一度自分のやりたいことが考え直せた。私は絵を見るのがすきで、描かれた意味について考えるのがすきだった」
顔を天に向ける。何か憑き物が落ちたかのような、涼やかな微笑みを浮かべた横顔で。
「知人の紹介で面接を受けて、ちいさい美術館の学芸員として雇ってもらえることになったんだ」
「へー、すげえじゃん」
俺はうつむいたまま応えた。
未だ前髪がまぶたに当たっていたので、奈保美からは、俺の表情はわからなくなっていただろう。うすいまぶたの中央に当たる陽光がまぶしくて、涙が出そうな辛い痛みが、眼球に走っていた。
奈保美は歩みを止めて、片脚だけ遊ぶようにあげると、俺のほうを向いて、にかりと笑んだ。
「最初は、契約社員からだけどね」
「じゃあヌードモデルのバイト、辞められんじゃん」
俺も顔をあげて、満面の笑顔を作った。陽光はまだ紺色に溶けておらず、はやく木々の重なりで遮って欲しいと、心のどこかで思っていた。
「ありがとう。人生のこのときに、君に出会えてよかった」
奈保美は目をみひらいて、俺を見やっていた。澄んだ琥珀が、真っ直ぐに俺を見つめている。
俺はそれを受け止めることができなかった。まぶたを閉じて、その純粋な煌めきから目を逸らした。
それから公園には、風が吹かなかった。透明な、かすかに橙に染まった空気だけがただ流れて、夜の紺色に変わって俺たちを包んでいた。
奈保美は俺がまぶたを閉じても、しばらく俺のことをみつめていた気がする。
そういう気配があった。



