一週間後の水曜日に、奈保美から「仕事がやすみだ」と連絡が来て、俺の部屋にやってきた。
秋が深まり、肌寒さが増した夜だった。
空は、雲ひとつなく透き通った闇が覆っていた。その中で乳白色の月あかりだけが窓から降りそそいでいた。
その日は、なぜかカーテンをかけていなかった。交わるのだったら、馬鹿なんじゃないかと思われる決断だったが、四角い窓から切り取ったような秋の夜空が、ぼんやりと浮かびあがる奈保美の裸体の背景になっていた。
「例え話さ。わかる?」
「あ?」
離れてしまえば感じる肌寒さから逃れるように、互いの肌の求め合いが終わった後、ぬくんだからだで奈保美が話し始めた。
湿った肩が、降りてきた月あかりで、発光するように照らしだされている。それと呼応して、奈保美の紺色の影が、濃さを増していた。下半身を掛け布団で覆って、均一なあたたかさで、気怠いからだは癒されていた。それと反して、剥き出しになった上半身は、奈保美とふれあっていない肩以外は、冷えてゆく一方だった。だが、高まってしまった本能を落ち着かせるためには、都合の良い寒気だった。
「例えば、私じゃなくて、春一郎くんに相手がいた場合の話さ」
「ああ。……また、突拍子もねえな」
奈保美は腕を伸ばして手先を組んだ。薄紫のネイルに、月光のしろい影ができる。陰影のはっきりした奈保美の輪郭が、隣に立ち現れる。
奈保美が話を再開する前に、サイドテーブルに置いてあった赤いライターと煙草を一本取り出し、咥えて、くちもとで手を添えた。
半分閉じたまぶたの下から覗く彼女の眸に、青い炎が映る。
焦げたあまい薫りが、すん、とただよってきた。
「聞かせてよ。奈保美さんの妄想」
うすい煙に包まれても、奈保美は気にせず話を続ける。微笑みを浮かべながら歌うように。
「私のほうが、一方的に君に恋焦がれていたとする。でも私は、君と相手の女の子とのしあわせを祈るんだ。しあわせなんて言葉、苦手だけれどね」
「積極的な奈保美さんらしくないじゃん」
「積極的だと思っていたの。私のことを?」
はは、わらえる、とあやしげに腹を押さえて、奈保美は上体を倒して震えていた。
俺は隣で、素知らぬ顔で、背すじを伸ばして深く煙草を吸う。吸いながら肺があまい灰色で汚されてゆく光景を思い浮かべていた。
その中に奈保美がいて、俺の生み出したけむりと共に、染められている。
「まあ、いいか。いまさら君にどう思われていたって」
奈保美が眼鏡をかけ直す素振りをしたが「ああ、そういえば眼鏡は外していたんだったね」とつぶやいた。
「私への気持ちよりも、相手の女の子への気持ちのほうが大きかった場合、君は、私の元からいなくなるだろう。そうなった時に、私は君に対してなんて思うだろう。それを考えていた」
「……実際は逆のケースだったけどな」
「まあ、そうだね」
「なんて思うの」
「来世で、もう一度私と出逢ってくれって。今生では結ばれることはなかったけど、来世でもしも、私のことがいちばんすきになってくれたら、その時は、私を抱きしめてねって」
少女漫画みたいな話だった。聞くやつによっては嘲笑されるような綺麗な話だ。
それをたのしげに、少し真面目に語る奈保美が、やっぱりすきだった。 俺は口から煙草を外し、ナイトテーブルに置いた灰皿の上に垂直に立て、押し潰した。銀色に溶けて、紅く染まった煙草の先が沈んでゆく。
その様子を黙って見下ろしていた。
灰皿から顔をあげると、奈保美がこちらをそっと見ていた。髪を束ねず、左鎖骨の上にそっと集めて下ろしている。愉快な話をした後だというのに、かすかに口角をあげて笑んだ眉はかなしげに下りていて、憂いをふくんでいる。
「なんで、そんなに悲しそうな顔をする」
「えへへ。だって、本当にそうなったら悲しいなって」
「別になんも悲しくねえだろ。現に今俺たちは今世で結ばれている状態だ」
「そうだね……」
「何が、かなしいんだ」
俺は泣きそうな笑顔を浮かべる奈保美に、自然と顔を近づけていた。
「煙草のにおいがする」
「あんたも常に、どこかしらから煙草のにおいがしてるけどな」
互いの湿った吐息が交差して、くちびるを濡らしてゆく。
「あんたは、自分で気づいてないかもしれないけど、存在が扇情的なんだよ」
「それって褒め言葉?」
答えを返さず、奈保美に顔を寄せた。
下から掬うように、奈保美のくちびるを舐めると、奈保美は紅い舌先を出して、俺の舌の上に自分の舌を乗せた。それごと喰らい、くちびるをくちびるで覆う。
肺の中に溜めていた、煙草のあまくて苦い味が、奈保美の香りと混じって、初めてのくちづけのような甘酸っぱい味となる。
顔をかすかに傾けて、奈保美のくちびるを貪ったまま、掛け布団の中から右手を出した。月あかりと紺色に、陰影がくっきりとわかれている豊かな奈保美の左胸を、ためらいもなくそっと摑む。 奈保美はびくりと震えた。
俺は、閉じていたまぶたをひらいた。
目の前に広がる奈保美の丸いまぶたが震えている。そのままみつめていたら、鋏で切られたように、瞳がうっすらとひらいた。
肌の色が、乳白色と薄青に染められているというのに、琥珀の瞳だけは燃えるようにかがやいていた。これこそが扇情だ。 俺のからだの中で渦巻く性欲の権化が、鎌首をもたげて奈保美を求めていた。
くちびるを放すと、互いの唾液が銀の橋となってつながっていた。ゆるりとした繋がりは、離れるごとにぷつりと途絶え、あとはやわらかく確かな感触の余韻だけが残る。
左胸から手を離し、体勢を変えて奈保美に覆い被さる。
より濃い紺色の影をまといながら、俺を見上げる奈保美は、肌が湿り気を帯びて、ひとみはうるみ、すでに男を受け入れる女の顔になっていた。
俺は徐々に距離を詰めて、奈保美とふたたび肌を合わせていった。橙の髪は蒼いつやをはらみながら波のように広がり、ベッドの影は海いろに濃く、奈保美の肌の色も、点々を繋ぎ合わせたような、檸檬色と青の色彩で彩られ、琥珀の瞳は、泣くように濡れている。今宵だけ、そこはオフィーリアの絵画に似ていた。どこまでも、深くふかく潜ってゆけそうな褥で、俺たちは水にたゆたうひとつのかたまりとなって交わった。
抱擁が終わると、また夜がしずかに俺たちの上を流れて、包み込んでゆく。その晩の俺は、奈保美からうまれたこどものように、彼女の腕の中でゆったりと抱きしめられながら、胸の谷間のあまいにおいを嗅いで眠りについた。どことなく、しんとほどよいつめたさになっていたベッドの中で、そこだけ血の通ったぬくもりが、確かに存在していた。
背中に回された奈保美の手が、ひらひらと心臓を鼓舞してくれるように動いていた。
秋が深まり、肌寒さが増した夜だった。
空は、雲ひとつなく透き通った闇が覆っていた。その中で乳白色の月あかりだけが窓から降りそそいでいた。
その日は、なぜかカーテンをかけていなかった。交わるのだったら、馬鹿なんじゃないかと思われる決断だったが、四角い窓から切り取ったような秋の夜空が、ぼんやりと浮かびあがる奈保美の裸体の背景になっていた。
「例え話さ。わかる?」
「あ?」
離れてしまえば感じる肌寒さから逃れるように、互いの肌の求め合いが終わった後、ぬくんだからだで奈保美が話し始めた。
湿った肩が、降りてきた月あかりで、発光するように照らしだされている。それと呼応して、奈保美の紺色の影が、濃さを増していた。下半身を掛け布団で覆って、均一なあたたかさで、気怠いからだは癒されていた。それと反して、剥き出しになった上半身は、奈保美とふれあっていない肩以外は、冷えてゆく一方だった。だが、高まってしまった本能を落ち着かせるためには、都合の良い寒気だった。
「例えば、私じゃなくて、春一郎くんに相手がいた場合の話さ」
「ああ。……また、突拍子もねえな」
奈保美は腕を伸ばして手先を組んだ。薄紫のネイルに、月光のしろい影ができる。陰影のはっきりした奈保美の輪郭が、隣に立ち現れる。
奈保美が話を再開する前に、サイドテーブルに置いてあった赤いライターと煙草を一本取り出し、咥えて、くちもとで手を添えた。
半分閉じたまぶたの下から覗く彼女の眸に、青い炎が映る。
焦げたあまい薫りが、すん、とただよってきた。
「聞かせてよ。奈保美さんの妄想」
うすい煙に包まれても、奈保美は気にせず話を続ける。微笑みを浮かべながら歌うように。
「私のほうが、一方的に君に恋焦がれていたとする。でも私は、君と相手の女の子とのしあわせを祈るんだ。しあわせなんて言葉、苦手だけれどね」
「積極的な奈保美さんらしくないじゃん」
「積極的だと思っていたの。私のことを?」
はは、わらえる、とあやしげに腹を押さえて、奈保美は上体を倒して震えていた。
俺は隣で、素知らぬ顔で、背すじを伸ばして深く煙草を吸う。吸いながら肺があまい灰色で汚されてゆく光景を思い浮かべていた。
その中に奈保美がいて、俺の生み出したけむりと共に、染められている。
「まあ、いいか。いまさら君にどう思われていたって」
奈保美が眼鏡をかけ直す素振りをしたが「ああ、そういえば眼鏡は外していたんだったね」とつぶやいた。
「私への気持ちよりも、相手の女の子への気持ちのほうが大きかった場合、君は、私の元からいなくなるだろう。そうなった時に、私は君に対してなんて思うだろう。それを考えていた」
「……実際は逆のケースだったけどな」
「まあ、そうだね」
「なんて思うの」
「来世で、もう一度私と出逢ってくれって。今生では結ばれることはなかったけど、来世でもしも、私のことがいちばんすきになってくれたら、その時は、私を抱きしめてねって」
少女漫画みたいな話だった。聞くやつによっては嘲笑されるような綺麗な話だ。
それをたのしげに、少し真面目に語る奈保美が、やっぱりすきだった。 俺は口から煙草を外し、ナイトテーブルに置いた灰皿の上に垂直に立て、押し潰した。銀色に溶けて、紅く染まった煙草の先が沈んでゆく。
その様子を黙って見下ろしていた。
灰皿から顔をあげると、奈保美がこちらをそっと見ていた。髪を束ねず、左鎖骨の上にそっと集めて下ろしている。愉快な話をした後だというのに、かすかに口角をあげて笑んだ眉はかなしげに下りていて、憂いをふくんでいる。
「なんで、そんなに悲しそうな顔をする」
「えへへ。だって、本当にそうなったら悲しいなって」
「別になんも悲しくねえだろ。現に今俺たちは今世で結ばれている状態だ」
「そうだね……」
「何が、かなしいんだ」
俺は泣きそうな笑顔を浮かべる奈保美に、自然と顔を近づけていた。
「煙草のにおいがする」
「あんたも常に、どこかしらから煙草のにおいがしてるけどな」
互いの湿った吐息が交差して、くちびるを濡らしてゆく。
「あんたは、自分で気づいてないかもしれないけど、存在が扇情的なんだよ」
「それって褒め言葉?」
答えを返さず、奈保美に顔を寄せた。
下から掬うように、奈保美のくちびるを舐めると、奈保美は紅い舌先を出して、俺の舌の上に自分の舌を乗せた。それごと喰らい、くちびるをくちびるで覆う。
肺の中に溜めていた、煙草のあまくて苦い味が、奈保美の香りと混じって、初めてのくちづけのような甘酸っぱい味となる。
顔をかすかに傾けて、奈保美のくちびるを貪ったまま、掛け布団の中から右手を出した。月あかりと紺色に、陰影がくっきりとわかれている豊かな奈保美の左胸を、ためらいもなくそっと摑む。 奈保美はびくりと震えた。
俺は、閉じていたまぶたをひらいた。
目の前に広がる奈保美の丸いまぶたが震えている。そのままみつめていたら、鋏で切られたように、瞳がうっすらとひらいた。
肌の色が、乳白色と薄青に染められているというのに、琥珀の瞳だけは燃えるようにかがやいていた。これこそが扇情だ。 俺のからだの中で渦巻く性欲の権化が、鎌首をもたげて奈保美を求めていた。
くちびるを放すと、互いの唾液が銀の橋となってつながっていた。ゆるりとした繋がりは、離れるごとにぷつりと途絶え、あとはやわらかく確かな感触の余韻だけが残る。
左胸から手を離し、体勢を変えて奈保美に覆い被さる。
より濃い紺色の影をまといながら、俺を見上げる奈保美は、肌が湿り気を帯びて、ひとみはうるみ、すでに男を受け入れる女の顔になっていた。
俺は徐々に距離を詰めて、奈保美とふたたび肌を合わせていった。橙の髪は蒼いつやをはらみながら波のように広がり、ベッドの影は海いろに濃く、奈保美の肌の色も、点々を繋ぎ合わせたような、檸檬色と青の色彩で彩られ、琥珀の瞳は、泣くように濡れている。今宵だけ、そこはオフィーリアの絵画に似ていた。どこまでも、深くふかく潜ってゆけそうな褥で、俺たちは水にたゆたうひとつのかたまりとなって交わった。
抱擁が終わると、また夜がしずかに俺たちの上を流れて、包み込んでゆく。その晩の俺は、奈保美からうまれたこどものように、彼女の腕の中でゆったりと抱きしめられながら、胸の谷間のあまいにおいを嗅いで眠りについた。どことなく、しんとほどよいつめたさになっていたベッドの中で、そこだけ血の通ったぬくもりが、確かに存在していた。
背中に回された奈保美の手が、ひらひらと心臓を鼓舞してくれるように動いていた。



