その後は、残り数点を残した作品の解説を奈保美にしてもらい、閉館時間が過ぎ、奈保美の仕事が終わるまで、外で待っていた。
澄んだ透明な闇が、あたりを覆っている。
奈保美と久しぶりに話したことで、肌が熱ってしまっていた。夜気に冷ます。
ショルダーバッグから、赤いライターと青い煙草の箱をひとつ出し、そこから一本煙草を取りだして、火をつけて咥える。はじまりは、まだ何にも染まっていない紙の味とにおいがした。それだけで気分転換になる。
美術館を覆う森が、闇に食われて黒く染まっている。
時折吹くそよ風が、枯れ葉の群れをさわさわとゆらし、微量な音楽を奏でる。
空の闇は青が濃く、森の闇とはまた違った黒をしていると教えてくれる。こうやって夜は、どんな感情のときにも、どんな人間関係のときにも訪れて、透明な空気に包んで、闇の頂点まで導き、また明ける。人生はそれの繰り返しなんだろう。
鼻先にけむりがふれて、鼻息で飛ばすと、溶けてしろく夜に流れてゆく。
首をあげて、けむりが昇ってゆく光景をたのしんでいたら、美術館の小窓から漏れていた光彩がぷつりと消えて、一層周囲の闇が濃くなった。
残っているのは、申し訳程度に宙から降りそそいでいる、幾つかの電球だけだった。ぼんやりと輪郭を霞ませながら灯っている。穏やかなひかりに、現実感が無くなりそうになる。
隣からつかつかと靴音がして、けむりの薫りに、あまく枯れた香りが混じった。
「ごめん……、待たせたね」
振り返る。
闇を背負っても、奈保美はしずかなあかるさを放っていた。むしろ、つやを増して、透明な薄闇に馴染んでいる。
右肩にかけた、ボルドーのちいさなショルダーバッグが、炎が灯ったように細長いからだのラインに沿っている。肩紐に左手を添え、右手をひらひらとこちらへ向けて振っていて、やわらかな笑顔を浮かべている。
さっきの仕事の時とは、また違った雰囲気で、落ち着いていながらも無邪気さがある。俺がよく知っている、馴染んだ普段の奈保美だった。
奈保美が来てから、外の空気は一層寒くなった。
このまま美術館のそばで話そうかと思ったが、俺の部屋まで移動することになった。移動している間、俺たちは言葉を交わさなかった。 ただ、俺は手元の煙草を一本、奈保美に渡し、奈保美はそれを受け取ると、「つけてくれ」と目で合図して、俺にライターの着火を頼んだ。
俺は、奈保美のくちびるに咥えられた煙草のさきに、ライターの青い火を近づける。
そっと火がふれ、煙草のさきが刹那、橙に染まり、しろいけむりが流れだす。
俺の手元から離れた奈保美は、上向いて、けむりの流れに視線を添わせていた。 まつげやまぶた、鼻すじに、けむりのしろいひかりと、淡い電灯の黄が、ちらちらと浮くように舞っている。
何を考えているのだろうか、物憂げなその表情は、絵にとらえたくなるようなものがあったが、今の俺は、ちいさなスケッチブックさえも、持ってきてはいなかった。
これから、終わっていこうとしている恋についてでも、考えているのだろうか。
ふたりで煙草を咥えながら、言葉を交わさずに歩く帰り道は、なかなか乙なものだった。
俺は、チノパンのポケットに両手を突っ込んで、背をかるく屈めて、奈保美の半歩前を歩いていた。しずかな足音だけが、森の中にかたりことりと響いている。
マンションのエレベーターから降りて、灰色の共用廊下を歩き、俺の部屋のドアを開ける。
「さき入れば」
「……ああ、ありがとう」
そこで初めて、美術館以来の会話をした。 片手でノブを握って、ドアを開けっぱなしにして奈保美が入るのを待つと、後ろ手でドアを閉めた。
かちゃりという音と共に、俺たちだけの紺色のくらやみが訪れた。
「奈保美さん__」
闇の帷の中で、背を向けた奈保美の髪だけが浮きあがって、ともしびのように、ゆらゆらと浮いている。 何か話すことを考えていたはずなのに、無意識に片手を伸ばして、その髪をゆるりと摑んでいた。
このまま終わっていくのか。このまま、本当に。淡々と。
なめらかで、適度な水分をふくんでいる、痛みのない髪質。俺の手の中をするりと滑って、撫でて抜けてゆこうとする。
奈保美がこちらを振り返った。
俺の手の中の髪が、完全に滑り落ちる。
黄金の残像が、秋の終わりの枯葉のようにきらめいて、斜めに走った。
瞳の端に、なみだが溜まって盛りあがっていた。奈保美の顔の周りに、きらきらとしずくが散らばって降りてゆく。
刹那、俺は目の前の泣く女を抱きしめていた。
受け止めた奈保美は、あまりにも華奢でかるく、何度も抱いていたというのに、こんな両腕の中に収まってしまうほどちいさかったのかと、驚いていた。
「春一郎くん……。ゆび震えてる」
俺の首すじに、奈保美のくちびるがついていた。つめたくやわらかいものが鎖骨の少し上で動き、湿った弱い吐息が首を撫でる。
「あ、……ああ」
言われて気づいたが、見下ろすと俺のゆびは、奈保美の背中の上で少しだけ震えていた。襟のかすかな隙間から、奈保美の肌がのぞいて、そこから、あまく枯れた香りがする。
ゆびの震えが止まった。俺の腹の奥の雄の本能が、下半身を血流として巡り、これから何をすべきか、また、何がしたいのかを脳に問うている。だが一ミリの理性が、それを押し留めていた。
「……春一郎くん」
俺の胸の上で、奈保美のからだが、しずかに動く。
やがて顔をあげる。濡れて暗くなった大きなひとみが、真っ直ぐに俺を睨んでいた。
琥珀の中に、苦しそうな顔で目の下を赤く染めている俺が映っていた。
「最後に抱いてくれ」
力強く安定した声だった。
何かを言い返そうとした。けれど、さきに動いたのはからだのほうだった。衝動的なものに、突き動かされる。
奈保美の背中を抱いていた手で、顎を摑み、勢いよくあげた。
上向いた奈保美の顔は、かるく呆然としていた。うすく開いたくちびるを傾けて、くちびるを重ねた。息のすべてを塞いでしまうような、くちづけだった。
我に帰って咄嗟に放そうとすると、真ん中から奈保美の舌が追ってきて、俺の舌先にふれる。
それでもう止まらなくなった。
互いの粘液を擦り付け合うように、ざらざらした舌の表面で、神経の行き届いた肉のかたまりを撫であう。奈保美の口の中は熱く、離れて空気中で撫で合うと、ひやりとした冷気の中で、舌の肉は、さらに温度を増した。やがて十分に互いの唾液と舌の感触を堪能し合うと、名残惜しそうに舌先を伸ばしあって剥がれてゆく。あいだを、粘ついた銀の橋がかかって、ふつりとほどける。
互いの吐く荒い息が重なって、紺色の部屋の中を漂って、消えてからだの皮膚を湿らせた。
「キス、しちゃったね」
「はは……、なに今さら、初めてした中学生みたいなこと言ってんだ」
「はは、ほんと馬鹿みたいだ。私たち」
奈保美は俺の肩に両手を乗せて、うつむくとからからとわらった。膝を曲げて、体重を預けてくる。
「このまま組んず解れつ、ベッドへ行って抱き合ってもいいかなって思ったんだけど」
「まあ、俺はそれでも全然いいけど」
真顔で言う俺に、奈保美は顔をあげてわらった。さっきよりも血色が良くなり、ほんのり全体的に紅く染まっている。
「最後だからさ。シャワー浴びさせてくれ」
風呂場は、玄関から、リビングに続く廊下の左に位置していた。奈保美をそこに案内して、さきにシャワーを浴びさせる。 電気もつけず、暗い寝室に行った。俺はベッドに腰をかけながら、うつむいて背を屈め、手を組んで小雨のようなシャワーの音を聞いていた。右手の親指で左手の親指の周囲をくるくると周り、爪のさきが、ゆびの腹で止まった時、耐えきれなくなり、立ちあがり、風呂場へ向かった。
曇り硝子のドア越しに、淡い電球のひかりに照らされた奈保美の真っ直ぐな裸体が、ぼやけている。髪をかきあげているのか、顔の周りに橙が盛りあがって、背中がむき出しになってこちらを向いている。
俺は凪いだ気持ちを保ち、ドアをからりと開けた。
白で統一された、清潔感のある風呂場の中心に奈保美がいた。
「ひゃっ、春一郎くん?」
奈保美の全身がびくりと上へ跳ね、驚いて背後を振り返る。胸もふるりと震え、よりやわらかさを主張していた。海から陸へあがったばかりの人魚のように、しとしとと水滴を纏って立っていた。淡いひかりのいろをともして。
これから穢らわしい俺が、ふれていいのかという迷いすら感じさせるほど、きらきらと濡れてかがやく女がいた。
「やっぱり二十代の頃とは、肌が変わってしまったね。『水を弾く』なんて、もうしなくなっちゃた」
奈保美が微笑んでうつむくと、まるいまぶたを半分伏せて、両手をかるく広げ、己の肌を見渡した。
「そんなことねえよ。それでもあんたは、綺麗だ」
嘘ではなく、本心でそう思っていた。奈保美の肌は未だきめ細やかで、水をしっとりと吸い込み、さらにつやを増していた。良い歳の重ね方をしていることがわかる肌だった。
見ているだけで、その肌の味を思い出し、俺は無意識に舌先で上唇を舐めていた。
「服を着ているあんたも、それはそれで綺麗だが、やっぱりあんたは、裸の時が一番綺麗だと、俺は思う」
「ありがとう……。うれしいよ」
奈保美は泣きわらいのような表情をして、かすかに首を横に倒す。
髪にまとわりついたしずくがほどけて、ひらりとひとつ舞い降りて、鎖骨を滑った。
足を踏み出し、奈保美の肩を摑むと、そのまま、また深くくちづけた。くちびるの表面についたしずくを、くちびるで覆ってすべて吸い取ってしまう。くちびるを剥がし、しばし奈保美のくちびるを、親指の腹で撫でて眺める。
コーラルオレンジの口紅が落ちて、むき出しの自然の紅があらわになっている。血が通っている証拠が、ゆびの下に流れている。ゆっくりと撫でていると、奈保美の口が徐々に広くひらいていった。
「……お湯の味がする」
「当たり前じゃないか」
奈保美がわらい、鼻息が爪にかかる。穏やかに湿っていた。 ゆびの腹を、奈保美の下唇の中へ食い込ませ、歯茎が見えるほどに広げると、顔を屈めてそこに俺の舌を落としてくぼみを埋めていった。
歯茎とくちびるのはざまに、あまい唾液が溜まり、あふれて奈保美のくちびるの一点からすらりとひとすじ、なみだのようにこぼれ落ちたのを合図に、また俺のくちびるで、大きく塞いだ。
奈保美の肩はやわらかく、ゆびが食い込む。彼女が痛みを感じるのではないかというほど、強い力を込めていた。彼女のからだが震えてきたのを感じて、肩に乗せた手を背中に回す。シャワーが未だに放出し続けていたことに気付く。
骨の形がくっきりと浮いた肩甲骨を通り過ぎて、背すじとやわらかな尻に、手を這わせた。
シャワーが、小雨のように燦々(さんさん)と降り注ぎ、俺の手から腕、髪を濡らしてゆく。貪るように、溶けるように角度を変えてくちづけを交わし、奈保美を風呂場の白い壁に押し付けた。
服のまま、あたたかい湯の雨に濡れながら、奈保美の胸や腹、腕、尻を無茶苦茶に撫で回した。胸を手のひらで転がすように撫で、乳首を摘んだ時に、奈保美が俺から口を離して呻き声をあげた。
俺はまぶたを閉じて眉を歪ませた奈保美の顔を左手で固定し、こちらを向かせると、右手で彼女の脚を大きくひらかせて、左膝をかるく曲げてあいだに入れた。膝の上に、茂みが乗って扇情的な景色がうまれる。
「ここで……、挿れるの」
「ああ、乙なもんだろ」
ズボンのチャックを下ろし、パンツの隙間をずらすと、少し前からふくれあがっていたものが、尖って主張する。
「いいか」
「……ああ」
何度か奈保美の股の上で滑らせると、奈保美は喉の奥から、枯れた吐息を出してうつむいた。
奈保美の反応を確認し、そのまま垂直に彼女の中へ己を進ませる。シャワーで濡れて、彼女の体液でも濡れていたそこは、すでに潤っており、肉と肉が溶け合うのに時間はかからなかった。
片手で持った脚をより高くあげ、弱く押し付けたり、強く押しつけたり、角度を変えてゆっくりと出し入れを繰り返すと、奈保美は吐くような喘ぎ声をあげた。シャワーの音に溶け合って、しっとりと濡れたその声は、俺のからだを熱くさせ、さらに動きを速めさせた。 途切れとぎれに高くあまい声を出しながら、奈保美は俺の背中に手を回し、皮膚を押すようにゆびを広げてそわせてくる。
背筋に、ぞくぞくとした快感が走った。
思わず首をそらすと、奈保美は喉仏に舌を伸ばし、くちびるで覆う。
俺はそのまま硬直し、奈保美の中に己を放出した。本当は外に出すつもりでいたのに、快楽に負けて、むき出しの肉の欲望に従ってしまった。
頭に理性が走ったが、からだがそれをやめてくれない。最後の一滴がなくなるまで、奈保美の中で硬直し続け、やがて果てた。 片手を落とし、奈保美の脚もすとんと地に着く。
落ち着いてから、己の蛇を彼女から抜いた。
「……ごめん」
快楽が終わり、真っ白な靄が頭から晴れてやってきたのは、強い罪悪感だった。
「……大丈夫。今日は大丈夫な日だから。最後だから、やりたいこと全部やろうよ。お互いのからだにしてみたいことを全部さ。一応、アフターピルは飲むから」
奈保美に、アフターピルを飲むと言わせてしまったことで、さらに罪悪感が増した。 シャワーの出力を強くして、奈保美の足元に屈むと、下から白い性液を流す彼女の性器に向かってお湯をかける。
「わわっ、ちょっと__」
膝をつき、背筋を伸ばすと、右手の二本指を立てて、奈保美の中から性液を掻き出した。
やめてよ、とむず痒そうにわらっていた奈保美は、やがて快楽を感じるようになったのか、脚をこまやかに震えさせた。
シャワーに伝うように、白い液がタイルに流れ落ちてゆく。
シャワーを止めて、ゆびを性器の中から出して、タイルに手を着く。
充分に落ちたのは確認したが、くちびるで性器を舐めて綺麗にした。
まぶたを閉じて、そこを舐めたり口で覆ったりすることに夢中になっていると、奈保美の脚の震えが大きくなり、ついに腰を抜かして背を逸らして痙攣した。
膝からタイルへ崩れ落ちそうになった奈保美を、両腕に抱える。
奈保美は、俺の胸に頬を寄せて荒く息をついていた。頬やまぶたが濡れているが、肌の色は赤く火照って染まっていた。
髪がしなだれて、俺の肩にこぼれている。
そこから流れる水滴が、ぽたぽたと背中をさらに濡らした。
「ごめん……、そこまでしてくれると思わなくて」
「餌与えられた犬みたいになっちまったな」
「……気持ちよかった」
「素直に言うもんだ」
「シャツ着たまんま、入ってくるんだもん。服びしょびしょになっちゃったじゃない」
「ああ、俺は馬鹿だからな。欲望に忠実なんだ」
「はは」
奈保美はひとしきりわらうと、肩に預けていた顔を起こし、俺の顔の正面にまっすぐに寄せた。
熱い鼻息が、人中にかかり、気付けばくちづけを交わしていた。 横に倒れたシャワーヘッドから、途切れなく温かな雨が流れ続けている。
その音を聴きながら、梅雨の湿った時期に、外であいしあったらこんな感じなのかな、と鈍く霞んだ頭の中で考えていた。
その後、ベッドに移動して激しく互いをぶつけ合った。性器はつながり合っているのに、時計の分針と長針のように、からだは別々の角度にあった。そういう体位が、何度か続いた。あいしあっているというのに、少年漫画で最終回に闘いあう、ライバル同士のようなセックスだった。風呂で濡れた身体も拭わず、濡れたまま、互いの汗と汗が混じり合って、互いの一番大事な部分を貫いて包みあう。
奈保美は俺の上に乗って、腰と胸を振りながら、喉をそらして時折激しく鳴いた。
俺は喉を潰された犬のような呻き声をあげながら、下からも上からも奈保美を刺し続けた。その度に激しい快楽がからだを流れて脳天を抜けてゆき、何も考えられなくさせた。
女と繋がっているという、からだの感覚以外の、すべてがなくなる。
風呂場で丁寧に性液を掻きだしたというのに、仰向けにした奈保美の窪んだ腹からへそへかけてのなめらかな坂や、細長いゆびが、頭の下に敷いた枕やシーツを乱れて摑んでいる様や、火照った顔でほとんど伏せられたまぶたの下の琥珀の瞳が濡れて、扇情的に俺を見上げているのを見た時、耐えきれなくなって、強く腰を押し付けて、己の精を、奈保美の中へ吐き出した。
すべてを放出しているあいだ、互いの馬鹿みたいに開いた口と、うすく開いたひとみが、五センチメートルの距離をあけて、重なり合っていた。
琥珀の中央、深いふかい茶の瞳孔の中に、髪も肌も濡れて、命が迸っている俺がいた。
霞のような淡い息が、途切れとぎれに奈保美の口からこぼれて、俺はそれを吸い込んだ。濃密な女の味がした。 ひたりと合わさった胸は、しっとりと湿ってくっついていて、俺の顎から伝った汗が落ちて、浮いた彼女の汗のしずくと混じり、奈保美の胸の谷間のくらやみに流れて消えていった。
俺が最後の白いひとしずくを彼女の中に流し込んだとき、赤く染まって眉を寄せ、歪めていた奈保美の顔が、仏のようにひらけ、口角がわずかにあがった気がした。
俺は意識を手放して、彼女の首すじに顔を埋めると、全身の力を抜いて、奈保美に肌という肌のすべてを重ねた。奈保美の皮膚の中へ、沈んでゆく。視界が青く染まり、徐々に暗さを増してゆく。
溶けて消えてしまうのではないかというほど、意識が闇の中へ遠のく刹那、やわらかなてのひらで、背中をとんとんと叩かれた。肩甲骨の上、どこかの美術館で見た、誰かが描いた西洋画の中に描かれた天使の羽が、ぼんやりと思い出された。
これからの人生を、鼓舞されているような感触だった。
澄んだ透明な闇が、あたりを覆っている。
奈保美と久しぶりに話したことで、肌が熱ってしまっていた。夜気に冷ます。
ショルダーバッグから、赤いライターと青い煙草の箱をひとつ出し、そこから一本煙草を取りだして、火をつけて咥える。はじまりは、まだ何にも染まっていない紙の味とにおいがした。それだけで気分転換になる。
美術館を覆う森が、闇に食われて黒く染まっている。
時折吹くそよ風が、枯れ葉の群れをさわさわとゆらし、微量な音楽を奏でる。
空の闇は青が濃く、森の闇とはまた違った黒をしていると教えてくれる。こうやって夜は、どんな感情のときにも、どんな人間関係のときにも訪れて、透明な空気に包んで、闇の頂点まで導き、また明ける。人生はそれの繰り返しなんだろう。
鼻先にけむりがふれて、鼻息で飛ばすと、溶けてしろく夜に流れてゆく。
首をあげて、けむりが昇ってゆく光景をたのしんでいたら、美術館の小窓から漏れていた光彩がぷつりと消えて、一層周囲の闇が濃くなった。
残っているのは、申し訳程度に宙から降りそそいでいる、幾つかの電球だけだった。ぼんやりと輪郭を霞ませながら灯っている。穏やかなひかりに、現実感が無くなりそうになる。
隣からつかつかと靴音がして、けむりの薫りに、あまく枯れた香りが混じった。
「ごめん……、待たせたね」
振り返る。
闇を背負っても、奈保美はしずかなあかるさを放っていた。むしろ、つやを増して、透明な薄闇に馴染んでいる。
右肩にかけた、ボルドーのちいさなショルダーバッグが、炎が灯ったように細長いからだのラインに沿っている。肩紐に左手を添え、右手をひらひらとこちらへ向けて振っていて、やわらかな笑顔を浮かべている。
さっきの仕事の時とは、また違った雰囲気で、落ち着いていながらも無邪気さがある。俺がよく知っている、馴染んだ普段の奈保美だった。
奈保美が来てから、外の空気は一層寒くなった。
このまま美術館のそばで話そうかと思ったが、俺の部屋まで移動することになった。移動している間、俺たちは言葉を交わさなかった。 ただ、俺は手元の煙草を一本、奈保美に渡し、奈保美はそれを受け取ると、「つけてくれ」と目で合図して、俺にライターの着火を頼んだ。
俺は、奈保美のくちびるに咥えられた煙草のさきに、ライターの青い火を近づける。
そっと火がふれ、煙草のさきが刹那、橙に染まり、しろいけむりが流れだす。
俺の手元から離れた奈保美は、上向いて、けむりの流れに視線を添わせていた。 まつげやまぶた、鼻すじに、けむりのしろいひかりと、淡い電灯の黄が、ちらちらと浮くように舞っている。
何を考えているのだろうか、物憂げなその表情は、絵にとらえたくなるようなものがあったが、今の俺は、ちいさなスケッチブックさえも、持ってきてはいなかった。
これから、終わっていこうとしている恋についてでも、考えているのだろうか。
ふたりで煙草を咥えながら、言葉を交わさずに歩く帰り道は、なかなか乙なものだった。
俺は、チノパンのポケットに両手を突っ込んで、背をかるく屈めて、奈保美の半歩前を歩いていた。しずかな足音だけが、森の中にかたりことりと響いている。
マンションのエレベーターから降りて、灰色の共用廊下を歩き、俺の部屋のドアを開ける。
「さき入れば」
「……ああ、ありがとう」
そこで初めて、美術館以来の会話をした。 片手でノブを握って、ドアを開けっぱなしにして奈保美が入るのを待つと、後ろ手でドアを閉めた。
かちゃりという音と共に、俺たちだけの紺色のくらやみが訪れた。
「奈保美さん__」
闇の帷の中で、背を向けた奈保美の髪だけが浮きあがって、ともしびのように、ゆらゆらと浮いている。 何か話すことを考えていたはずなのに、無意識に片手を伸ばして、その髪をゆるりと摑んでいた。
このまま終わっていくのか。このまま、本当に。淡々と。
なめらかで、適度な水分をふくんでいる、痛みのない髪質。俺の手の中をするりと滑って、撫でて抜けてゆこうとする。
奈保美がこちらを振り返った。
俺の手の中の髪が、完全に滑り落ちる。
黄金の残像が、秋の終わりの枯葉のようにきらめいて、斜めに走った。
瞳の端に、なみだが溜まって盛りあがっていた。奈保美の顔の周りに、きらきらとしずくが散らばって降りてゆく。
刹那、俺は目の前の泣く女を抱きしめていた。
受け止めた奈保美は、あまりにも華奢でかるく、何度も抱いていたというのに、こんな両腕の中に収まってしまうほどちいさかったのかと、驚いていた。
「春一郎くん……。ゆび震えてる」
俺の首すじに、奈保美のくちびるがついていた。つめたくやわらかいものが鎖骨の少し上で動き、湿った弱い吐息が首を撫でる。
「あ、……ああ」
言われて気づいたが、見下ろすと俺のゆびは、奈保美の背中の上で少しだけ震えていた。襟のかすかな隙間から、奈保美の肌がのぞいて、そこから、あまく枯れた香りがする。
ゆびの震えが止まった。俺の腹の奥の雄の本能が、下半身を血流として巡り、これから何をすべきか、また、何がしたいのかを脳に問うている。だが一ミリの理性が、それを押し留めていた。
「……春一郎くん」
俺の胸の上で、奈保美のからだが、しずかに動く。
やがて顔をあげる。濡れて暗くなった大きなひとみが、真っ直ぐに俺を睨んでいた。
琥珀の中に、苦しそうな顔で目の下を赤く染めている俺が映っていた。
「最後に抱いてくれ」
力強く安定した声だった。
何かを言い返そうとした。けれど、さきに動いたのはからだのほうだった。衝動的なものに、突き動かされる。
奈保美の背中を抱いていた手で、顎を摑み、勢いよくあげた。
上向いた奈保美の顔は、かるく呆然としていた。うすく開いたくちびるを傾けて、くちびるを重ねた。息のすべてを塞いでしまうような、くちづけだった。
我に帰って咄嗟に放そうとすると、真ん中から奈保美の舌が追ってきて、俺の舌先にふれる。
それでもう止まらなくなった。
互いの粘液を擦り付け合うように、ざらざらした舌の表面で、神経の行き届いた肉のかたまりを撫であう。奈保美の口の中は熱く、離れて空気中で撫で合うと、ひやりとした冷気の中で、舌の肉は、さらに温度を増した。やがて十分に互いの唾液と舌の感触を堪能し合うと、名残惜しそうに舌先を伸ばしあって剥がれてゆく。あいだを、粘ついた銀の橋がかかって、ふつりとほどける。
互いの吐く荒い息が重なって、紺色の部屋の中を漂って、消えてからだの皮膚を湿らせた。
「キス、しちゃったね」
「はは……、なに今さら、初めてした中学生みたいなこと言ってんだ」
「はは、ほんと馬鹿みたいだ。私たち」
奈保美は俺の肩に両手を乗せて、うつむくとからからとわらった。膝を曲げて、体重を預けてくる。
「このまま組んず解れつ、ベッドへ行って抱き合ってもいいかなって思ったんだけど」
「まあ、俺はそれでも全然いいけど」
真顔で言う俺に、奈保美は顔をあげてわらった。さっきよりも血色が良くなり、ほんのり全体的に紅く染まっている。
「最後だからさ。シャワー浴びさせてくれ」
風呂場は、玄関から、リビングに続く廊下の左に位置していた。奈保美をそこに案内して、さきにシャワーを浴びさせる。 電気もつけず、暗い寝室に行った。俺はベッドに腰をかけながら、うつむいて背を屈め、手を組んで小雨のようなシャワーの音を聞いていた。右手の親指で左手の親指の周囲をくるくると周り、爪のさきが、ゆびの腹で止まった時、耐えきれなくなり、立ちあがり、風呂場へ向かった。
曇り硝子のドア越しに、淡い電球のひかりに照らされた奈保美の真っ直ぐな裸体が、ぼやけている。髪をかきあげているのか、顔の周りに橙が盛りあがって、背中がむき出しになってこちらを向いている。
俺は凪いだ気持ちを保ち、ドアをからりと開けた。
白で統一された、清潔感のある風呂場の中心に奈保美がいた。
「ひゃっ、春一郎くん?」
奈保美の全身がびくりと上へ跳ね、驚いて背後を振り返る。胸もふるりと震え、よりやわらかさを主張していた。海から陸へあがったばかりの人魚のように、しとしとと水滴を纏って立っていた。淡いひかりのいろをともして。
これから穢らわしい俺が、ふれていいのかという迷いすら感じさせるほど、きらきらと濡れてかがやく女がいた。
「やっぱり二十代の頃とは、肌が変わってしまったね。『水を弾く』なんて、もうしなくなっちゃた」
奈保美が微笑んでうつむくと、まるいまぶたを半分伏せて、両手をかるく広げ、己の肌を見渡した。
「そんなことねえよ。それでもあんたは、綺麗だ」
嘘ではなく、本心でそう思っていた。奈保美の肌は未だきめ細やかで、水をしっとりと吸い込み、さらにつやを増していた。良い歳の重ね方をしていることがわかる肌だった。
見ているだけで、その肌の味を思い出し、俺は無意識に舌先で上唇を舐めていた。
「服を着ているあんたも、それはそれで綺麗だが、やっぱりあんたは、裸の時が一番綺麗だと、俺は思う」
「ありがとう……。うれしいよ」
奈保美は泣きわらいのような表情をして、かすかに首を横に倒す。
髪にまとわりついたしずくがほどけて、ひらりとひとつ舞い降りて、鎖骨を滑った。
足を踏み出し、奈保美の肩を摑むと、そのまま、また深くくちづけた。くちびるの表面についたしずくを、くちびるで覆ってすべて吸い取ってしまう。くちびるを剥がし、しばし奈保美のくちびるを、親指の腹で撫でて眺める。
コーラルオレンジの口紅が落ちて、むき出しの自然の紅があらわになっている。血が通っている証拠が、ゆびの下に流れている。ゆっくりと撫でていると、奈保美の口が徐々に広くひらいていった。
「……お湯の味がする」
「当たり前じゃないか」
奈保美がわらい、鼻息が爪にかかる。穏やかに湿っていた。 ゆびの腹を、奈保美の下唇の中へ食い込ませ、歯茎が見えるほどに広げると、顔を屈めてそこに俺の舌を落としてくぼみを埋めていった。
歯茎とくちびるのはざまに、あまい唾液が溜まり、あふれて奈保美のくちびるの一点からすらりとひとすじ、なみだのようにこぼれ落ちたのを合図に、また俺のくちびるで、大きく塞いだ。
奈保美の肩はやわらかく、ゆびが食い込む。彼女が痛みを感じるのではないかというほど、強い力を込めていた。彼女のからだが震えてきたのを感じて、肩に乗せた手を背中に回す。シャワーが未だに放出し続けていたことに気付く。
骨の形がくっきりと浮いた肩甲骨を通り過ぎて、背すじとやわらかな尻に、手を這わせた。
シャワーが、小雨のように燦々(さんさん)と降り注ぎ、俺の手から腕、髪を濡らしてゆく。貪るように、溶けるように角度を変えてくちづけを交わし、奈保美を風呂場の白い壁に押し付けた。
服のまま、あたたかい湯の雨に濡れながら、奈保美の胸や腹、腕、尻を無茶苦茶に撫で回した。胸を手のひらで転がすように撫で、乳首を摘んだ時に、奈保美が俺から口を離して呻き声をあげた。
俺はまぶたを閉じて眉を歪ませた奈保美の顔を左手で固定し、こちらを向かせると、右手で彼女の脚を大きくひらかせて、左膝をかるく曲げてあいだに入れた。膝の上に、茂みが乗って扇情的な景色がうまれる。
「ここで……、挿れるの」
「ああ、乙なもんだろ」
ズボンのチャックを下ろし、パンツの隙間をずらすと、少し前からふくれあがっていたものが、尖って主張する。
「いいか」
「……ああ」
何度か奈保美の股の上で滑らせると、奈保美は喉の奥から、枯れた吐息を出してうつむいた。
奈保美の反応を確認し、そのまま垂直に彼女の中へ己を進ませる。シャワーで濡れて、彼女の体液でも濡れていたそこは、すでに潤っており、肉と肉が溶け合うのに時間はかからなかった。
片手で持った脚をより高くあげ、弱く押し付けたり、強く押しつけたり、角度を変えてゆっくりと出し入れを繰り返すと、奈保美は吐くような喘ぎ声をあげた。シャワーの音に溶け合って、しっとりと濡れたその声は、俺のからだを熱くさせ、さらに動きを速めさせた。 途切れとぎれに高くあまい声を出しながら、奈保美は俺の背中に手を回し、皮膚を押すようにゆびを広げてそわせてくる。
背筋に、ぞくぞくとした快感が走った。
思わず首をそらすと、奈保美は喉仏に舌を伸ばし、くちびるで覆う。
俺はそのまま硬直し、奈保美の中に己を放出した。本当は外に出すつもりでいたのに、快楽に負けて、むき出しの肉の欲望に従ってしまった。
頭に理性が走ったが、からだがそれをやめてくれない。最後の一滴がなくなるまで、奈保美の中で硬直し続け、やがて果てた。 片手を落とし、奈保美の脚もすとんと地に着く。
落ち着いてから、己の蛇を彼女から抜いた。
「……ごめん」
快楽が終わり、真っ白な靄が頭から晴れてやってきたのは、強い罪悪感だった。
「……大丈夫。今日は大丈夫な日だから。最後だから、やりたいこと全部やろうよ。お互いのからだにしてみたいことを全部さ。一応、アフターピルは飲むから」
奈保美に、アフターピルを飲むと言わせてしまったことで、さらに罪悪感が増した。 シャワーの出力を強くして、奈保美の足元に屈むと、下から白い性液を流す彼女の性器に向かってお湯をかける。
「わわっ、ちょっと__」
膝をつき、背筋を伸ばすと、右手の二本指を立てて、奈保美の中から性液を掻き出した。
やめてよ、とむず痒そうにわらっていた奈保美は、やがて快楽を感じるようになったのか、脚をこまやかに震えさせた。
シャワーに伝うように、白い液がタイルに流れ落ちてゆく。
シャワーを止めて、ゆびを性器の中から出して、タイルに手を着く。
充分に落ちたのは確認したが、くちびるで性器を舐めて綺麗にした。
まぶたを閉じて、そこを舐めたり口で覆ったりすることに夢中になっていると、奈保美の脚の震えが大きくなり、ついに腰を抜かして背を逸らして痙攣した。
膝からタイルへ崩れ落ちそうになった奈保美を、両腕に抱える。
奈保美は、俺の胸に頬を寄せて荒く息をついていた。頬やまぶたが濡れているが、肌の色は赤く火照って染まっていた。
髪がしなだれて、俺の肩にこぼれている。
そこから流れる水滴が、ぽたぽたと背中をさらに濡らした。
「ごめん……、そこまでしてくれると思わなくて」
「餌与えられた犬みたいになっちまったな」
「……気持ちよかった」
「素直に言うもんだ」
「シャツ着たまんま、入ってくるんだもん。服びしょびしょになっちゃったじゃない」
「ああ、俺は馬鹿だからな。欲望に忠実なんだ」
「はは」
奈保美はひとしきりわらうと、肩に預けていた顔を起こし、俺の顔の正面にまっすぐに寄せた。
熱い鼻息が、人中にかかり、気付けばくちづけを交わしていた。 横に倒れたシャワーヘッドから、途切れなく温かな雨が流れ続けている。
その音を聴きながら、梅雨の湿った時期に、外であいしあったらこんな感じなのかな、と鈍く霞んだ頭の中で考えていた。
その後、ベッドに移動して激しく互いをぶつけ合った。性器はつながり合っているのに、時計の分針と長針のように、からだは別々の角度にあった。そういう体位が、何度か続いた。あいしあっているというのに、少年漫画で最終回に闘いあう、ライバル同士のようなセックスだった。風呂で濡れた身体も拭わず、濡れたまま、互いの汗と汗が混じり合って、互いの一番大事な部分を貫いて包みあう。
奈保美は俺の上に乗って、腰と胸を振りながら、喉をそらして時折激しく鳴いた。
俺は喉を潰された犬のような呻き声をあげながら、下からも上からも奈保美を刺し続けた。その度に激しい快楽がからだを流れて脳天を抜けてゆき、何も考えられなくさせた。
女と繋がっているという、からだの感覚以外の、すべてがなくなる。
風呂場で丁寧に性液を掻きだしたというのに、仰向けにした奈保美の窪んだ腹からへそへかけてのなめらかな坂や、細長いゆびが、頭の下に敷いた枕やシーツを乱れて摑んでいる様や、火照った顔でほとんど伏せられたまぶたの下の琥珀の瞳が濡れて、扇情的に俺を見上げているのを見た時、耐えきれなくなって、強く腰を押し付けて、己の精を、奈保美の中へ吐き出した。
すべてを放出しているあいだ、互いの馬鹿みたいに開いた口と、うすく開いたひとみが、五センチメートルの距離をあけて、重なり合っていた。
琥珀の中央、深いふかい茶の瞳孔の中に、髪も肌も濡れて、命が迸っている俺がいた。
霞のような淡い息が、途切れとぎれに奈保美の口からこぼれて、俺はそれを吸い込んだ。濃密な女の味がした。 ひたりと合わさった胸は、しっとりと湿ってくっついていて、俺の顎から伝った汗が落ちて、浮いた彼女の汗のしずくと混じり、奈保美の胸の谷間のくらやみに流れて消えていった。
俺が最後の白いひとしずくを彼女の中に流し込んだとき、赤く染まって眉を寄せ、歪めていた奈保美の顔が、仏のようにひらけ、口角がわずかにあがった気がした。
俺は意識を手放して、彼女の首すじに顔を埋めると、全身の力を抜いて、奈保美に肌という肌のすべてを重ねた。奈保美の皮膚の中へ、沈んでゆく。視界が青く染まり、徐々に暗さを増してゆく。
溶けて消えてしまうのではないかというほど、意識が闇の中へ遠のく刹那、やわらかなてのひらで、背中をとんとんと叩かれた。肩甲骨の上、どこかの美術館で見た、誰かが描いた西洋画の中に描かれた天使の羽が、ぼんやりと思い出された。
これからの人生を、鼓舞されているような感触だった。



