朝起きると、小雨(こさめ)のように、カーテンの隙間からひかりがこちらへ燦々と降りてきていた。 
銀杏(ぎんなん)の香りがする。このマンション近くの大通りは、イチョウ並木になっている。そこから香ってきたのだろうか。葉の姿を目にしていないが、自然と目の前に、金色の()の葉がきらきらと舞っているのが浮かぶ。

「あれ……」


 昨日俺を抱いてねむっていた奈保美のやわらかな寝顔が、隣になかった。


「先に起きたのか」


 両腕で支えて上体を起こし、右手でとんとん、と隣の淡い(へこ)みを叩く。

()だ、生暖かい。 

風が、やわらかく下になびいた前髪をゆらす。いつの間にか、窓も少し開いていたらしい。

「奈保美が開けたのかな」


 昨夜よりもつめたい温度にふれ、鼻がむずむずとする。まぶたを閉じて風が通るのに身を任せると、剥き出しになっていた、かすかな乳首のふくらみが硬くなり、昨夜、奈保美のゆびさきで、やさしくこねられていた時の感覚を思いだす。

敏感になった乳首を、片手をかざしてそっと微風から(まも)る。

気付けば、まつげの上や線と線のはざまに、きらきらとしたものが宿っていた。昨日、俺は眠りながら、少し涙を流していたらしい。濡れたままのまつげを通して、消えた奈保美を探す。 
掛け布団をめくると、剥き出しになった下半身が、朝日に白く照らしだされている。
 ベッドの下を見下ろすと、俺の黒のスウェットパンツが、綺麗に畳んで置かれていた。

「奈保美が、やってくれたのかな」


 腰をあげ、しずかにベッドから降りると、背を屈めてスウェットパンツを取り、履き直した。すぐそばに、同色のトレーナーも畳んで置かれていたので、それも拾い、広げて、頭から被って着た。 
寝室からリビングに出る。からんとした薄青い部屋に、奈保美の姿はなかった。
 併設されているキッチンの流し台に、水滴のついたガラスコップがあり、水を飲んだ形跡(けいせき)があった。
 透明なコップをかるく持ちあげて、右に傾けてみる。底に残された水滴が集まって、ひとつの泉を作る。さらにそれを傾けて、銀色のシンクに残された水を捨てる。生まれたての命のように、きらめいて落ちてゆく。
 隣の俺の仕事部屋のドアが、開いていた。かすかな隙間から、秋のあまく枯れた香りが漂っている。奈保美の香りだった。

「そこにいんのか」


 コップを流し台の上にふたたび置く。氷が砕けるようなしんとした音が鳴る。
 仕事部屋のドアに近づくと、ひらいている。

隙間から、奈保美の背中が見えた。
 ゆたかな波打つ橙の髪が、朝日に照らされ檸檬色のつやを浮かべている。色のついた透明な膜を張ったように、瑞々しい。

ノースリーブの、海色のワンピースを着ていた。俺の部屋にはないものだったので、奈保美の持参品か。剥き出しになった肩に、夜の奈保美の肌を重ねた。

ゆびさきで、白く照る彼女の輪郭を撫でたくなる。


「奈保美さん」


 ドアから中に入り、さらに彼女に近寄った。 奈保美がかすかにうつむき、髪が前へ流れる。

「奈保美……?」


 髪の線の上を流れるつやの面積が、さらに広がる。小刻みに肩が震え始めた。 

ほとんどくっつくように、奈保美の背中にさらに近寄り、彼女の手元を見る。
 目を瞠った。

 それは俺が、趣味で描いていたエロ漫画だった。奈保美に似たゆたかな波打つ髪をした女が、正常位(せいじょうい)で男に抱かれている。

男の顔は、女に覆い(かぶ)さっていて、こちらからは見えない。

首すじに顔を埋める男を、仰向(あおむ)けで抱きしめる女の顔は、汗に濡れて恍惚(こうこつ)としている。髪が額や頬にすじを描いて張りつき、くちもとは笑んでいる。

長い脚は、男の尻の上の窪みと、太ももにからみつくように乗せられ、己の肢体に男を(みずか)ら寄せている。

とても(あで)やかで、どこか恐怖も感じさせるページだった。

絵は、仕事の為にデジタルで描いている漫画と違い、白い原稿用紙に、黒いインクとペンで描いたアナログ作画だった。



「それは__」



「……君から見た私の姿ってこんななんだ」



 奈保美の声は、不自然なほど平坦で、落ち着いていた。



「違う」



「何が違うのさ。これ、私だよね」


 ページを支える奈保美の両手が、ゆっくりと拳の形に握られ、ゆびに巻き込まれて、紙がくしゃりと曲がる。


「君の前でしか話していないセリフが出てくるもの。春一郎君から見た私って、こんなふうに映っていたんだ」


 剥き出しになっていた肩が、岩が割れんばかりに大きく(うごめ)く。 俺は思わず、奈保美の肩を抱きしめていた。
 熱のある声と反して、肩は水を浴びたように冷えている。

「私とのセックスを、見ず知らずの他人に売って、お金にしていたの」


 両腕を前に回して、胸の上で交差させた。奈保美が痛みを感じない程度の強さで。

 丸い襟からかすかに出ていた鎖骨に、二の腕がふれる。頂点に向かうにつれて盛りあがる胸が、すべる俺の腕の動きを止めてくれる。

「違うよ。これは金を得るために描いたんじゃない」


「じゃあ。なぜ」


「俺は根っから画家なんだ。すきな女を、絵に描きたくなるのは、(さが)でしかない。言い訳にしか聞こえないだろうけど。あんたと重ねた時間の断片が、俺の中で常に渦を巻いていて、止まらなくなったから、自然に紙に流してた」


 交差させた腕の力を強める。俺の腕と、首すじに挟まれた奈保美の髪が、盛りあがり、たゆむ。


「あんたのことを侮辱(ぶじょく)したり、ネタにしたかったから、描いたわけじゃない。これは俺用の漫画で、他の誰にも見せたことはない。あんたがいやなら捨てる。今破り捨ててもいい」 



 胸の上で交差させた腕を、力をゆるめておろし、奈保美の腹の下でもう一度組んだ。両手のゆびさきだけを重ねる。血が通っているはずなのに、さきだけが、氷のようにつめたくなっていた。


「それくらい、あんたのことが、すきなんだ。奈保美さん」


 その言葉は、嘘じゃなかった。今まで付き合ってきた、どんな女とも出来なかった事や、感情を、奈保美にだけは持っている。 朝日は清らかで、真新しいひかりに満ちているというのに、俺の仕事部屋だけが夜に取り残されている。いや、俺と奈保美さんの周りだけが、ずっと薄青いくらやみの中にたゆたっていた。
 永遠にも思われる時が流れた。
 奈保美が、両手に持っていた原稿用紙を、そっとデスクの上に置いた。
 手にふれていた部分が、くしゃりと少し歪む。
 そして、しずかに下に伸ばされた俺の手の甲に、てのひらを重ねた。ゆびの腹がふれるだけの、かすかな感触がする。奈保美の手のひらも、俺と同じ温度をしていた。つめたく、血が通っているはずなのに、秋の空気と等しい。


「……最近の春一郎君のセックスがさ。私に依存(いぞん)しているように感じる時があったんだ」


 しずかな水の流れのような声。
 重ねられたゆびさきが離れてゆく。奈保美の肩に乗った俺の二の腕も、ゆっくりと剥がされてゆく。
 一拍(いっぱく)置いて、奈保美がこちらを振り返った。振り返る瞬間、俺から一歩、からだを引いたのがわかった。わずかな風が起こる。

「君はずっと、私の背中の傷に気付いていながらも、あえて私を抱く時は、その傷にふれないようにしてくれていたね」


「ああ……」


「本当はずっと怖かったんだ。いつ君に、背中の傷について訊かれたり、ふれられたりするんだろうって」


「そんな……、そんなふうに考えてたんなら、早く言ってくれればよかったのに」


「言えないよ。背中の傷の話になったら、君との関係が壊れてしまうんじゃないかって不安だった」


「壊れるわけねぇだろ。……一度離れて、また再会して、お互いのこと未だ、すきだったじゃんか。それくらいの関係なのに、そんなことで壊れてたまるかよ!」


 離された距離を詰めようと、足をあげかけて、おろす。奈保美が離した距離を、今は無理に詰めるのはやめようと、意識が俺のからだを止めた。


「君とセックスしていて、時々恐ろしくなることがあった」


「なんで……」


 左の二の腕を右手で摑み、視線も左に向けた奈保美の瞳は、眼鏡のレンズが白く反射して見えなくなる。ネガティブな感情が放たれているというのに、右側だけ輪郭が朝日に染められた奈保美のからだは、ただただ静謐(せいひつ)で。かなしいくらいに、綺麗だった。


「会社員時代に、付き合っていた上司のことを思いだすようになってしまったんだ。君が私を抱く力が強いと感じるたび、それを少し痛いと感じるたび、上司のことを思いだすようになっていた。君も、私を抱くことで、君の中に眠っていた性欲が狂気へと変わって、上司のようになってしまうのではないか、と恐ろしかった。私と関わったことで、やさしかった君のセックスが、どんどん荒く、歪んでいってしまうんじゃないかって」


 そんなことねえよ、と言おうとしたが、うすくくちびるをひらいて、止まってしまう。わずかにあげた腕も止まり、肩が重くなる。

 視界が灰白色がかり、斜めにくらりと動く。

 思い当たる節が、色々とあった。

 女を抱いている時は一種のハイになっていて、記憶が飛ぶことがあるが、からだが覚えていた。奈保美を抱いている時の、湿った肌の質感と共に、俺の腕や脚が、彼女に対してどう動いていたかが、頭の中をけむりのように駆け巡る。からだが感じていたのは、快楽と、確かな嗜虐心だった。

 それに気付いた時、俺の腹を()かんばかりの罪悪感が襲った。


「……ごめん。そう思わせてたんなら、悪かったよ」


 自分でも驚くほど、声が掠れて出た。 左にうつむいていた奈保美が顔をあげる。頬にこぼれていた髪が、薄青いつやを描いて肩に流れた。レンズが一度、激しく(きら)めいて、大きな琥珀が射抜くようにこちらを見ている。
 俺は、その枯葉が燃えるような視線を、直視出来なかった。直視したら、自分の中の狂気を認めてしまいそうで、怖かった。
 そこに映るのは俺ではなく、薄青の部屋だけだった。

「距離を置こうか。互いが、これ以上壊れてしまう前に」


 風が吹いた気がした。 奈保美の提案に、すぐには何も言えなかった。

「君のファム・ファタールになりたくはないんだ」


 低く、砂糖菓子のように、舌でふれればすぐに消え入りそうな声だった。
 俺がうつむいていると、奈保美は仕事部屋から音を立てずに出ていった。まるでしなやかな猫のように。

俺の真横を通る時に、心配げに俺に視線を投げてくれていたが、それでも俺は、顔をあげて奈保美と視線を交わすことも、彼女をふたたび抱きしめて、歩みを止めることも出来なかった。 
秋の香りが、離れてゆく。俺の元に、永遠に(とど)まっていると思っていた、ゆたかな秋が。
 奈保美が荷物を整理して、部屋のドアを閉める、ぱたりという音が遠くのほうで聞こえた。
 後に残されたのは、また一日が始まることを告げる白い空に、くっきりと明暗をつけられた無機質で粗雑な部屋と、女を失った男のからだだけだった。
 仕事部屋のデスクに置かれた原稿を、片手で拾う。

動揺していたというのに、紙は破かず、そのままにしてくれていた。奈保美のやさしさだろう。 鉛筆で下書きし、Gペンで線を描き、筆でツヤベタを塗った。久しぶりに描いたアナログ原稿だった。

「……これでも、手ぇ汚しながら、時間割いて描いた原稿だったんだけどな」


 皮肉な思いが湧きあがり、俺はやっぱり屑なんだと自覚する。口角が自然にあがった。暗い笑みしか浮かべられない。馬鹿な俺。
 原稿を目の前に()るすように左手でかざすと、右手で端を持ち、さーっと縦に裂いてゆく。面白いくらいに簡単にふたつに破けた。

ゆびさきの力をゆるめると、ひらりと大きな花弁が落ちるようにゆっくりと舞い、一枚は俺の右足の上に、もう一枚は床に落ちた。

女を抱いた後に訪れる虚無感がやってきて、絵が描かれていない、空白の箇所(かしょ)を、見下ろし続けていた。
 少しひらいた窓からこぼれて流れてくる空気に、氷が数粒砕けて散ったようなつめたさを感じた。

 もうすぐ冬が来る。秋の味覚や景色を、奈保美と堪能(たんのう)することもなく、秋が終わろうとしていた。俺は終わりゆく秋を惜しむこともなく、ただ時の流れに身を任せていた。

 それくらい、何も考えられなくなっていた。枯れて枝から離れてゆく木の葉と同じだった。