気づけば、十一月になっていた。紅葉は盛りを迎え、どこを歩いていても、黄金(きん)(あか)が、かがやかんばかりに目につく。それとともに、寒さも極まってきて、もう窓を開けて、眠ったり起きたりすることはできなくなっていた。

ましてや、夜を裸で過ごすことなんて、誰かとふれあっていなければ、できない。



(さみ)ぃ……」



 雪が混じってるんじゃねえか、というほどに、つめたい空気に満ちて起きた朝、ふっと湯気が肌を包むように、奈保美の肌の温度を思いだす。

だが、その温度を感じるのは一瞬で、すぐにまた現実のつめたさが戻ってくる。孤独には、慣れていたはずなのに。

そういうときに、ひときわ切なさを感じ、気持ちを切り替えるために、仕事を始める時間が早くなった。
 俺から奈保美に連絡することはなかったし、奈保美からも連絡が来ることはなかった。暮れてゆく秋に身を任せて、このまま奈保美のことを忘れてしまおうと考えて、日々を送ろうとしたこともあった。

仕事は良かった。立ち止まると訪れる、暗い不安や悩みを、忘れさせてくれる。
 だが、仕事の絵でも、女の裸を描く時や、セックスシーンを描く時、どうしても手が止まってしまう。

ペンを持ったゆびの腹から、奈保美の肌にふれていた時の感触が舞い戻ってくる。熱い、やわらかい、あまい皮膚の感触。きめこまやかでなめらかだが、二十代の、世間的に未だ若いと言われている女たちの肌に比べると、年齢を感じさせる(なまめ)かしさがあり、俺はそこがすきだった。ふれるごとにつやを帯びるが、それは、今まで彼女にふれてきた他の男たちが与えてきた行為と重なって、味を出してゆくものだったと、抱いた俺だからわかる。

そんな女。
 まだ二十七歳の俺のからだは、この秋が枯れてゆくのと一緒に、枯れて消えてしまうのではないか、という感覚に陥っていた。

ペンを握る手に、激しい圧力がかかる時と、まったく力が入らない時があり、日によって波があった。奈保美と再会する前と、会ってあいしあっていた時と、去っていった今では、俺の描く絵に変化が出ていた。

それに気づいたのは、担当編集者の柿崎(かきざき)と、打ち合わせでファミレスに飯を食いに行った時だった。


「5ページ目の4コマ目が、ん〜、ちょっと。もうちょっと右に人物を置いて、セリフを左下にしてもらったほうがいいかと。視線誘導(しせんゆうどう)にもなるので」


「はい」


「あとは〜、もし作画が間に合わないとかありましたら、素材(そざい)使っちゃってもいいかと思うんですけどね」


「いや、間に合うように描いてますし、素材は使わず、その背景は作画したほうが演出的にもいいかと思っています」


「そうですか……。んじゃ、それで」


 柿崎と打ち合わせしていて毎回思うが、この男の喋りの下手さには辟易(へきえき)する。要点だけを伝えて、早く会話を終わらせてくれという気持ちになってしまう。
 だから俺は、淡々とした返答しかできなくなっていた。

以前の担当編集者だった芋高(いもたか)とは、こんな不快感はなかったのに。

担当が変わってから、仕事にやりづらさを感じていた。でも、相手と揉めて仕事を失いたくはないので、当たり(さわ)りのない言葉しか返さない。取引相手に、自分の感情を(あら)わにすることはない。クライアントの要望に極力合わせるが、(ゆず)れないところだけは、はっきりと伝える。それでも相手が折れなかったら、それに従う。それがこの仕事を始めて、自分で決めた処世術だった。


「__辻本先生、何かありましたか」


「何かってなんですか」


「いや……、なんか最近、漫画の作画に変化があるなって思っていて。今まで納品してくれていた人物の輪郭線は、均一でむらがなかったんですけど、ここ2、3ヶ月の……。九月に入ってから? の輪郭線は、線を重ねて繋いでいくような描き方で」


「……ああ」


「味のある感じの絵になってて、それこそ、デッサンとかクロッキーに近いような」


 ここ2、3ヶ月ということは、今年の秋を、奈保美と共に過ごしていた日々だ。

橙の髪が、光彩(こうさい)の中をなびく様が浮かんだが、柿崎に悟られぬようにそっと意識を変える。

まばたきをすれば、夢のようなベッドのあまい景色の中から、すぐにファミレスの安い料理のにおいに包まれる。



「先生の中で、何かあったんですか?」


「……いや、特に変わったことは何も。ただ、見る映画のジャンルが、ちょっと変わったくらいかな」


言いながら、肩を落として、自分で自分にわらった。 
 まぶたを閉じて乾いたわらいをこぼす俺を、柿崎はふしぎそうにみつめていた。

「……前から気になっていたのですが」


「なんですか」


「先生の中で、エロを描いてる時の心境ってどんなものなんでしょうか」


「どんなもの? そうですね……。昔抱きたかったけど、抱けなかった女への、俺の醜い妄執(もうしゅう)かな」


 言いながら、手先がむず痒くなってきた。おもむろに組むと、血流がゆびさきまで激しく巡っていたことに気付いた。あかりが灯るように、あたたかく染まっていた。



 真昼の月が、雲ひとつない空にぽっちりと浮かんでいる。輪郭はあわく、砂糖菓子が溶け始めたように朧だ。周囲を覆う青は、()めても(なお)、まばゆく俺を照らしている。

ブラックのコートとブラックのレザーグローブ、中に着ているシャツもブラックで、履いているチノパンもブラックだった。肩から下げたショルダーバッグまで。    

 茜に染まる景色の中で、俺だけ黒い(からす)のように、しずかに歩いている。
 あれから、奈保美と別れてから、何をしていても、体の内側や皮膚の上に、奈保美の残骸がとどまり続けている。

意識していなくても、その答えは、描く絵の中に、あらわれてしまっていた。


「結局、俺はあんたから、離れられねえんだ」


 奈保美が勤めている美術館の、はっきりとした名前は聞いたことがなかった。だが、彼女の話す言葉の節々(ふしぶし)で、大体どこの美術館にいるかは目星がついていた。 
 何件か都内の美術館を巡る。奈保美のいなかった美術館は、どんなに装飾がうつくしくとも、現在そこで行われている展覧会の内容に惹かれようとも、過ぎ去れば無機質な建物になった。
 今思えば、どれだけ抱き合って互いを与えあい、(むさぼ)りあおうとも、奈保美が、俺に、はっきりと勤めている美術館の名前を伝えなかったのは、いつか俺から離れてゆく未来を想像していたからなのかもしれない。紅葉の盛りを超え、真っ赤に染まりきって、朽ちて枝から剥がれ、舞い落ちてゆく楓の葉のように。

そんな奈保美の気持ちに気付けなかった。

俺は、自分の都合ばかりを考えて、本当の意味では彼女に寄り添って、彼女の視点で、俺を見ることができていなかったのかもしれない。それが情けなくて、口惜(くちお)しかった。


「作家なのに、ひとの気持ちがわからねえなんて、作家失格だな」


 切ない想いは、自分への皮肉にすぐに変えてしまう。そんな楽さに慣れつつも、確かに傷ついていた。誰に危害を加えられるでもなく、自分の中の逡巡だけで。

そんな俺自身が、大嫌いだ。
 朝から晩まで都内の美術館を探す旅が、三日目に突入した日暮れに、ようやく終わった。

奈保美の勤める美術館をみつけた。

二十三区から離れた下町の、森林公園の奥にあった。そこは、奈保美が言っていたように、本当にちいさな美術館だった。煉瓦造(れんがづく)りの壁が、一面、深緑の蔦で覆われている。古いアニメ映画に登場しそうな建物だ。異世界で暮らす西洋風の登場人物たちが、争いや都会の喧騒(けんそう)から(のが)れて、人里離れた森の中で、ひっそりとしずかに暮らしているやわらかな(おり)。そんな想像が、ひと目見た時に浮かんだ。

あいだから覗く煉瓦は、淡い橙で、奈保美の髪が、真昼の光彩の中できらめいていた時のいろを連想させた。
 真鍮製(しんちゅうせい)のドアをくぐり、秘密基地のような美術館の中へ入る。

淡い照明に照らされた薄闇。空気が青をふくみ、しんと温度がひとつ下がった。 
すぐ左に、受付があり、青褐色(あおかちいろ)のスーツを着た妙齢(みょうれい)の女性が、しずかに座って作業していた。

「こんにちは。大人一名様でよろしいですか」


「すみません。知り合いに会いにきまして。桐生奈保美さんという方は、こちらで働いていらっしゃいますでしょうか」


「……ああ! 桐生さんのお知り合いの方でしたか。はい、確かにこちらにお勤めの学芸員です。少々お待ちください」


 受付の女性が内線を繋いでいるあいだ、俺はコートに両手を突っ込んで、エントランスホールを見回していた。

 こぢんまりとしていて、物が少なく、ひっそりと飴色だ。

 ここに立って働く奈保美の姿が、容易に想像できた。


「お客様。いらっしゃいました、桐生さんです」
 


 部屋の角だけが濃く染まっているのを目に留めてから、振り返る。絵画を保護するために、美術館の中は一定の空調が保たれていた。

 その温度がゆれる。


「春一郎くん……。なぜ」


 橙の波打つ髪を背に流し、ワインレッドのスーツを着た奈保美が現れた。すらりと背が高い奈保美に、ひたりとしたパンツはよく似合っている。いつも会う時は、スカートだったので、パンツを履くと、一気に仕事モードの女に見えた。両手に、うすい白のグローブをはめていて、化粧もいつもより落ち着いており、ベージュのマットなアイシャドウを塗っていた。

 焦げた飴色の部屋に、同じ系統の彼女のいろは、よく馴染んでいた。盛りを終えて、穏やかに満ちて枯れてゆく秋が、そこに(たたず)んでいる。


「パンツスーツ、似合ってんじゃん。やっぱ奈保美さん、背ぇ(たけ)ぇからな」


 わざとらしい満面の笑みを浮かべる。はたから見たら気持ち悪いだろうと思ったが、もう奈保美には、俺がサイコパスに映ってしまってもいい。もうどう思われてもいいや。ありのままの俺を見てくれ。


「働いている美術館の名前は、言っていなかったはずだ」


「そんなん、特徴拾いあげればわかる。隙だらけなんだよ。あんた」


 奈保美が、ゆっくりとしかめ(つら)をした。
 俺は気にせず、上体を落として、膝の上に両手をついて支える。

笑みを、歪んだものへと変える。

だが、どこか満ち足りた感情が広がっていた。


「……ようやく見つけた。二十館くらい回ったんだ」


「そんなに。……どうして」


「このまま自然消滅して、あんたと抱き合ってた日々を消化できるかって思ったら、(いな)だったからな」


 顔をあげて奈保美をまっすぐに見つめる。意識せずとも口角はあがっていた。


「ちょっと! あんまり大きな声でそういうこと言わないでくれよ……。美術館の中なんだから」


 焦る奈保美が変に可愛くて、肩をゆらして乾いたわらいをとる。

距離感が、離れたことによって、肉体関係になる前に、ほどよく戻っている気がした。

こんなふうに奈保美に会った時に、軽口(かるくち)を言えるとは思っていなかったので、自分で自分に驚いていた。衝動性というやつなんだろうか。俺も動物だ。予期せぬ行動をする。


「中、案内してよ」


 奈保美の答えを待たずに、体勢を戻して、エントランスホールから展示室に入った。 
奈保美が、背後で両手を伸ばして腰にあて、憤慨(ふんがい)している気配が伝わっていたが、やがて落ち着いた気配に切り替わった。

「仕事モードの奈保美さんて、そんな感じなんだ。本当に落ち着いたオトナのオンナって感じでいいね」


「馬鹿にしてるの。 馬鹿にしにきたの? 私の職場まで来て!」


 俺がいじると、安定させようとしていた気配が、またゆらぐ。 それにたのしさを感じ始めた俺は、本当に屑だ。
 こんなに感情の起伏が激しくなっている奈保美は、初めてだった。


「仕事場なのに、いいのかよ。他の客が見てるぞ」


 首だけを巡らせて、奈保美を見る。 俺と焦点が合った奈保美は、たじろいで佇まいを直した。まるで木のようだ。風雨にさらされれば葉がゆれ、落ち着いた陽光の元では、しずかに緑の気を放つ。


「……勝手に職場まで来て、こんな態度取るなんて、本当にいじわるだ。君は」


 まぶたを半分伏せて、あきれた顔をする。そんな顔をさせてしまったことに対しても、罪悪感は微塵(みじん)も湧かなかった。


「せっかく来たんだ。展示見せてくれよ」


「美術館の展示を見にくるために、ここに来たの?」


「そうじゃねえけど、あんたとずっと会話してても揉めそうだし……。わかってもらえなさそうだから、ひと通り美術品見て、落ち着いてからのほうが、話しやすいだろ」


「……わかった」


「仕事モードの奈保美さん、見せてくれよ」


「はは、たのしみにしてろよ……」


 そう言うと、奈保美はしずかにまぶたを伏せて、さらにしんと落ち着いた気配を纏った。どことなく、青い燐光が内側から放たれていた。
 俺の部屋の中で、薄青い影を纏った裸の奈保美も良いものだったが、淡い照明の中で、ぼんやりとおぼつかない輪郭を持った奈保美も格別(かくべつ)だった。彼女が動くたびに、(おもて)の至るところが、てらりと象牙色でいろどられる。久しぶりに目にするせいか、奈保美の姿が、以前目にしていた時よりも、さらに発光してみえた。

 すきな女に対する、男の特別な本能なのだろうか。

 自分でもよくわからなかった。混乱するほど、この女に溺れていた。


「……綺麗だな」


「ああ、この絵? これは印象派のブーダンの作品。『空の王者』なんて呼ばれてるくらい、空の描写が綺麗なんだ。これは『工事中のトゥルーヴィルの港』っていう作品だね。ブーダンは、空や海辺の描写の中でも、特に人気リゾート地、トゥルーヴィルや、ドーヴィルの海水浴客を描いたことで知られている*」 



__いや、あんたが。
 聞かずとも蘊蓄(うんちく)垂れ流す奈保美が、仕事のスイッチが入ったんだろうことはわかった。

 言わずとも伝わると思っていた意味は、奈保美の中にとどまらず、こぼれ落ちていった。それが切ないとも思わず、これが当たり前なんだなと理解できるくらいには、おとなになっている。 奈保美は、俺と等間隔で並んで、ひとつひとつ展示されている絵画や、工芸品について解説してくれた。その知識量や、落ちついた話し方などは、普段の奈保美とはまた違っており、彼女が美術史のプロなんだ、ということを実感させてくれた。言葉として形になった知識のひとつひとつが、水滴が岩に染みるように頭の中に落ちてくる。もっとこの声を聞いていたかった。これは俺が肌を合わせた男だから感じる感覚なのだろうか。そうではなくても、誰が聞いても奈保美の解説は心地がいいと思って欲しかった。気まずい間柄になってしまった男女の仲だということを感じさせる隙も与えず、丁寧な解説を続けてくれる奈保美の姿は、一種の職人だった。この展示を巡るちいさな旅が終われば、また俺たちの関係は、(いびつ)で修復のできないものになってしまうのだろうか。この心地の良い時間と声が、永遠に続いてほしいという気持ちになっていた。
 いつの間にか第三展示室の最後の部屋まで来ていた。疲れはない。ゆっくりとした足取りで歩いていたせいか、歩いているという実感すらなかった。かすかな照明だけが灯された、薄暗いボルドーの展示室は居心地よく、保たれた空気もからだに馴染んだ。

「これは……」


 俺は、最後から4枚目の絵画の前で、足を止めた。 ひたりとした靴音が鳴る。奈保美も隣で、足を止めてくれたのだ。

「春一郎くんは、これがすき?」


 呆然と絵をみつめる俺を覗き込むように、小首を(かし)げて奈保美が聞いてくる。片側だけに流れた髪が、淡い照明の中できらきらとゆれる。好奇心が(うず)いている、女の髪の動きだった。 
 その絵は、ヘレン・シャルフベックの『快復期(かいふくき)』という作品だった。
 紺色の服を着て、栗色の髪をした、青い瞳のちいさな少女が、構図の真ん中にいる。少女の髪は、寝癖がついてゆるゆると跳ねており、寝起きであることが伝わる。からだに合わないほど大きく広い、白いシーツをくるくると巻きながら、白とカラフルなクッションがふたつ置かれた、大きな籐編(とうあ)みの椅子に腰掛け、机の上に置かれた、ちいさなカップに生けられた新芽が生えた小枝に顔を寄せて、瞳をかがやかせている。

 カップの周囲には、葉がこぼれ落ちていてあどけない。机の上にはその他に、硝子の小瓶や、本が置かれており、生活感を感じさせる。親の部屋にこっそり遊びに来たのだろうか。

 落ち着いた色彩に、髪や白がひかりをふくんでいるようで、しずかな生命力と希望を感じさせる絵画だった。


「ヘレン・シャルフベックは、フィンランドを代表する女性画家だ。

 3歳の時に足を不自由にして、生涯杖をついて生活を送った。

 この絵画は、イギリス南西部のコーンウォール地方にある海岸沿いのちいさな町、セント・アイヴスで1888年に描かれた。

 モデルは6歳の少女だと言われている。

 翌年の1889年に、パリ万博のフィンランド・パヴィリオンにこの絵画が選出されて、フィンランドとしては初めての銅メダルを獲得して、国際的な名声を得た。

 シャルフベックは当時、フランスのブルターニュ地方のポン・タヴェンで知り合った、イギリス人の風景画家と婚約していたんだけど、相手からの手紙一通での一方的な婚約破棄をされるという、つらい失恋をして、心を病んだ。

 そんな時に、彼女の親友のマリアンネ・ストークスという女性画家が、彼女を招待して、風光明媚(ふうこうめいび)なイギリスのコーンウォール地方、セント・アイヴスを旅する。

 マリアンネのアトリエで描いたのが、『快復期』だった。この絵は、シャルフベック自身の心の快復も、重ね合わせられているんだよ」 解説を聞きながら、俺は過去に絵が描けなくなった時期のことを思いだしていた。あのときは、さきの見えない迷路の中で、ずっと誰かに責められながら、苦しんでいる状態だった。

「ひとはいつか快復する。地獄のような暑い真夏に、空がつめたい秋の空気を連れてきてくれるように、大学4年生の時に取った北欧美術史の講義の中で、ヘレン・シャルフベックのことが紹介されて、それから私もずっとこの画家が、すきなんだ。人生で落ち込んだときや病んでしまったときに、この絵を見て、何度も励まされていた。今は休んでいる時期だけど、いずれ必ず快復する。人間のからだは、そういうふうにできているって」 



 前の会社のことを言っているのだろうか。奈保美の言葉の中に、彼女の通り過ぎてきた人生の片鱗(へんりん)(にじ)みでていた。俺より十年も長く生きているだけあって、奈保美が真面目な話をするときは年輪(ねんりん)を感じて、皮膚から、からだに染み込んでくる感じがある。
 右の二の腕がぞわりとして、左手で押さえた。しずかで、心地よいが、俺と一緒にいないあいだに、彼女がどれだけ努力して、学芸員としての勉強を重ねて、今の仕事に就いたのかを感じさせる。

 そう、俺のいない世界。

 俺がいなくても、奈保美には奈保美の世界があり、これからも歩み続ける。そういう未来が、切ないほどにはっきりと見えていた。


「……俺は今日ここに来てよかった。本当は奈保美さんとまた会ったら、もっと関係が歪になって、もう取り返しのつかないことになるんじゃないかって若干(じゃっかん)怖かったんだけど、奈保美さんの仕事のことがわかって、仕事をしている時のあんたの姿や、佇まいが見れてよかったよ」


「十年会わなかったかと思えば、ゼロ距離でくっついたり、また離れたり、忙しい関係だね。私たちは」


 奈保美の声に、あたたかだが、せつないものが混じっていた。 俺は、絵画から奈保美に視線をうつす。
 泣きわらいのような顔で、俺をまっすぐにみつめていた。ゆれる琥珀の瞳が、淡い橙の照明に浮かびあがるような、金の粒を浮かべて。

「……あんた、泣いてんのか」


「あっは、それ聞いちゃうんだ」


 くしゃりと顔を歪めてわらう。目尻から涙の粒が浮きあがり、頬に張り付いて落ちずに保たれていた。
 それを拭ってやろうかと、下ろしていた右手をそっとあげたが、思いとどまって停止した。

 今、俺にそれをやる資格はない。


「春一郎くん。やっぱり私、仕事がすきなんだ。君のこともすきだけど。春一郎くんもそうでしょ」


「……仕事でなんかあったのか」


 鼻からしずかに息を吐き、かるくうつむくと、奈保美は右の足先を前へ出し、左足を少し下げた。そのままつま先をゆるゆると動かし、(みやび)な円を描く。

 くちもとは相変わらず半月の形に笑み、眉尻が下がって、そこだけかなしみや、せつなさが宿っている。


北欧(ほくおう)の美術館に、誘われてるの。去年書いた論文が、学会で結構評価してもらえて、向こうで働きながら研究を続けないかって」


「……学芸員としてってこと」


「そ。働きながら、北欧の大学にも、たまに講師として参加させてもらえることになって、そっちの教授にも、教えを()おうかなって。私は根っからの研究者なんだ。人生の重きを、そちらに置いてしまう」


「へー。よかったじゃん」


 話しながら、奈保美の言葉が、頭の上を雲のように漂って、霧に変わり、少しずつふれてくる。

前もこんなことあったな。俺たちは、もうそういう運命なのかもしれない。いっとき深く関わって、やがてまた離れてゆく。互いのやりたいことをやるために、成すべきことを成すために。

 漂っていた蒸気が、すべて皮膚の中に染み渡った時、ある種の前向きな諦念が、喉を覆っていた。苦しくはなかった。あまい喉飴(のどあめ)が、癒し始めていた。

「本当は断ろうと思っていた。君と一緒にいたかったから。でも、君との関係が一度壊れて、離れてしまってから、数日のあいだ、私には美術史の研究しかなくなった。それに夢中になることで、君との傷が癒えてゆくのを感じていた。だから__」



「わかったよ」

 俺も応援してる、と口にする準備をしていた。舌を口内で回して、乾きをうるおして、発音が変にならないように。


「でも、でもね。日中仕事と研究をして、美術館を去って家に帰った後に、頭の中を()めていたのは、春一郎くんのことだけだったんだ」 



 舌の動きが止まった。
 か細い動きに変わっていた、奈保美の足の動きも、しずかに終わる。


「自分でも、変なこと言ってるってわかってる。最低だよね。自分から変なこと言って、離れておいて。仕事で遠くに行きたいとか言っておいて、それでも君のこと考えてるなんて__すきだなんて」


 改めて、「すき」って言われるとむず痒い感じがした。あんなに抱き合っていたというのに、初めて受けた告白のように、甘酸っぱく、せつない。

 それで気付いた。自分の感情がどういうものなのか。恥ずかしいんだな、こんなに

おとなになってまで。 数秒、時が止まったような気がした。


「その話さ。今ここでするんじゃなくて、ちょっと後でしない? 館内だし」


 意識して口を動かす。 他にもひといるからさ。と、周囲を見回す仕草をする。
 作品や、奈保美との話に夢中になっていて、俺も忘れそうになっていたが、未だ館内には、少しだが他にも客はいるのだ。

 左斜め後ろで、別の作品を鑑賞していた落ち着いた雰囲気の老夫婦が、こちらを(いぶか)しげに、ちらちらと見やっている。
 奈保美は、俺に言われて、それに気づいたらしく、瞠目(どうもく)して一時的に硬直した。

 そして力なくわらった。


「学芸員失格だな」


 俺もなんだかおかしくなり、ここに来て初めて、心の内側から湧きあがる、かすかな笑みを浮かべた。