うすらいだひかりの束が、カーテンの隙間からこちらへとこぼれている。 

 鼻にふれると、日向(ひなた)のにおいがした。
 もうすぐ冬が来る。陽光のやさしさが肌に染み渡るようで、俺はまぶたの中で目を動かして、それを感じていた。


「春一郎くん」


 まろやかな声がする。心地よい低さで、まぶたにふれた日のひかりに重なって。 

 つめたい指先が、鼻にふれる。そのまま幾度か撫でられる。猫が人間に撫でられているときの感触って、こんな感じなんだろうか、と目覚めたばかりの鈍い意識の中でぼんやりと思う。


「春一郎くん、私とのセックスはどうだった?」


「__最高でした」



 寝ぼけた掠れた声でこたえた。 

 鼻を撫でていたゆびが離れ、髪にかすかな重みと熱が乗せられる。そのままこめかみからうなじにかけて、てのひらでやわらかく撫でられる。
 うっすらとまぶたを開けた。
 奈保美が白い朝に逆光となりながら、俺をまっすぐにみつめて微笑んでいる。髪が溶けるように陽光の中へと重なり、輪郭が朧になっていた。
 薄青と、白の色彩しかなかった。


「春一郎くん。私のからだを覚えていてね。輪郭も肌の質感も、これからもずっと、覚えていてね」


 何度か髪を撫でられ、奇跡のような白いひかりの世界にまどろみながら、ふたたび眠りの糸が落ちてくる。 

 奈保美が俺の後頭部を両手で包み、自分のほうへ寄せる。
 こつりと、額がしずかに鳴った。
 まぶたを閉じて額を合わせた俺たちは、最後の朝の中で、このうえないしあわせと、せつなさを感じていた。


 奈保美が日本からいなくなって、よく空を見上げるようになった。薄青の朝も、秋の紅葉のような夕暮れも、紺色の夜空も、彼女も北の大地のどこかで、時差はあるが空のいろを体感し、透明な空気を吸っているのだろう。それだけで、この人生を生きる意味はある気がした。
 美術館には行かなくなった。興味のある展覧会にも、行けなくなった。奈保美と一緒に淡い照明の中を歩いたことを、思い出してしまうから。でもまた行けるようになる日も来るだろう。永遠ではない、このせつなさは。きっと。

「くれない」時代のともだちや、美大時代のともだちとも、時々飲む。

 鶴間は職場の同僚の女と結婚して、西岡は学生時代の彼女とそのまま結婚して、1年で離婚して、ひとりで2歳の娘を育てている。俺だけが誰とも結ばれず、独りだった。女はいないのかと聞かれる事もあったが、「恋愛なんてしないで、絵だけ描いて生きていきてえよ」と言ったらわらわれた。 

奈保美と再会して、一時期あいしあって、また別れたことは、誰にも言わなかった。
 たまにどうしようもない虚しさを感じることもあるが、途切れとぎれに何かたのしいことや綺麗なものを見ることを繰り返すことで、また凪いだ感情が保たれ、淡々と日々は続いてゆく。そうやって人生は最後まで向かっていくんだろう。
 俺は、ただ淡々と線を描き続ける。曲線も直線も。建物も。植物も。動物も。男も女も。

 ただ少しだけ変わったことは、担当に前よりセックスシーンの時のキャラクターの表情に、リアリティが増したと言われたことだった。 奈保美に渡そうかと思って、渡せなかったものがあった。それは、俺が高校時代に、公園でこっそり歌って踊っている奈保美をスケッチした一枚の絵だった。
 今日も朝がはじまり、昼が過ぎてまた夜になる。
 煙草だけは相変わらず、奈保美と同じ銘柄を吸っていた。美術館には行けなくなったのに、この薫りだけはくせになって、からだが欲し続けている。命尽きるまで吸い続けるのかもしれない。彼女も北欧で、この煙草を吸っているのかもしれないと思うと、少しだけ心があたたかくなった。
 灰青の寒空(さむぞら)の下で、ダークブラウンの厚いコートを纏いながら、青いライターのちいさな炎に顔を近づける奈保美の姿が浮かぶ。まぶたを半分伏せて、上向いたまつげがきらきらと火のゆらぎにきらめいて。風が吹けば磨いた銅のようないろをした、橙の髪がゆれる。
 妄想に浸りながら、煙草を咥えてベランダに出ると、透明な秋の空の一部になる。
 また今年も九月がやってきた。あと何回、九月を重ねられるだろう。

「言ってなかったけど」


 俺は独り言をつぶやきながら、黒のニットベストのポケットに四つ折りにして入れていた紙を一枚取り出した。もう黄ばんで、端はところどころ破れている古い紙だった。
 ゆびさきを器用に動かしてひらく。

 鉛筆の掠れて重なった線で、公園で歌って踊る奈保美のクロッキーが描かれている。


「ガキの時はちびだったけど、あれから急成長遂げて、あんたの身長超えてやったぜ」


 奈保美とあんなに深く繋がりあっていた時には言えなかった些細(ささい)なことが、口に出ていた。高揚感と虚しさが同時に訪れた。


「ザマーミロ」


 ちいさな紙を煙草の先へと近づける。くちづけをするように。 じゅっという短い音と共に、真ん中から黒い点が広がり、紅い火の輪が大きくなってゆく。
 まぶたを伏せて微笑む奈保美の顔が、炎に飲まれて消えていった。
 ゆびに炎が到着する前に、そっと手を離した。

 夜風がそよと吹き、ベランダの欄干を超えてひらひらと夜景の中へ舞い落ちてゆく。

 (ちり)になり、くらやみに溶けて、その姿は見えなくなった。後に残ったのは、目の覚めるような地上の星だけ。


「さいなら」


 ちいさな声で、そっとつぶやいた。 煙草を深く吸い込み、後ろを向くとフェンスに肩を預ける。煙草を二本指で支え、口から離して吐いた息はしろく、大きなけむりとなって空へ溶けていった。
 舌先に、いつかの日に奈保美としたくちづけの味がしていた。(完) 




 参考文献

 *:「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館蔵〈作品解説〉」東京都富士美術館,2024年より引用

 影山幸一
「ヘレン・シャルフベック〈快復期〉──“かわいい”という生命力『佐藤直樹』」
 https://artscape.jp/study/art-achive/10186519_1982.html
 閲覧日2024年10月28日

 佐藤直樹「ヘレン・シャルフベック——魂のまなざし」2015年、求龍堂