ホームで電車を待っていたとき。
数人の灰色のひとの群れが、俺の周囲を流れてゆく刹那。
その女だけ、色が塗られていた。薄暗闇の中で、ほのかに燃える蝋燭の炎のように。深く被ったネイビーのキャスケットから漏れる、ウェーブがかった長く豊かな、磨いた銅のような橙の髪が、くすんだ赤の高いヒールの靴で、ホームを歩くたびに、鼓動を打ってゆれていた。秋の残像を描いて。はやく過ぎ去ってくれと思っていた憂いの九月が、その女の持つ色彩にすべて集まっていた。
虚ろな眼で、等間隔の黒い線路を見下ろしていた俺は、その暖色に引き寄せられ、無意識に顔をあげていた。白黒の世界で、浮かびあがるようなあたたかさが、眼球を刺す。ちりりと鈍い痛みが、白目に走る。舌が渇き、こめかみに熱をはらんだ汗が浮く。
女の両腕は、かるく曲げられてカーキのモッズコートの、ポケットの中に突っ込まれていた。いつの間にか透明な空気に乗せられるように、目の前に迫った女の横顔を見ながら、過ぎ去ろうとする二の腕を摑もうと、空を掻いていた。
本能が、この女は奈保美だと告げていた。
べっこう柄のウェリントン型フレームの眼鏡は、レンズをまるくひからせていたが、俺を映していなかった。
奈保美は、前だけを見ていた。真横から見る瞳は琥珀色をしていて、透明なその中に、俺といた過去は濾過されている。澱が残っているのかすら、わからない。
奈保美が前につんのめるように動きを止めた。ポケットに突っ込んでいたはずの右手が、空を掻いている。血色の良い手の甲に、青い血のすじが、どくどくと巡っている。
俺はいつの間にか、もぐように女の二の腕を取っていた。
奈保美は振り返る。
彼女の動作の一つひとつが、俺がまばたくと、写真のように網膜にうつしとられていった。
眼鏡の透明なレンズ越しに、奈保美と目が合った。
髪と同じ色をした、かがやかしいまつげが、レンズの奥でけぶるように咲いている。
俺をまっすぐに見つめ返す琥珀色の目の奥に、荒い息を吐きながら奈保美を見つめる俺の顔が映っていた。
何を考えているのかわからない、白いおとなの男の顔。黒曜石色のひとみは大きく見開き、肌は紅潮している。こめかみと額から、真夏だとでも言うように、大粒の汗が流れている。銀のピアスとイヤーカフをつけた耳は、真っ赤に染まっていた。整った顔立ちだと友人たちから褒められるが、そこに映る俺は、冷えて狡猾で、嗜虐性を内面に隠した、ただのつまらない男だった。
奈保美が、秋を体現したような女だとすれば、俺は真冬のくらやみを体現したような男だ。何もかも氷りつけて、傷つける。自分の興味のある女にしか、反応できない屑。
出逢った十年から、そんな男に育ってしまった俺を、奈保美は真っ直ぐにみつめ返してくれていた。
奈保美が硬直したまま息を吸った。俺が誰なのかに気付いたらしく、深い柿色の口紅を塗った、ぽってりと厚い下くちびるを震わせる。
「春一郎、くん……?」
澄んだ水音のような声だった。透明感があるが、低く落ち着いた声。
久しぶりに耳にふれるその声に、俺は、こめかみの血流が震えるのを感じた。
その吐息の動きを真似るように、俺はみじかく息を吸うと「奈保美」と、彼女の名をつぶやいた。
奈保美は目元をゆるめて、瞳をゆらす。琥珀の表面に、真水のような膜が張る。俺との再会をよろこぶ涙を流すためなのか、俺を拒絶するためなのか。
奈保美の目尻に、あの遠い九月にはなかったしみやしわが、かすかに生まれていた。だが、彼女の圧倒的な存在感や、象牙色の陶器のような、なめらかな肌から生まれる華やかな香り、常に水を張っている、きらきらとした瞳は、十年前とまったく同じだった。
奈保美の瞳の中の俺は、時が止まったように、感情がひらいたままだった。
息を落ち着かせるために、まぶたを閉じる。
真っ赤に落ちた視界が、徐々に中央から黒くなってゆく。
暗闇の中に、墨と紙のにおいがした。黄色く朽ちてゆく銀杏の葉が、水浅葱の空を背景に、校舎の窓越しにさらさらとふれている。
窓からこぼれるもの以外、すべてモノクロだったあのころ。
みじかく息を吐いて、鉛筆を取った俺の目の前に、ゆたかな胸を持つ裸の女が、立っている。
思えばあのとき、俺たちに背中を向けて立っていたのは、傷を負った肌を見せないようにしていたからなのか。
目の前の、当時より老いた奈保美を見て、俺は服の下に眠る彼女の肌を想った。
数人の灰色のひとの群れが、俺の周囲を流れてゆく刹那。
その女だけ、色が塗られていた。薄暗闇の中で、ほのかに燃える蝋燭の炎のように。深く被ったネイビーのキャスケットから漏れる、ウェーブがかった長く豊かな、磨いた銅のような橙の髪が、くすんだ赤の高いヒールの靴で、ホームを歩くたびに、鼓動を打ってゆれていた。秋の残像を描いて。はやく過ぎ去ってくれと思っていた憂いの九月が、その女の持つ色彩にすべて集まっていた。
虚ろな眼で、等間隔の黒い線路を見下ろしていた俺は、その暖色に引き寄せられ、無意識に顔をあげていた。白黒の世界で、浮かびあがるようなあたたかさが、眼球を刺す。ちりりと鈍い痛みが、白目に走る。舌が渇き、こめかみに熱をはらんだ汗が浮く。
女の両腕は、かるく曲げられてカーキのモッズコートの、ポケットの中に突っ込まれていた。いつの間にか透明な空気に乗せられるように、目の前に迫った女の横顔を見ながら、過ぎ去ろうとする二の腕を摑もうと、空を掻いていた。
本能が、この女は奈保美だと告げていた。
べっこう柄のウェリントン型フレームの眼鏡は、レンズをまるくひからせていたが、俺を映していなかった。
奈保美は、前だけを見ていた。真横から見る瞳は琥珀色をしていて、透明なその中に、俺といた過去は濾過されている。澱が残っているのかすら、わからない。
奈保美が前につんのめるように動きを止めた。ポケットに突っ込んでいたはずの右手が、空を掻いている。血色の良い手の甲に、青い血のすじが、どくどくと巡っている。
俺はいつの間にか、もぐように女の二の腕を取っていた。
奈保美は振り返る。
彼女の動作の一つひとつが、俺がまばたくと、写真のように網膜にうつしとられていった。
眼鏡の透明なレンズ越しに、奈保美と目が合った。
髪と同じ色をした、かがやかしいまつげが、レンズの奥でけぶるように咲いている。
俺をまっすぐに見つめ返す琥珀色の目の奥に、荒い息を吐きながら奈保美を見つめる俺の顔が映っていた。
何を考えているのかわからない、白いおとなの男の顔。黒曜石色のひとみは大きく見開き、肌は紅潮している。こめかみと額から、真夏だとでも言うように、大粒の汗が流れている。銀のピアスとイヤーカフをつけた耳は、真っ赤に染まっていた。整った顔立ちだと友人たちから褒められるが、そこに映る俺は、冷えて狡猾で、嗜虐性を内面に隠した、ただのつまらない男だった。
奈保美が、秋を体現したような女だとすれば、俺は真冬のくらやみを体現したような男だ。何もかも氷りつけて、傷つける。自分の興味のある女にしか、反応できない屑。
出逢った十年から、そんな男に育ってしまった俺を、奈保美は真っ直ぐにみつめ返してくれていた。
奈保美が硬直したまま息を吸った。俺が誰なのかに気付いたらしく、深い柿色の口紅を塗った、ぽってりと厚い下くちびるを震わせる。
「春一郎、くん……?」
澄んだ水音のような声だった。透明感があるが、低く落ち着いた声。
久しぶりに耳にふれるその声に、俺は、こめかみの血流が震えるのを感じた。
その吐息の動きを真似るように、俺はみじかく息を吸うと「奈保美」と、彼女の名をつぶやいた。
奈保美は目元をゆるめて、瞳をゆらす。琥珀の表面に、真水のような膜が張る。俺との再会をよろこぶ涙を流すためなのか、俺を拒絶するためなのか。
奈保美の目尻に、あの遠い九月にはなかったしみやしわが、かすかに生まれていた。だが、彼女の圧倒的な存在感や、象牙色の陶器のような、なめらかな肌から生まれる華やかな香り、常に水を張っている、きらきらとした瞳は、十年前とまったく同じだった。
奈保美の瞳の中の俺は、時が止まったように、感情がひらいたままだった。
息を落ち着かせるために、まぶたを閉じる。
真っ赤に落ちた視界が、徐々に中央から黒くなってゆく。
暗闇の中に、墨と紙のにおいがした。黄色く朽ちてゆく銀杏の葉が、水浅葱の空を背景に、校舎の窓越しにさらさらとふれている。
窓からこぼれるもの以外、すべてモノクロだったあのころ。
みじかく息を吐いて、鉛筆を取った俺の目の前に、ゆたかな胸を持つ裸の女が、立っている。
思えばあのとき、俺たちに背中を向けて立っていたのは、傷を負った肌を見せないようにしていたからなのか。
目の前の、当時より老いた奈保美を見て、俺は服の下に眠る彼女の肌を想った。



