高校生のころ、俺の放課後の過ごし方は、大抵アトリエで絵を描くことだった。
授業はまったく耳に入らなかったが、成績は良かった。予習復習をちゃんとしていたからかもしれない。授業中に眠っていることは、あまりなかったと思う。ただ、教師の声や、黒板の文字は、ぼやけて何もからだに入ってこなかった。透明な干物が、左から右へ抜けてゆくような感覚だった。
絵のことばかり考えていた。放課後に、アトリエでどんな絵を描こう。今日のクロッキーやデッサンは、昨日よりどれだけ上達したか。あと何ページ俺のスケッチブックの紙は残っているか。今日は何色を使うか。週末、画材屋に友達と絵の具を買いに行こうか。あとどれだけ、好きな絵が描ける自由な時間が残されているか。
あのころのことを思い出せと言われても、放課後以外の記憶はおぼろだ。淡い桜や、夏空の濃い青、銀杏の目が覚めるような黄を、右手で顎を支えながら、教室の硝子窓越しにぼんやり眺めてばかりいたので、校舎の外の色彩ばかり、記憶に残っている。
俺たちがアトリエと呼んでいた場所は、学校の外にあった。
美術予備校「くれない」。そこが放課後の居場所だった。
二年の初夏までは、学校の美術室に寄って絵を描いていたが、夏が深まり、息をするのもつらくなった暑い八月、俺の居場所は「くれない」のアトリエになった。美大受験のためのデッサンを、本格的に始めることになったからだ。
「くれない」に集まる学生は、母校と他校の学生が入り混じっていた。
中でも、母校から来ていた西岡と鶴間と、3人でよくつるんでいた。
西岡は、高校のクラスは一度も被ることはなかったが、同じ美術部員として、1年生の頃から時間を共にしていた。
鶴間は、クラスが2年生と3年生で2回被ったが、部活は美術部ではなく吹奏楽部だった。個人で絵を描くのが元々すきだったらしく、部活は小学生の時から続けている音楽系の部活に入りたかったらしい。
「くれない」では授業以外で、よく3人で時間を合わせてクロッキーやデッサンに励んでいた。真面目にデッサンに励んでいた時もあったが、他にひとがいないときや、3人で固まって座っているときは、大抵ふざけあっていた。お互いの絵を過度に褒めあったり、いちゃもんをつけたり。まあ、たのしかった。
特に西岡と鶴間のふたりは、俺より性格のあかるさがひとしく、気が合ったようで、よくくだらないエロ話で盛りあがっていた。
俺はそれをBGMにしながら絵を描いているときが多かった。
あの日も、そんなふうにふざけて始まった。
曇り硝子の窓が、アトリエの右側の壁全体を覆っていて、昼はあかりをつけなくても、部屋全体に窓を通して生まれた淡いひかりが広がっていた。ゆらゆらとまばらにひかりを散らして、こちらから見やる外の景色はぼやけており、印象派の風景画のようにうつっていた。そこにカーテンの存在があったか否か、あまり覚えていない。剥き出しのでかいひかりの束が、一方的に部屋を侵食していたことだけが、脳のすみを焦がしていた。
西岡と鶴間が椅子を並べて、下履きから靴下を脱いだ片足を出して、寄り添わせていた。窓を突き抜けた陽光に、裸足のくるぶしが、白く浮きあがっていた。
「CかD」
西岡がすっとあげた右足の指を、ぎゅっと握りしめる。
「足の摑み具合でわかんの? 昨日のAV女優のサイズ」
「何となくこれくらいじゃね」
「お前が見てるサイトの女優、あんま俺好みじゃねぇんだよな」
「ひとによって、性癖違うからなー」
西岡と鶴間のバカ話は、話すたびに拍車がかかってくる。
「まぁ、今の俺たちはエロビデオなんか見んでも、美術室に最高の女が来てくれっからなー!」
西岡の声のトーンが高くなる。
手元の鉛筆の芯が、キャンバスと擦れる、しゃりしゃりという音と重なって、俺の耳を流れてゆく。
「なっ、春ちゃんもそう思うだろ?」
満面の笑顔で振り返る西岡を無視して、俺はキャンバスを黒く汚し続けた。そのころの俺にとって、絵を描くことは、ものの輪郭を捉えてうつしだすことではなく、何かを削るような行為に近かった。
「……って、春一郎、聞いてねーじゃん!」
鶴間が俺に向かって吠える。西岡がこちらを振り返る少し前に、あいつらは俺に話を振ってくるな、という気配を察して、カバンからシルバーのウォークマンを取り出し、太ももの上に置き、グレーネイビーのヘッドフォンを出して、頭に被っていた。
本当は彼らの話を聞いていたのに、ずっと音楽を聴いているふりをしていた。
俺はキャンバスから鉛筆を離すと、まぶたを閉じて神妙な顔をした。かるく息を吐くと、開放感から眩暈がする。
「おめーらがくだらねぇ話で盛りあがってた一時間で、俺のほうは名画完成しました」
足で床を蹴るようにして背筋を伸ばし、キャンバスから、からだを離す。滞っていた血が、息を吹き返して、全身をふたたびゆるやかに巡り始めた。
西岡と鶴間が両隣から顔を寄せ、俺のキャンバスに見入ってくる。
「……うまっ!」
目を見開き、ためて同時に声を重ねた。
アトリエにふたりの声が重なり、反響する。
俺のキャンバスに描いたのは、騎乗位で女と男がセックスしている絵だった。資料を見ないで描いたのだが、デッサンが崩れずに描けていた。昨日見たAVの一場面を記憶から起こして、そのままゆびさきに出力する。そういうことが、俺の中で自然にできていた。
「題名『ちんちんとおっぱい』。作・辻本春一郎」
落ち着いた声で言い、まぶたを閉じて、ゆびに挟んでいた鉛筆をくるりと一回転させた。ふざけるときも、俺はすかした態度をとっていた。だが、絵を描くたびにふたりが褒めてくれるのが内心うれしく、誇らしくもあった。
「すげー! 辻本画伯! さっすが、ジョン・コナーカットは違うねえ」
「来年、芸大一発合格も夢じゃねぇよ。 身長は160センチしかねぇのに!」
「なぁ、俺の手持ちのAVと等価交換でその絵ぇくれよ。 俺が描いたって課題で使わしてもらいますー」
「俺がチビだって触れてきたゲス野郎に、俺の絵ぇやるかよ」
高校生のころの俺は、身長が低かった。そして「ターミネーター2」のエドワード・ファーロングの髪型とそっくりだったので、西岡のような映画オタクには「ジョン・コナーだ!」とからかわれた。それを自分ではあまり気にしていなかったが、仲間内ではいじりのネタにされがちだったので、その都度反抗した態度を見せて、お望みの返しを出してやっていた。
ふたりが馬鹿話して、話を振ってきて俺が無視して、西岡がキレる。これがいつもの定番だった。そこに不快はなく、むしろ気を遣って反応しなくてよくて、俺にとってはこのふたりとの関係が、他のやつといるより居心地良かった。水と空気がそこにあるように、当たり前にある風景だった。
ただ、このふたりの悪いところは、他にもひとのいるアトリエで、ところ構わずエロ話をすることだった。俺たちは三人でつるんでいることが多かったので、他の生徒と絡むことはあまりなかったが、女性からはいやな視線を送られることもあった。あまりにも視線の圧が強かったら、声を低くしてちいさく話したりしていた。
そんな、日常。
激昂することも、深く落ち込むこともない。感情にふりまわされなくてよい平坦な日々。これが平行に続くだけだと思っていたし、特に劇的な何かを求めることもなかった。
恋をしたことはあった。学内と学外で。
エロ話してる童貞の友達よりも、俺のほうが経験は豊富だった。
身長は低かったが、顔は整っていると言われることが多かったので、女は途切れ途切れだけれど、そばにいた。それを友達に話したことはなかった。どういう反応をされるのかわからず、面倒くさかったからだ。嫌悪されるのか、好奇心をもたれて、根掘り葉掘り聞かれるのか。だから言わないのが吉だと思っていたが、何となく友達にはすかしてて適当に遊んでるやつだと思われていたと思う。中学・高校合わせて、何人かと付き合い、何人かと別れた。数は覚えていないが、片手で数える程度だった気がする。付き合って欲しいと言われれば付き合い、別れて欲しいと言われれば別れる。俺から相手に興味がなくなれば一方的に連絡を絶って終わったこともある。そんな恋ばかりだった。俺に好意を持ってくれた女に、相手が俺に想っているほどの、執着や興味がなかった。繋がっているより、離れているほうが、気が楽だった。短期間で相手がころころ変わり、別れれば前の女のことは微塵も思い出さなくなっていた。
現実の女はすぐに忘れるのに、女の絵を描くのは得意だった。他のモチーフよりも得意なだけで、すきだったかと言われれば素直にうなずけない程度の執着。
隣に誰もいなくなっても、絵だけが俺のそばに残り続けていた。
かたり、とアトリエの扉がひらく。廊下の薄暗い闇が、ひだまりの部屋へ侵入する。部屋に溜まったひかりが、廊下の薄闇に溶けてゆく。
ひかりがすっと縦に頬を撫でるのを感じて、俺は顔をあげた。
「くれない」の講師である、岩井先生が入ってくる。硬い髪に、白いものの混じった、五十代前半の男性。少し出た腹を、からだのサイズよりでかい、白のYシャツを纏うことで隠している。やさしいが、絵に対しては厳しい面もある、好感の持てるひとだった。西洋美術史に詳しくて、時々講義なんかもしてくれていた。
その後に続いて、すらりと背の高い女がこちらへやってきた。
それが、桐生奈保美だった。
俺たちのクラスのヌードモデル。細い肩の背後に流れる、ウェーブがかった磨いた銅のような橙の髪が、印象的で、ゆらゆら金の影をまとってゆれていた。歩くたびに、かけられた眼鏡のレンズの上を踊る光彩が変化する。年齢は二十七だと聞いていた。俺よりも、ちょうど十歳上だった。細いが、尻や胸など、出るところは、平均よりも少し、いや、かなり大きく出ている、女性らしい身体のラインをしていた。
クロッキー会が始まる合図だった。
先月の終わりに、奈保美を先生に紹介された。その時の第一印象は、眼鏡をかけた背の高い女、だった。髪が綺麗だと思った。ゆたかで艶がある。俺が今まで出会った女には無い色彩をしていた。秋。着ている服も、髪の色も、ほどこされた薄化粧も。秋のいろをした、年上の女。他の生徒には、ただ華やかなおとなの女として、あこがれの対象になっていたらしいが、俺にはそんな印象だった。
それから2週間ほど、他のモデルと交代しながら彼女をクロッキーしている。
かすかにうつむいて歩いていた奈保美がゆっくりと顔をあげた。廊下の闇をからだにまとわず、しずかなあたたかい色彩だけを持って、こちらへやってくる。
磨いた銅のような色の、ゆたかな波打つ髪。
ブラウンの、ボストン型のフレームの眼鏡。フロントだけ墨を流したように、黒が入り混じったまだらな色彩になっている。
纏っているのはブロード生地のカーキ色のワンピース。
彼女を覆うすべてが、深い秋をしていた。
こつこつと、光沢の少ないマットな素材のベージュのパンプスで、床を鳴らして歩いてくる。ゆっくりした速度だった。奈保美が歩くたび、彼女のまとう色と同じ、ゆたかな森の香りがこちらへ広がり、鼻にふれて消えてゆく。
ふざけていた西岡と鶴間は、いつの間にか姿勢正しくスツールに座っていた。そして、奈保美を中心にして、円を描いてイーゼルを置いていた。
他にもまばらに生徒がおり、みんな奈保美をみている。先ほどイーゼルに置いていたものが、キャンバスから、大きいサイズのクロッキー帳に変わる。
日向のひかりをうっすらと緑がかったレンズにうつして、かすかにうつむき、表情がよくわからなくなっていた奈保美は、顔をあげて、眼鏡のモダンを左手のゆびさきにかけて取った。一度まばたきをして真っ直ぐに視線をやる。薄黄金の肌。髪とひとしい橙のまつげが、けぶる花のように咲いて、大きなひとみを端まで覆っていた。きらきらと透明感のある琥珀色の眸はまっすぐだが、時折陰りを見せ、誰を焦点にしているのかがわからなかった。
「やべー……。今日の奈保美ちゃんも、めっちゃ美人だな」
「ウヒョー……! 相変わらずの腰・爆乳・なげぇ脚!」
「うるせぇ。黙って描けって」
隣でがやがやと騒ぐふたりを、かるく叱咤しながら、俺は奈保美のポージングの待ち時間に、癖でくわえていた鉛筆をくちびるから取った。
構えた鉛筆は、湿った感触が深緑の表面に、前歯の浅い歯型と共に、かすかに残っていた。
奈保美は岩井先生と今日のポージングについて口頭で少し打ち合わせをすると、アトリエのすみに作られた簡易な着替えスペースの中に入った。くすんだライトブルーのカーテンで区切られた、病室のベッドのパーテーションのような場所だった。
ひとしきり経つと、カーテンが割れて奈保美がふたたび現れた。胸までを隠した、マルーンのジャンプスーツを着て。
生徒たちのイーゼルに囲まれた円の中に立つと、うすい白の毛布の上で、右と左、交互につま先を立ててポキポキと骨を鳴らし、足を整える。首をうつむけて、髪がゆるゆると鎖骨や肩甲骨の上をすべってゆれる。剥き出しになった肩に、淡い昼のひかりと、申し訳程度に灯された照明が当たって、鈍いつやを出していた。
さっきまでの、何を考えているかわからないミステリアスな顔から、凛とした雰囲気に変化している。仕事をする女の顔だ。ジャンプスーツの布越しに、ゆたかな胸の輪郭が浮きあがっていた。乳首が、つんと立って主張しているのがわかった。
ちらりと横目で西岡と鶴間を見やると、期待に満ちた顔をしている。あからさまな若い性欲が表に出ている。そのころの淡白な俺の中には、ないものだった。
目を逸らして、ふたたび奈保美を見やる。
憂いを帯びた横顔が、今の雰囲気に似合っていた。ジャンプスーツの真ん中にあるファスナーを下ろすと、ジジジ、という音と共に、纏った布の皮が割れて、きめこまやかな素肌が、外気と複数の視線にさらされる。薄黄金色のからだが、窓からさす淡い日に照らされて、白い光沢を描く。
股から太ももにかけてゆるりとふくらんだ線。
肩甲骨の凹凸が見える肩。
上腕の線が、肘になめらかにつながり、細い肉付きのゆびさきに、テラコッタ色のネイルを塗った、まるい爪。綺麗に毛の剃られた脇。
そこから、ゆるやかに流れる脇腹。
右上に、果実のように実った双丘が、確かな重みを持って存在している。
頂点には、髪に似た杏色のやわらかな乳首がぷくりと浮いて、影を持ち実態をあらわしている。
その周囲には、水彩のような乳輪が、淡く広がって。
俺は奈保美のからだの部位を見ながら、それをなぞるようにクロッキー帳に輪郭を描いていた。
白だけの世界に、黒い線が生まれる。
先程まで、あんなに騒いでいた西岡と鶴間も、いつの間にか黙り、シャカシャカと奈保美を描く音だけが、アトリエにしずかに響いて重なる。
画学生たちが、皆、真剣な顔をして奈保美をみつめていた。
俺も奈保美がモデルだと、不思議と筆が進んだ。
ヌードモデルは奈保美以外にも何人かいたが、なぜか奈保美以外のモデルだと、筆の調子が悪かった。かさかさと何かに突っかかる感じがして、筆が進まない。
その時の俺が、女の裸に対して、興味がうすかったからかもしれない。今になって思えば、俺が奈保美に対して特別な感情を抱いていたのは、そのときからなのかもしれないが、当時の俺には、自分の状態がよくわかっていなかった。
なんとなく昔から、女の裸に苦手意識があった。
女が脱いだら気持ちよくしてやらなければならない。大切にしてやらなければならない。付き合ってきた女たちや、風呂あがりの家族のはだかを、気遣って見ないようにする神経の使い方に、少し疲れていたのかもしれない。
絵のモデルとしてそこに存在する奈保美は、堂々としていてうつくしかった。果物や野菜をモチーフにデッサンしたり、写真を撮ったりするのとひとしく、ただの被写体だった。
この唯一無二の被写体の輪郭を、うつしとりたいという本能が、手を動かしていた。
今日もクロッキーは終わった。
奈保美は、そばに重ねて置いていたジャンプスーツをふたたび身に纏うと、「ありがとうございました」と、俺たちに向かって頭を下げた。
ふたたび、アトリエのすみのカーテンの中へと入ってゆく。
衣擦れの音がして、着替え始めたのだということが伝わる。
生徒たちは、岩井先生に礼の挨拶をして、その場を片付けてアトリエを去ってゆく。
先生も別件があるとかで、アトリエを去っていった。
西岡と鶴間と俺は、最後までアトリエに残っていた。
先生は、俺たちがいるあいだは、アトリエに戻ってくることはなかった。
その日の奈保美は、着替えるのが遅かった。やっとカーテンの中から出てきたと思うと、鞄をひとつの机の上に乗せて、整理をしていた。
いつの間にか、しろい陽光は溶け、茜がにじんでいる。
「はー。今日の奈保美ちゃんのプロポーションも、さいっこうだった」
奈保美に聞こえない距離と音量で、西岡と鶴間の馬鹿話はまた再開される。
奈保美はそのあいだ、着た服をいじっていた。腰に手を当て、細いリボンできゅっと絞ると、ウエストのくびれがあらわになった。
リボンから離れる刹那、彼女のゆびを長く感じた。
そのゆびの肉と爪を凝視しながら、俺の横で、またさやさやと男たちの声が流れていた。
「なっ! 春一郎もそう思うだろ!」
俺を振り返って鶴間が問うたが、俺は鞄の中に隠していたヘッドフォンを、いつものように頭に被って、音楽を聴いていた。俺のちいさい頭には、いささかでかいヘッドフォンは、頭を覆う防具のようになる。
「__って、春一郎、また聞いてねーじゃん!」
西岡がでかい声で、ツッコミを入れてくる。
聴いていた曲は、ユーチューブでみつけた「切ないピアノの曲選集」だったので、ひとの声がかき消されるほどの音量ではなかった。西岡たちの声は、凛としたピアノ音に重なって聞こえていた。
俺はヘッドフォンを両耳から外した。
一度音楽を頭に入れて、聴き終わると、あたりの空気が澄んで聞こえる。
まぶたを閉じる。かるく鼻から息を吐く。
「……奈保美さんと、ちょっと話したいことあるからさ。お前ら先帰ってもらってもいいかな」
「へっ……?」
うきうきとたのしげだった西岡と鶴間が、目を点にして俺を見やる。漫画のキャラクターみたいに、まるく口を開けている。ふたりはさっと後ろを向いて背を屈めると、顔を寄せ、小声でごにょごにょ喋りはじめた。
「マジかよ、春ちゃん。奈保美ちゃんに興味ないとか言っといて〜」
「俺らより、数億年もやり手じゃん!」
たのしそうだった。男と女がふたりになると、すぐ恋愛に直結する単細胞さ。
声は全部聞こえていたが、相手にはせず、無視した。
ふたりは、満面の笑顔でこちらを振り返った。鼻の上にうっすら灰色の影ができている。
「わっかりました〜! たのしんできてくだすぁい!」
背筋を伸ばし、足をそろえ、額に手を当て、俺に向かってわざとらしく敬礼のポーズを向けてくる。くちもとがにやけて、不自然に釣りあがっている。思春期の男子の頭の中なんて桃色で溶けている。
俺だけが青く褪めていた。不自然で歪だった。
ふたりでドアに向かって歩き、廊下に出ていった。
ドアを閉める瞬間、俺に向かって鶴間が腕を突き出して、右手の親指を突き立てるのが見えた。「健闘を祈る……」というちいさいつぶやきも聞こえた気がする。
ふたりが完全に消えると、俺はゆっくりと振り返ると、奈保美のほうを見やった。
奈保美はふしぎそうに腕を組んで俺のほうを見ていた。先ほど誰に向けられているのかわからなかった瞳の焦点が、俺に向かっている。大きな琥珀の瞳にじっとみつめられていると、どこかからだの奥の部分を射抜かれているような気分になった。ふしぎといやな気持ちにはならない。さらさらと肌を撫でられているむずがゆさだった。
奈保美がまばたくと、ちらちらと瞳の奥の黄金がひかって消えてゆく。最後は長いまつげを伏せて、俺の様子を伺っていた。
俺はかるく息を吐き、顔をあげると、真顔で奈保美と向き合った。
「あんたさぁ。俺にだけマ○コ見えるような角度で時々ポージングしてない? マジでキモいんだけど。先生にチクってほしいの?」
もやもやとひとりで悩んでいたことだった。
単刀直入に聞いて、やっと本人に確信を突いた。このまま卒業まで無視していてもよかったが、もう耐えられなかった。
奈保美は、絶妙に角度を変えながら俺にだけ性器をみせていた。それも、かなりときどき。童貞ではなかったので、女の性器を見たことがなかったわけではなかったが、そういう場でも関係でもない、十も年上の女が、性器をみせてくることに動揺したし、不快もあった。俺は別に性器まで描きたくて、クロッキー会に参加しているわけじゃねぇ。目的も理由もねぇんだったら、ただのセクハラじゃねえか。
奈保美はうすく口をあけた。頬を叩かれた子供のようにあどけない顔をする。数回まばたきをすると、壊れたようにからだを曲げてわらい始めた。
「は?」
息をするのもくるしいというように、げらげら大きな口を開けてわらい続ける奈保美の姿は、先ほどまでの神秘的な印象とは別人だった。
俺は驚いて目を瞠り、彼女のくねる様を見ていた。
天を仰いで、ころころとわらい続けていた奈保美は、やがて引き潮が訪れるように、しずかになっていった。
最後のひとわらいをおさめると、「あーおかしい」と、鈴が鳴るような声でささやいた。目尻に浮いたなみだを、長い人差しゆびでそっと拭った。
「……あんたそんなキャラだったん」
俺は、あきれ顔で奈保美をにらみながら、ちいさくつぶやいた。
「バレてたんだ」
奈保美は、うつむいてくすりと笑うと、腰紐をゆるめ、纏っていたワンピースを肌からすべらせ、はらりと脱いだ。
ふたたび薄黄金のはだかが、アトリエの中心にあらわれる。腰や足首のなめらかな曲線が、曇り硝子から差し込むひかりに浮き彫りにされ、しろい輪郭を描いていた。
悪魔の果実のように、ゆたかに実った両胸の上に乗った、ほどよく尖った乳首が、俺を指している。下着着てなかったのかよ、と内心唖然とした。
奈保美は子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「今誰もいないから、じっくり見なよ」
俺はさっと目を伏せた。
「なんでこんなことしてんの?」
「ははっ、当ててみなよ」
たのしげだが、落ち着いた口調。くだけた言い方で、今までひとこともしゃべらなかった寡黙なイメージとかけ離れていた。
俺は左斜め上を見やってしばし逡巡した。そしてまた奈保美に焦点を戻す。
「……どすけべ女が、いたいけな男子高校生もてあそんで、暇つぶししようとしてるって感じ?」
真顔で答える俺に、奈保美はけらけらと愉快に笑った。髪のひとふさを耳にかけて、ずれた眼鏡を掛け直す。腹に手を当て、背をかがめた。先ほどより彼女の顔が近づいたようだった。まぶたに塗られたオレンジのアイシャドウとモスグリーンのアイラインが、雨に濡れたようにひらりときらめいた。
「はははっ。面白いこと言うんだなぁ、君は。ごめん。名前尋ねてもいいかい?」
「最初の自己紹介で言わなかったっけ」
俺は、そっけなく答え、まぶたを閉じて目を逸らした。
普通、ヌードモデルとクロッキー参加者の間に、コミュニケーションはあまりない。何人か日によって交代でモデルが変わるので、ひとりのモデルだけが長くひとつのクラスに居続けるということが、あまりないからだ。
だが「くれない」はそこが変わっていて、何人か固定されたモデルが、ひとつのクラスに、一定期間、通いで来てくれることになっていた。なので、はじめて奈保美がうちのクラスにやってきた日に、全員名前だけの簡単な自己紹介をした。
半月の形に笑んだ目を見ないように、危険な香りのただよう彼女のペースに乗せられないように、俺はまぶたを閉じたまましずかに座っていた。
「ごめんごめん。他人の名前を覚えるのは苦手でね」
言いながら剥いでいたワンピースをさっと肩に羽織る。申し訳ないと思っているのか、口先だけで言っているのかよくわからない態度だった。ずっと遊んでいるような、たのしげな態度を取られていることに、いらいらしていた。眉を寄せ、かるく舌打ちすると、イーゼルを爪先で小突いた。
「……辻本春一郎」
自分でも驚くほど、あきらかに機嫌の悪い声が出た。いつもの俺の声よりワントーン低い。
奈保美はそれを聞いても、余裕の表情でまつげにひかりを溜めながら、腕を組んで俺を見下ろすだけだった。
「へぇ、春一郎くん。いい名前だね。『春』が名前に入っている男性の名は、おしゃれだ」
「……下の名前で呼ぶのかよ」
「いいじゃないか。ここの他の子たちだって私のことを名前で呼ぶ。私は、君のことが気になっている。君も、私のことが気になっているんだろ?」
俺は伏せていたまぶたをあげた。奈保美の眸が、先ほどより大きく見える。琥珀は水をたたえ、ゆらゆらとゆれて、俺のからだの奥を捉えようとしていた。いつの間にか、俺のほうも奈保美の琥珀の奥に宿るともしびに引き寄せられて、顔をあげて、彼女をまっすぐに見ていた。本能的なものだった。
「私がこのヌードモデルを任された短いみじかい間にさ。当ててみなよ。私がなんで君を気に入って、君にだけ秘密の花園を見せるのか」
奈保美はすっと背筋を伸ばし、硬く腕を組んだ。背がより高く見える。この女がモデルだということを実感させられる、自信のあふれる立ち姿。頭のてっぺんから足の爪の先まで、ひとつの清らかな水流がながれてゆくようだ。
腕の上に乗せられた胸が、圧迫されてさらに大きく主張して迫っている。
挑むような笑顔で俺に言った。
透明な眼鏡のレンズが、真白いひかりを集め、溶けかけた氷の破片のようにゆらいだ。
俺はゆびさきで動かしていた鉛筆の動きを止めると、乾いたみじかい息を吐いた。奈保美から視線を逸らし、クロッキー帳に向ける。
白い紙には、先ほど俺が描いた奈保美のクロッキーが描かれていて、そこにうつる彼女は、神聖な雰囲気があり、目の前の変な女とは、別人に見えた。
白と黒の世界。
俺がアトリエからうつしとった同じ女。
奈保美が言っている、「気になっている」という点は確かに合っていた。俺は奈保美のことが、気になっている。他のモデルよりも。それは、俺が描いた奈保美なのか、目の前にいる変な女なのか。
中指と人差しゆびに挟んでいた鉛筆を持ちあげ、ゆっくりとくちびるに咥えた。
まぶたを閉じる。そこに広がる赤い血の色をした暗闇の中に、奈保美のはだかが浮かんでいた。
どこかわからないところを見て、微笑んでいる。
__俺じゃないどこかを見て。
「変なしゃべり方。何考えてんのかわかんねぇし。頭おかしいんじゃねぇの……。まぁでも」
俺は鉛筆をくちびるから離し、目の前の奈保美をまっすぐににらんだ。
「おもしれぇ女」
奈保美に聞こえるか聞こえないかの距離で、小声でつぶやいた。
奈保美はまた壊れたようにわらった。頭がゆれると、橙色の髪が、薄緑のひかりの中でくすみ、彼女の背後で人魚の尾鰭のように、ひらひらと泳いだ。
授業はまったく耳に入らなかったが、成績は良かった。予習復習をちゃんとしていたからかもしれない。授業中に眠っていることは、あまりなかったと思う。ただ、教師の声や、黒板の文字は、ぼやけて何もからだに入ってこなかった。透明な干物が、左から右へ抜けてゆくような感覚だった。
絵のことばかり考えていた。放課後に、アトリエでどんな絵を描こう。今日のクロッキーやデッサンは、昨日よりどれだけ上達したか。あと何ページ俺のスケッチブックの紙は残っているか。今日は何色を使うか。週末、画材屋に友達と絵の具を買いに行こうか。あとどれだけ、好きな絵が描ける自由な時間が残されているか。
あのころのことを思い出せと言われても、放課後以外の記憶はおぼろだ。淡い桜や、夏空の濃い青、銀杏の目が覚めるような黄を、右手で顎を支えながら、教室の硝子窓越しにぼんやり眺めてばかりいたので、校舎の外の色彩ばかり、記憶に残っている。
俺たちがアトリエと呼んでいた場所は、学校の外にあった。
美術予備校「くれない」。そこが放課後の居場所だった。
二年の初夏までは、学校の美術室に寄って絵を描いていたが、夏が深まり、息をするのもつらくなった暑い八月、俺の居場所は「くれない」のアトリエになった。美大受験のためのデッサンを、本格的に始めることになったからだ。
「くれない」に集まる学生は、母校と他校の学生が入り混じっていた。
中でも、母校から来ていた西岡と鶴間と、3人でよくつるんでいた。
西岡は、高校のクラスは一度も被ることはなかったが、同じ美術部員として、1年生の頃から時間を共にしていた。
鶴間は、クラスが2年生と3年生で2回被ったが、部活は美術部ではなく吹奏楽部だった。個人で絵を描くのが元々すきだったらしく、部活は小学生の時から続けている音楽系の部活に入りたかったらしい。
「くれない」では授業以外で、よく3人で時間を合わせてクロッキーやデッサンに励んでいた。真面目にデッサンに励んでいた時もあったが、他にひとがいないときや、3人で固まって座っているときは、大抵ふざけあっていた。お互いの絵を過度に褒めあったり、いちゃもんをつけたり。まあ、たのしかった。
特に西岡と鶴間のふたりは、俺より性格のあかるさがひとしく、気が合ったようで、よくくだらないエロ話で盛りあがっていた。
俺はそれをBGMにしながら絵を描いているときが多かった。
あの日も、そんなふうにふざけて始まった。
曇り硝子の窓が、アトリエの右側の壁全体を覆っていて、昼はあかりをつけなくても、部屋全体に窓を通して生まれた淡いひかりが広がっていた。ゆらゆらとまばらにひかりを散らして、こちらから見やる外の景色はぼやけており、印象派の風景画のようにうつっていた。そこにカーテンの存在があったか否か、あまり覚えていない。剥き出しのでかいひかりの束が、一方的に部屋を侵食していたことだけが、脳のすみを焦がしていた。
西岡と鶴間が椅子を並べて、下履きから靴下を脱いだ片足を出して、寄り添わせていた。窓を突き抜けた陽光に、裸足のくるぶしが、白く浮きあがっていた。
「CかD」
西岡がすっとあげた右足の指を、ぎゅっと握りしめる。
「足の摑み具合でわかんの? 昨日のAV女優のサイズ」
「何となくこれくらいじゃね」
「お前が見てるサイトの女優、あんま俺好みじゃねぇんだよな」
「ひとによって、性癖違うからなー」
西岡と鶴間のバカ話は、話すたびに拍車がかかってくる。
「まぁ、今の俺たちはエロビデオなんか見んでも、美術室に最高の女が来てくれっからなー!」
西岡の声のトーンが高くなる。
手元の鉛筆の芯が、キャンバスと擦れる、しゃりしゃりという音と重なって、俺の耳を流れてゆく。
「なっ、春ちゃんもそう思うだろ?」
満面の笑顔で振り返る西岡を無視して、俺はキャンバスを黒く汚し続けた。そのころの俺にとって、絵を描くことは、ものの輪郭を捉えてうつしだすことではなく、何かを削るような行為に近かった。
「……って、春一郎、聞いてねーじゃん!」
鶴間が俺に向かって吠える。西岡がこちらを振り返る少し前に、あいつらは俺に話を振ってくるな、という気配を察して、カバンからシルバーのウォークマンを取り出し、太ももの上に置き、グレーネイビーのヘッドフォンを出して、頭に被っていた。
本当は彼らの話を聞いていたのに、ずっと音楽を聴いているふりをしていた。
俺はキャンバスから鉛筆を離すと、まぶたを閉じて神妙な顔をした。かるく息を吐くと、開放感から眩暈がする。
「おめーらがくだらねぇ話で盛りあがってた一時間で、俺のほうは名画完成しました」
足で床を蹴るようにして背筋を伸ばし、キャンバスから、からだを離す。滞っていた血が、息を吹き返して、全身をふたたびゆるやかに巡り始めた。
西岡と鶴間が両隣から顔を寄せ、俺のキャンバスに見入ってくる。
「……うまっ!」
目を見開き、ためて同時に声を重ねた。
アトリエにふたりの声が重なり、反響する。
俺のキャンバスに描いたのは、騎乗位で女と男がセックスしている絵だった。資料を見ないで描いたのだが、デッサンが崩れずに描けていた。昨日見たAVの一場面を記憶から起こして、そのままゆびさきに出力する。そういうことが、俺の中で自然にできていた。
「題名『ちんちんとおっぱい』。作・辻本春一郎」
落ち着いた声で言い、まぶたを閉じて、ゆびに挟んでいた鉛筆をくるりと一回転させた。ふざけるときも、俺はすかした態度をとっていた。だが、絵を描くたびにふたりが褒めてくれるのが内心うれしく、誇らしくもあった。
「すげー! 辻本画伯! さっすが、ジョン・コナーカットは違うねえ」
「来年、芸大一発合格も夢じゃねぇよ。 身長は160センチしかねぇのに!」
「なぁ、俺の手持ちのAVと等価交換でその絵ぇくれよ。 俺が描いたって課題で使わしてもらいますー」
「俺がチビだって触れてきたゲス野郎に、俺の絵ぇやるかよ」
高校生のころの俺は、身長が低かった。そして「ターミネーター2」のエドワード・ファーロングの髪型とそっくりだったので、西岡のような映画オタクには「ジョン・コナーだ!」とからかわれた。それを自分ではあまり気にしていなかったが、仲間内ではいじりのネタにされがちだったので、その都度反抗した態度を見せて、お望みの返しを出してやっていた。
ふたりが馬鹿話して、話を振ってきて俺が無視して、西岡がキレる。これがいつもの定番だった。そこに不快はなく、むしろ気を遣って反応しなくてよくて、俺にとってはこのふたりとの関係が、他のやつといるより居心地良かった。水と空気がそこにあるように、当たり前にある風景だった。
ただ、このふたりの悪いところは、他にもひとのいるアトリエで、ところ構わずエロ話をすることだった。俺たちは三人でつるんでいることが多かったので、他の生徒と絡むことはあまりなかったが、女性からはいやな視線を送られることもあった。あまりにも視線の圧が強かったら、声を低くしてちいさく話したりしていた。
そんな、日常。
激昂することも、深く落ち込むこともない。感情にふりまわされなくてよい平坦な日々。これが平行に続くだけだと思っていたし、特に劇的な何かを求めることもなかった。
恋をしたことはあった。学内と学外で。
エロ話してる童貞の友達よりも、俺のほうが経験は豊富だった。
身長は低かったが、顔は整っていると言われることが多かったので、女は途切れ途切れだけれど、そばにいた。それを友達に話したことはなかった。どういう反応をされるのかわからず、面倒くさかったからだ。嫌悪されるのか、好奇心をもたれて、根掘り葉掘り聞かれるのか。だから言わないのが吉だと思っていたが、何となく友達にはすかしてて適当に遊んでるやつだと思われていたと思う。中学・高校合わせて、何人かと付き合い、何人かと別れた。数は覚えていないが、片手で数える程度だった気がする。付き合って欲しいと言われれば付き合い、別れて欲しいと言われれば別れる。俺から相手に興味がなくなれば一方的に連絡を絶って終わったこともある。そんな恋ばかりだった。俺に好意を持ってくれた女に、相手が俺に想っているほどの、執着や興味がなかった。繋がっているより、離れているほうが、気が楽だった。短期間で相手がころころ変わり、別れれば前の女のことは微塵も思い出さなくなっていた。
現実の女はすぐに忘れるのに、女の絵を描くのは得意だった。他のモチーフよりも得意なだけで、すきだったかと言われれば素直にうなずけない程度の執着。
隣に誰もいなくなっても、絵だけが俺のそばに残り続けていた。
かたり、とアトリエの扉がひらく。廊下の薄暗い闇が、ひだまりの部屋へ侵入する。部屋に溜まったひかりが、廊下の薄闇に溶けてゆく。
ひかりがすっと縦に頬を撫でるのを感じて、俺は顔をあげた。
「くれない」の講師である、岩井先生が入ってくる。硬い髪に、白いものの混じった、五十代前半の男性。少し出た腹を、からだのサイズよりでかい、白のYシャツを纏うことで隠している。やさしいが、絵に対しては厳しい面もある、好感の持てるひとだった。西洋美術史に詳しくて、時々講義なんかもしてくれていた。
その後に続いて、すらりと背の高い女がこちらへやってきた。
それが、桐生奈保美だった。
俺たちのクラスのヌードモデル。細い肩の背後に流れる、ウェーブがかった磨いた銅のような橙の髪が、印象的で、ゆらゆら金の影をまとってゆれていた。歩くたびに、かけられた眼鏡のレンズの上を踊る光彩が変化する。年齢は二十七だと聞いていた。俺よりも、ちょうど十歳上だった。細いが、尻や胸など、出るところは、平均よりも少し、いや、かなり大きく出ている、女性らしい身体のラインをしていた。
クロッキー会が始まる合図だった。
先月の終わりに、奈保美を先生に紹介された。その時の第一印象は、眼鏡をかけた背の高い女、だった。髪が綺麗だと思った。ゆたかで艶がある。俺が今まで出会った女には無い色彩をしていた。秋。着ている服も、髪の色も、ほどこされた薄化粧も。秋のいろをした、年上の女。他の生徒には、ただ華やかなおとなの女として、あこがれの対象になっていたらしいが、俺にはそんな印象だった。
それから2週間ほど、他のモデルと交代しながら彼女をクロッキーしている。
かすかにうつむいて歩いていた奈保美がゆっくりと顔をあげた。廊下の闇をからだにまとわず、しずかなあたたかい色彩だけを持って、こちらへやってくる。
磨いた銅のような色の、ゆたかな波打つ髪。
ブラウンの、ボストン型のフレームの眼鏡。フロントだけ墨を流したように、黒が入り混じったまだらな色彩になっている。
纏っているのはブロード生地のカーキ色のワンピース。
彼女を覆うすべてが、深い秋をしていた。
こつこつと、光沢の少ないマットな素材のベージュのパンプスで、床を鳴らして歩いてくる。ゆっくりした速度だった。奈保美が歩くたび、彼女のまとう色と同じ、ゆたかな森の香りがこちらへ広がり、鼻にふれて消えてゆく。
ふざけていた西岡と鶴間は、いつの間にか姿勢正しくスツールに座っていた。そして、奈保美を中心にして、円を描いてイーゼルを置いていた。
他にもまばらに生徒がおり、みんな奈保美をみている。先ほどイーゼルに置いていたものが、キャンバスから、大きいサイズのクロッキー帳に変わる。
日向のひかりをうっすらと緑がかったレンズにうつして、かすかにうつむき、表情がよくわからなくなっていた奈保美は、顔をあげて、眼鏡のモダンを左手のゆびさきにかけて取った。一度まばたきをして真っ直ぐに視線をやる。薄黄金の肌。髪とひとしい橙のまつげが、けぶる花のように咲いて、大きなひとみを端まで覆っていた。きらきらと透明感のある琥珀色の眸はまっすぐだが、時折陰りを見せ、誰を焦点にしているのかがわからなかった。
「やべー……。今日の奈保美ちゃんも、めっちゃ美人だな」
「ウヒョー……! 相変わらずの腰・爆乳・なげぇ脚!」
「うるせぇ。黙って描けって」
隣でがやがやと騒ぐふたりを、かるく叱咤しながら、俺は奈保美のポージングの待ち時間に、癖でくわえていた鉛筆をくちびるから取った。
構えた鉛筆は、湿った感触が深緑の表面に、前歯の浅い歯型と共に、かすかに残っていた。
奈保美は岩井先生と今日のポージングについて口頭で少し打ち合わせをすると、アトリエのすみに作られた簡易な着替えスペースの中に入った。くすんだライトブルーのカーテンで区切られた、病室のベッドのパーテーションのような場所だった。
ひとしきり経つと、カーテンが割れて奈保美がふたたび現れた。胸までを隠した、マルーンのジャンプスーツを着て。
生徒たちのイーゼルに囲まれた円の中に立つと、うすい白の毛布の上で、右と左、交互につま先を立ててポキポキと骨を鳴らし、足を整える。首をうつむけて、髪がゆるゆると鎖骨や肩甲骨の上をすべってゆれる。剥き出しになった肩に、淡い昼のひかりと、申し訳程度に灯された照明が当たって、鈍いつやを出していた。
さっきまでの、何を考えているかわからないミステリアスな顔から、凛とした雰囲気に変化している。仕事をする女の顔だ。ジャンプスーツの布越しに、ゆたかな胸の輪郭が浮きあがっていた。乳首が、つんと立って主張しているのがわかった。
ちらりと横目で西岡と鶴間を見やると、期待に満ちた顔をしている。あからさまな若い性欲が表に出ている。そのころの淡白な俺の中には、ないものだった。
目を逸らして、ふたたび奈保美を見やる。
憂いを帯びた横顔が、今の雰囲気に似合っていた。ジャンプスーツの真ん中にあるファスナーを下ろすと、ジジジ、という音と共に、纏った布の皮が割れて、きめこまやかな素肌が、外気と複数の視線にさらされる。薄黄金色のからだが、窓からさす淡い日に照らされて、白い光沢を描く。
股から太ももにかけてゆるりとふくらんだ線。
肩甲骨の凹凸が見える肩。
上腕の線が、肘になめらかにつながり、細い肉付きのゆびさきに、テラコッタ色のネイルを塗った、まるい爪。綺麗に毛の剃られた脇。
そこから、ゆるやかに流れる脇腹。
右上に、果実のように実った双丘が、確かな重みを持って存在している。
頂点には、髪に似た杏色のやわらかな乳首がぷくりと浮いて、影を持ち実態をあらわしている。
その周囲には、水彩のような乳輪が、淡く広がって。
俺は奈保美のからだの部位を見ながら、それをなぞるようにクロッキー帳に輪郭を描いていた。
白だけの世界に、黒い線が生まれる。
先程まで、あんなに騒いでいた西岡と鶴間も、いつの間にか黙り、シャカシャカと奈保美を描く音だけが、アトリエにしずかに響いて重なる。
画学生たちが、皆、真剣な顔をして奈保美をみつめていた。
俺も奈保美がモデルだと、不思議と筆が進んだ。
ヌードモデルは奈保美以外にも何人かいたが、なぜか奈保美以外のモデルだと、筆の調子が悪かった。かさかさと何かに突っかかる感じがして、筆が進まない。
その時の俺が、女の裸に対して、興味がうすかったからかもしれない。今になって思えば、俺が奈保美に対して特別な感情を抱いていたのは、そのときからなのかもしれないが、当時の俺には、自分の状態がよくわかっていなかった。
なんとなく昔から、女の裸に苦手意識があった。
女が脱いだら気持ちよくしてやらなければならない。大切にしてやらなければならない。付き合ってきた女たちや、風呂あがりの家族のはだかを、気遣って見ないようにする神経の使い方に、少し疲れていたのかもしれない。
絵のモデルとしてそこに存在する奈保美は、堂々としていてうつくしかった。果物や野菜をモチーフにデッサンしたり、写真を撮ったりするのとひとしく、ただの被写体だった。
この唯一無二の被写体の輪郭を、うつしとりたいという本能が、手を動かしていた。
今日もクロッキーは終わった。
奈保美は、そばに重ねて置いていたジャンプスーツをふたたび身に纏うと、「ありがとうございました」と、俺たちに向かって頭を下げた。
ふたたび、アトリエのすみのカーテンの中へと入ってゆく。
衣擦れの音がして、着替え始めたのだということが伝わる。
生徒たちは、岩井先生に礼の挨拶をして、その場を片付けてアトリエを去ってゆく。
先生も別件があるとかで、アトリエを去っていった。
西岡と鶴間と俺は、最後までアトリエに残っていた。
先生は、俺たちがいるあいだは、アトリエに戻ってくることはなかった。
その日の奈保美は、着替えるのが遅かった。やっとカーテンの中から出てきたと思うと、鞄をひとつの机の上に乗せて、整理をしていた。
いつの間にか、しろい陽光は溶け、茜がにじんでいる。
「はー。今日の奈保美ちゃんのプロポーションも、さいっこうだった」
奈保美に聞こえない距離と音量で、西岡と鶴間の馬鹿話はまた再開される。
奈保美はそのあいだ、着た服をいじっていた。腰に手を当て、細いリボンできゅっと絞ると、ウエストのくびれがあらわになった。
リボンから離れる刹那、彼女のゆびを長く感じた。
そのゆびの肉と爪を凝視しながら、俺の横で、またさやさやと男たちの声が流れていた。
「なっ! 春一郎もそう思うだろ!」
俺を振り返って鶴間が問うたが、俺は鞄の中に隠していたヘッドフォンを、いつものように頭に被って、音楽を聴いていた。俺のちいさい頭には、いささかでかいヘッドフォンは、頭を覆う防具のようになる。
「__って、春一郎、また聞いてねーじゃん!」
西岡がでかい声で、ツッコミを入れてくる。
聴いていた曲は、ユーチューブでみつけた「切ないピアノの曲選集」だったので、ひとの声がかき消されるほどの音量ではなかった。西岡たちの声は、凛としたピアノ音に重なって聞こえていた。
俺はヘッドフォンを両耳から外した。
一度音楽を頭に入れて、聴き終わると、あたりの空気が澄んで聞こえる。
まぶたを閉じる。かるく鼻から息を吐く。
「……奈保美さんと、ちょっと話したいことあるからさ。お前ら先帰ってもらってもいいかな」
「へっ……?」
うきうきとたのしげだった西岡と鶴間が、目を点にして俺を見やる。漫画のキャラクターみたいに、まるく口を開けている。ふたりはさっと後ろを向いて背を屈めると、顔を寄せ、小声でごにょごにょ喋りはじめた。
「マジかよ、春ちゃん。奈保美ちゃんに興味ないとか言っといて〜」
「俺らより、数億年もやり手じゃん!」
たのしそうだった。男と女がふたりになると、すぐ恋愛に直結する単細胞さ。
声は全部聞こえていたが、相手にはせず、無視した。
ふたりは、満面の笑顔でこちらを振り返った。鼻の上にうっすら灰色の影ができている。
「わっかりました〜! たのしんできてくだすぁい!」
背筋を伸ばし、足をそろえ、額に手を当て、俺に向かってわざとらしく敬礼のポーズを向けてくる。くちもとがにやけて、不自然に釣りあがっている。思春期の男子の頭の中なんて桃色で溶けている。
俺だけが青く褪めていた。不自然で歪だった。
ふたりでドアに向かって歩き、廊下に出ていった。
ドアを閉める瞬間、俺に向かって鶴間が腕を突き出して、右手の親指を突き立てるのが見えた。「健闘を祈る……」というちいさいつぶやきも聞こえた気がする。
ふたりが完全に消えると、俺はゆっくりと振り返ると、奈保美のほうを見やった。
奈保美はふしぎそうに腕を組んで俺のほうを見ていた。先ほど誰に向けられているのかわからなかった瞳の焦点が、俺に向かっている。大きな琥珀の瞳にじっとみつめられていると、どこかからだの奥の部分を射抜かれているような気分になった。ふしぎといやな気持ちにはならない。さらさらと肌を撫でられているむずがゆさだった。
奈保美がまばたくと、ちらちらと瞳の奥の黄金がひかって消えてゆく。最後は長いまつげを伏せて、俺の様子を伺っていた。
俺はかるく息を吐き、顔をあげると、真顔で奈保美と向き合った。
「あんたさぁ。俺にだけマ○コ見えるような角度で時々ポージングしてない? マジでキモいんだけど。先生にチクってほしいの?」
もやもやとひとりで悩んでいたことだった。
単刀直入に聞いて、やっと本人に確信を突いた。このまま卒業まで無視していてもよかったが、もう耐えられなかった。
奈保美は、絶妙に角度を変えながら俺にだけ性器をみせていた。それも、かなりときどき。童貞ではなかったので、女の性器を見たことがなかったわけではなかったが、そういう場でも関係でもない、十も年上の女が、性器をみせてくることに動揺したし、不快もあった。俺は別に性器まで描きたくて、クロッキー会に参加しているわけじゃねぇ。目的も理由もねぇんだったら、ただのセクハラじゃねえか。
奈保美はうすく口をあけた。頬を叩かれた子供のようにあどけない顔をする。数回まばたきをすると、壊れたようにからだを曲げてわらい始めた。
「は?」
息をするのもくるしいというように、げらげら大きな口を開けてわらい続ける奈保美の姿は、先ほどまでの神秘的な印象とは別人だった。
俺は驚いて目を瞠り、彼女のくねる様を見ていた。
天を仰いで、ころころとわらい続けていた奈保美は、やがて引き潮が訪れるように、しずかになっていった。
最後のひとわらいをおさめると、「あーおかしい」と、鈴が鳴るような声でささやいた。目尻に浮いたなみだを、長い人差しゆびでそっと拭った。
「……あんたそんなキャラだったん」
俺は、あきれ顔で奈保美をにらみながら、ちいさくつぶやいた。
「バレてたんだ」
奈保美は、うつむいてくすりと笑うと、腰紐をゆるめ、纏っていたワンピースを肌からすべらせ、はらりと脱いだ。
ふたたび薄黄金のはだかが、アトリエの中心にあらわれる。腰や足首のなめらかな曲線が、曇り硝子から差し込むひかりに浮き彫りにされ、しろい輪郭を描いていた。
悪魔の果実のように、ゆたかに実った両胸の上に乗った、ほどよく尖った乳首が、俺を指している。下着着てなかったのかよ、と内心唖然とした。
奈保美は子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「今誰もいないから、じっくり見なよ」
俺はさっと目を伏せた。
「なんでこんなことしてんの?」
「ははっ、当ててみなよ」
たのしげだが、落ち着いた口調。くだけた言い方で、今までひとこともしゃべらなかった寡黙なイメージとかけ離れていた。
俺は左斜め上を見やってしばし逡巡した。そしてまた奈保美に焦点を戻す。
「……どすけべ女が、いたいけな男子高校生もてあそんで、暇つぶししようとしてるって感じ?」
真顔で答える俺に、奈保美はけらけらと愉快に笑った。髪のひとふさを耳にかけて、ずれた眼鏡を掛け直す。腹に手を当て、背をかがめた。先ほどより彼女の顔が近づいたようだった。まぶたに塗られたオレンジのアイシャドウとモスグリーンのアイラインが、雨に濡れたようにひらりときらめいた。
「はははっ。面白いこと言うんだなぁ、君は。ごめん。名前尋ねてもいいかい?」
「最初の自己紹介で言わなかったっけ」
俺は、そっけなく答え、まぶたを閉じて目を逸らした。
普通、ヌードモデルとクロッキー参加者の間に、コミュニケーションはあまりない。何人か日によって交代でモデルが変わるので、ひとりのモデルだけが長くひとつのクラスに居続けるということが、あまりないからだ。
だが「くれない」はそこが変わっていて、何人か固定されたモデルが、ひとつのクラスに、一定期間、通いで来てくれることになっていた。なので、はじめて奈保美がうちのクラスにやってきた日に、全員名前だけの簡単な自己紹介をした。
半月の形に笑んだ目を見ないように、危険な香りのただよう彼女のペースに乗せられないように、俺はまぶたを閉じたまましずかに座っていた。
「ごめんごめん。他人の名前を覚えるのは苦手でね」
言いながら剥いでいたワンピースをさっと肩に羽織る。申し訳ないと思っているのか、口先だけで言っているのかよくわからない態度だった。ずっと遊んでいるような、たのしげな態度を取られていることに、いらいらしていた。眉を寄せ、かるく舌打ちすると、イーゼルを爪先で小突いた。
「……辻本春一郎」
自分でも驚くほど、あきらかに機嫌の悪い声が出た。いつもの俺の声よりワントーン低い。
奈保美はそれを聞いても、余裕の表情でまつげにひかりを溜めながら、腕を組んで俺を見下ろすだけだった。
「へぇ、春一郎くん。いい名前だね。『春』が名前に入っている男性の名は、おしゃれだ」
「……下の名前で呼ぶのかよ」
「いいじゃないか。ここの他の子たちだって私のことを名前で呼ぶ。私は、君のことが気になっている。君も、私のことが気になっているんだろ?」
俺は伏せていたまぶたをあげた。奈保美の眸が、先ほどより大きく見える。琥珀は水をたたえ、ゆらゆらとゆれて、俺のからだの奥を捉えようとしていた。いつの間にか、俺のほうも奈保美の琥珀の奥に宿るともしびに引き寄せられて、顔をあげて、彼女をまっすぐに見ていた。本能的なものだった。
「私がこのヌードモデルを任された短いみじかい間にさ。当ててみなよ。私がなんで君を気に入って、君にだけ秘密の花園を見せるのか」
奈保美はすっと背筋を伸ばし、硬く腕を組んだ。背がより高く見える。この女がモデルだということを実感させられる、自信のあふれる立ち姿。頭のてっぺんから足の爪の先まで、ひとつの清らかな水流がながれてゆくようだ。
腕の上に乗せられた胸が、圧迫されてさらに大きく主張して迫っている。
挑むような笑顔で俺に言った。
透明な眼鏡のレンズが、真白いひかりを集め、溶けかけた氷の破片のようにゆらいだ。
俺はゆびさきで動かしていた鉛筆の動きを止めると、乾いたみじかい息を吐いた。奈保美から視線を逸らし、クロッキー帳に向ける。
白い紙には、先ほど俺が描いた奈保美のクロッキーが描かれていて、そこにうつる彼女は、神聖な雰囲気があり、目の前の変な女とは、別人に見えた。
白と黒の世界。
俺がアトリエからうつしとった同じ女。
奈保美が言っている、「気になっている」という点は確かに合っていた。俺は奈保美のことが、気になっている。他のモデルよりも。それは、俺が描いた奈保美なのか、目の前にいる変な女なのか。
中指と人差しゆびに挟んでいた鉛筆を持ちあげ、ゆっくりとくちびるに咥えた。
まぶたを閉じる。そこに広がる赤い血の色をした暗闇の中に、奈保美のはだかが浮かんでいた。
どこかわからないところを見て、微笑んでいる。
__俺じゃないどこかを見て。
「変なしゃべり方。何考えてんのかわかんねぇし。頭おかしいんじゃねぇの……。まぁでも」
俺は鉛筆をくちびるから離し、目の前の奈保美をまっすぐににらんだ。
「おもしれぇ女」
奈保美に聞こえるか聞こえないかの距離で、小声でつぶやいた。
奈保美はまた壊れたようにわらった。頭がゆれると、橙色の髪が、薄緑のひかりの中でくすみ、彼女の背後で人魚の尾鰭のように、ひらひらと泳いだ。



