それから、俺と奈保美の、駆け引きのような変な関係が始まった。

 あれから奈保美は、モデルとして俺の前にあらわれるが、ふたりで話した時のような態度の違いは見せなかった。物静かでおとなしく、機械的だが生々しさを感じさせるポージングをして、ヌードモデルとしての仕事を(まっと)うしていた。

 奈保美が、正座をして両腕をあげてクロスさせる。脚を組んで、胸を天へ向ける。陽光がそれをなぞって、しろく走る。肋骨(ろっこつ)と腹のあいだのくぼんだ場所に、薄黄金のなめらかなひかりが溜まる。

 ゆびの先から足のさきまで、曇り硝子にうつしだされる彼女の輪郭(りんかく)陰影(いんえい)色彩(しきさい)は、うつくしかった。奈保美がかすかにまぶたを伏せて、くちもとを()ませる。橙色の長いまつげのあいだに、金のひかりのしずくが宿る。

 俺の筆は、そのきらめきを閉じ込めようと、さらに動きを進めた。

 奈保美は硬直させていた筋肉をゆるめて、腕を下ろした。

 クロッキー会が終わる。

 ひだまりの白に、茜が混じっていた。もうすぐ昼が終わり、溶けた夕暮れの赤が訪れる刹那。

 他のやつがアトリエを去っても、俺と西岡と鶴間はアトリエに残っていた。ひと仕事終えた後の気怠(けだる)い生暖かさが、あたりに満ちていた。

 奈保美はもう帰っていた。


「春ちゃん、この前から奈保美ちゃんを見る目が変わってね?」


「やっぱふたりで居残ってた時になんかあったんだって。えろいことしてたんだよ!」


 また西岡と鶴間のふたりが、こそこそと俺の隣で話している。丸聞こえだったが、俺はクロッキー帳だけに向き合って絵の修正をしていた。俺が奈保美とふたりで居残っていたときに、恋愛的な何かが起きたんじゃないかと、若い期待をして、頬を桃色に染めていたが、そんなきらきらしたものは微塵もなく、あのとき起きたのは、互いの人間性を(さぐ)るような、共犯者めいたものだった。もっとねばついて汚く、かさついていた。

俺にだけ、自分の性器を見せてくるようなやばい女だということを、俺は誰にも言わなかったので、西岡と鶴間は相変わらず奈保美を神聖なもののように崇めていた。普段ふれあうことの少ない、年上のうつくしい謎めいた女へのあこがれが、そこにはあった。

__やっぱ会話って、人の印象変えるのに、でかいツールなんだな。


「うるさいんだけどー。しずかにクロッキーするか、描かないんだったら道具片付けろよ」


 かさかさと、俺の鉛筆の墨と、キャンバスが(こす)れる音が大きくなる。

 西岡と鶴間が「すいやせん、すいやせん。辻本せんせー」とふざけてかるい声で言ってくる。

 モデルのときの奈保美のからだを思い浮かべる。ふたりで話した時の、小馬鹿にするような笑顔も。

 俺はまぶたを閉じて、かすんだ鼻息をつく。

 最初はおもろいかと思ってたけど、だんだん面倒くさくなってきたな。どすけべ女の考えることなんか全然わかんねえ。良いおもちゃみつけたと思われて、おちょくられているだけなのかもしれない。

乗ってしまった俺も馬鹿だ。あん時無視しときゃよかったのかも。


「そういや春一郎、進路調査票出した?」


 クロッキー帳の上で、すべらせていた手を止めた。


「は? 出してねえけど」


 声をかけてきた西岡のほうを振り返る。

 西岡は悪気のない、率直な笑顔を浮かべていた。


「そうなんだ。俺はてっきり春ちゃんは、芸大が第一志望なのかと思ってた」


 俺はうすくくちびるを開けて、すぐに閉じた。


「画家になるんだろ? それとも美術の先生?」


 鶴間も身を乗り出して俺たちの話に入ってくる。


「ちなみに俺はデザイナーね! だから球美(たまび)のデザイン科か、専門受けようかなって」


 ふたりともたのしそうだった。将来への希望にあふれて、笑顔が心なしかきらきらしている。

 俺だけが、そのあかりの中心からずれていた。ふたりだけが、その後も盛りあがって、昼のひだまりが(いま)だに続いているようで、俺は夕暮れの薄紅(うすあか)い影の中にたたずんでいた。

 話を合わせるふりをして上向いた。

 昔からそうだ。将来の夢の話になると、なんとなくはぐらかして話題から(はず)れようとする。

 絵を描くのは昔からすきだったが、それで何を描いて、どういう仕事に就きたいかということは特になかった。放課後にこうしてなんとなく美大目指して、美術予備校に通わせてもらっているけれど、俺は何が描きたいのか、わからなかった。

絵を描くやつは、大抵すきなものがあり、それを描いている。

 だが、俺にはそれがない。自覚があった。画力は褒められるが、何か万人受けを狙ったような作風で、可もなく不可もない、感情のないからっぽの絵だと、自分では思っていた。

 俺より画力は低いが、西岡と鶴間たちの絵のほうが魅力的に感じたし、自分で描いた絵よりも惹かれた。

 だから自分の残した絵に執着もなく、描き溜めては、部屋の場所を取るという理由で、スケッチブックごと、その都度捨てていた。欲しいというやつがいれば、タダで与え、俺の手元に残しておこう、誰か特別なやつにあげようという気持ちで描いたこともなかった。飯食って腹ん中に溜めて、クソしてるのと一緒だ。絵を描くことが特別な行為だというのが、自分の中に生まれていなかった。


「そういや、奈保美ちゃんの背中さ。なんか傷跡みたいなのねぇ?」


「え、そーかぁ? 意識したことなかったけど」


「俺の気のせいなんかな。まぁくっきりと見えてるわけじゃねぇからな。なんか、傷跡があんだよ。何かで、すぱっと縦に斬られたみてえな……」


 俺が頭の中で逡巡しているあいだに、ふたりの話題は変わっていた。

 俺もそれに気づいていたので、一度しずかに息を止めた。

 俺が描いた何枚かのクロッキーの中には、彼女の背中の傷をうつしとろうとしていた痕跡(こんせき)があった。

 奈保美をクロッキーしていて気付いたことがある。それは、彼女の背中には、うっすらとした何かで斬られたような傷跡があるということだ。

 薄桃に肉付き、もう薄黄金の肌との境目もわからないほどに回復しているようだが、彼女のなめらかな肌の中で、そこだけが異質だった。背中を覆うように、右肩から左尻にかけて、斜めに傷ついていた。刀で袈裟斬(けさぎ)りにされたように。それを隠そうともせず、回復も待たずモデルの仕事をしている。

 俺だけが気付いているのかと思っていたが、やはり他の者も気付いていたらしい。

 傷跡に気付いていなかった西岡は、「えー、そうかぁ。今度見てみようかなぁ」と言っていたが、たいしてそこを追求しようとはせずに終わった。神聖で完璧な奈保美に傷があるという現実に、深くふれたくなかったのかもしれない。気にするほどの深さでもなかった。

 その後、その話題が出ることもなかった。

 俺はその話題が終わった後も、しばらく奈保美の斬り傷について考えていた。

 眠る前の、紺色の闇の中、まぶたを閉じていても、なめらかな背中の上に浮く傷が、浮きあがって目の前に迫り、脳裏にくっきりと薄桃の半月の形を残した。


 翌日のホームルームで、事前に配られていた進路調査票が、担任によって回収された。ほとんどの生徒が期日までに書き終えており、嬉々(きき)とした顔で教室を後にしてゆく。彼らが笑顔で話す内容も、希望大学や、それにまつわる将来の夢に関してだ。透明な希望を、肌に纏って。

 俺は、いまだに進路調査票を埋められずにいた。何か適当に書こうとすると、シャーペンを握った手が止まってしまうのだ。絵を描くときはあんなに迷わず、すらすらと筆を動かせていたというのに。

 何故だろう。


「辻本ー。お前も描けたのかー」


 担任の朝妻(あさづま)の声だけが、午後四時の銀杏色に染まった教室に響く。俺がぼんやりしている間に、気付けば他の生徒は消えていた。数多の使い古された机の上に、窓から銀杏の葉影が透明に落ちて、空気中のほこりは、夕暮れに向かうひかりの変化で金色に染まり、整然と並べられた机や椅子の上に、結晶(けっしょう)のように浮いて、ゆっくりと舞い降りている。

 朝妻が近づいてくる足音がする。

 俺はまぶたを閉じて、顔を組んだ腕の中に伏せて、眠ったふりをしていた。かすみのような鼻息を漏らして。

 朝妻が俺の机の上に無造作に置かれていた、進路調査票をゆびさきでつまみあげる。さらりとした音がしずかに鳴る。

 ひゅっと、朝妻が息をのむ音が、遠くのほうから聞こえる。

 俺の書いた進路調査票は、シャーペンで描き殴ったような絵が重なって描かれていて、抽象画(ちゅうしょうが)のようになっていた。

 朝妻がしばらくそばにいて、進路調査票と俺を、交互に見下ろしている気配が感じられた。だが、やがてあきらめたように俺から離れ、足音は遠ざかってゆく。

 後にはしんとひえた、薄青い空気だけが残っていた。

 誰もいなくなった教室で、俺はむくりと上体を起こした。鞄を肩にかけ、少しうつむいて教室を後にした。

 黄金(こがね)に照らしだされた教室の中で、俺だけ灰色に塗られていた。教室はよくも悪くも平等が求められ、そこから自分の努力と力量次第で未来の自由を選べるはずだったのに、俺は選べなかった。描き殴った絵と同じ黒が、俺の上にかかっている。

 帰り道、西岡と待ち合わせをして、美術予備校に向かう予定だった。

 外の空気は学校の中よりも澄んでつめたく、(かわ)いていた。こっちのほうが、まだ居心地がよかった。鼻を通過する冷えたものは、息がしやすくなる。

 途中まで、いつものように他愛無(たわいな)い馬鹿話をして盛りあがっていたが、公園の前で俺が急に足を止めると、西岡は「どしたん?」と真顔で振り返った。


「ごめん、今日ちょっと、レンタルショップ寄りたくて」


「そんなん言ってたっけ?」


「あー、ちょっと今思いついた」


「まー、そんな時もあるよな。何借りんの?」


歌谷(うたや)ヒカル」


 俺は平坦に答えた。


「また歌谷かよっ。春ちゃん、そればっかよなー。一途(いちず)じゃんね。浮気とかしねぇの?」


「俺は、適度に他の歌手で抜いてっから、大丈夫なんですー」


「あっそ。健康なようで何より」


 西岡と俺は、ゆびをそろえて互いの手をさっと頭上へあげると、そのままひらひらと振って別れの挨拶をした。いつもの日常だった。

 西岡が離れると、また空気が一温、冷えたように感じた。

 ポケットに手を突っ込むと、ペールブルーのイヤホンを取り出して耳にさす。

 ウォークマンを鞄から取り出して、何かすきな音楽をかけようかと思ったが、再生ボタンを押さずにそのままにしてしまった。世界からいろんな音が遠のいてゆく。

 さらに肌にふれる温度が、一温下がった。ふしぎな感覚だった。

 公園に足を踏み入れる。

 透明で澄んだ秋の空気が、火照った額や頬にふれて気持ちが良かった。葉はすでに紅葉を迎え、葉先から徐々に燃えるような色彩の変化を魅せている。

 ベンチに座る。あたりを流れる風の温度が、また少し下がり、いっそう澄んだ気配のただ中にいる。

 黄色くいろづいた葉が、まだらに緑を残している。陽光があたって、ぱっきりとした金色になった葉脈(ようみゃく)を見上げていた。ひらひらと伏せたまぶたと眼球に、葉の黄色が透けたうすい影となってゆれていた。水浅葱と、黄色と緑の色彩が、天に広がっている。視界にうつる景色はすずやかで、あざやかで、目が(くら)みそうだった。

 砂を蹴るかすかな音と、もやりと穏やかな苦い薫りが額にふれた。

 顔をあげる。

 俺は目をみひらいた。

 公園の広場の中央で、秋の木々に囲まれながら、奈保美が歌って踊っていた。ウエストリボンのついたワインレッドのプリーツワンピースを纏って、両腕を空に羽ばたく前の鳥のように大きく広げて、バレリーナのように右足を前にだし、左足を後ろにまっすぐに伸ばして、オレンジブラウンのパンプスを履いた足の甲を、地につけている。あらわになったくるぶしが、主張するようにひかりの輪郭を纏っていた。

 閉じたまぶたに塗られたテラコッタ色のアイシャドウが、濡れたようにひかりの粒を宿して、彼女が動くたびに紫の影を纏ってきらめいていた。

 くちびるには煙草を一本咥えていた。

 そこから紡がれるのは、歌谷ヒカルの歌だった。デビューして十数年経った歌谷の、今流行りの曲ではなく、デビュー当時の、年上の恋人との道ならぬ恋の気持ちを歌った、せつない曲。俺が一番すきな曲だった。微笑んでうすくひらいた口の横から、灰色の透明なけむりが、ゆらゆらとただよい、彼女のダンスの流れに合わせて、リボンのようにからだの周りを廻って、くるくるとついて動く。

 ざわりと周囲の木々の葉がゆれて、数枚、ひらひらと奈保美と俺の周りに落ちてきた。表と裏で色の違う秋の葉は、落ちるまでに流星のようにまたたいて。

 西からさす黄金の陽光が、奈保美の輪郭をふちどる。燃える女がそこにはいた。満ち足りた、柔和(にゅうわ)な笑顔を浮かべながら。

 俺は奈保美に声をかけようかと、腰を軽くあげ、背筋を伸ばして、うすく口をひらいたが、そっと動きを止めて、ベンチから立ちあがり、少し離れた場所にあった幹の太い木の影に身を隠した。

 同じ公園にいるというのに、彼女だけが異次元で命をかがやかせているようで、普段アトリエに、全裸であらわれるモデルとしての彼女とは、あまりにも違う存在感を放っていた。

 俺は近寄ることができなかった。

 神々しく、なまなましいうつくしさが、煙草のけむりと共に、その場の空気を染めていた。

 俺はいつの間にか、ゆびさきが震えていた。

 ポケットに入れていた、てのひらサイズのちいさなスケッチブックをそっと取り出すと、一枚ページをひらき、取り出していた、削りすぎた短い鉛筆で、奈保美の姿をクロッキーした。

 奈保美は、いつの間にか咥えていた煙草を右手の中指とひとさし指の間に挟んで歌っていた。けむりは細長くゆらゆらとゆれて、尾鰭のように奈保美の周囲をただよい、水浅葱の空へ、しろく溶けて消えてゆく。

 奈保美の輪郭の金は、一層まぶしさを増し、ほとんど純白に近く変わった。まぶたはしっかりと閉じられているというのに、うつくしいものだけを今目にしていると言ったように、たのしげにわらっていた。両手を広げ、鳥のように。もうすぐここから飛び立って消えてしまう前の、刹那のかがやき。

 公園で歌う奈保美の輪郭に、ゆびさきが吸い込まれるようだった。このまま陽光に彼女の輪郭は溶けて消えていってしまうのではないか。線を繋げては止め、繋げては止めて。

 そうしてできた一枚の絵は、これまで描いたどんな奈保美のクロッキーよりも満足の行く出来になった。

 水をふくんだ冷えた風が前髪をゆらす。俺はポケットにスケッチブックと鉛筆をしまうと、踊る奈保美をしばらくみつめて、ゆっくりと秋に染まる公園を後にした。