奈保美が、エスニック料理が食べたいというので、近所にある店まで一緒に歩いた。最近はなんとなく、足を運んでいなかったが、前にひとりで、何度か行ったことがある。 

濃い緑の暖簾(のれん)をくぐると、木製のデッキのような扉があらわれた。木と木のはざまに、薄緑の曇り硝子が()め込んである。ペットボトルに入れた水が、かすかにゆれているような、透明な色だった。チェーン店ではなく、個人経営の店で、大通りから外れた小道にあるので、落ち着いていて、雰囲気がすきな場所だった。
 少し()げた肌の色をした、アジア系の顔立ちをした男の店員が現れた。日本人に似ているが、頼んだメニューを伝える為に話したら、日本人ではないことが一発でわかった。
 俺はガパオライスを、奈保美はグリーンカレーヌードルを頼んだ。時間をあまり置かずに、料理が木製のテーブルまで運ばれてきた。

「わあ、美味しそうっ。食べよう」


 顔をかがやかせて、奈保美が箸を割る。本当にこの女は、昼間はあかるい生命力に

あふれている。 夜はあんなにしどけなく崩れ落ち、深く生温(なまぬる)い泉のように、激しくもしずかに俺を呑み込むというのに。
 俺のことを待たずに麺を(すす)り、乳白色の薄緑のスープの上に乗せられた具に、ぱくついてゆく。気持ちの良い食べ方だった。

 ナンプラーの、良い香りがする。

 白い皿に盛られたガパオライスを見下ろす。

 赤いパプリカがベージュのひき肉に混ぜられて、白い飯の上に少しかかりつつも、

 しっかりと自分の領土を確保している。カリッと端が焼けた目玉焼き。その横に濃いみどりが主張しているのに気付いて、俺は眉を寄せた。



「うわっ、パクチー乗ってるよ。ガパオライスだから、パクチーは乗ってないと思ってたんだけど。この店、久しぶりに来たからなあ」



 奈保美が箸を止めて、上目遣いでこちらを見やる。 俺は、汁の上にたどり着きそうになっていた奈保美のひとふさの髪に気付き、上体を伸ばして、左手でそっと耳にかけてやった。

「パクチー、きらいなの?」



 奈保美が問う。



「きらいっていうか、苦手」


「それって、きらいなんじゃない」


 かすかに奈保美がわらうと、箸で持ちあげたまま停止していた麺が、吐息でふるりと震えた。


「パクチーってさ。すげえすきなひとと、ほんとに無理なひとで、分かれる食べ物だと思う。俺はだめなほうなんだよね」


「私は全然すきだな。レタスとかキャベツみたいに、普通に食べられるよ。独特の風味が、ダメってひとが多いよね」


「歯磨き粉みたいな味がするっていうひともいるけど、そういう風には感じないかな。でも、確かに、独特の風味が無理」


「外国人が、納豆食べてる日本人を見て、なんでそんな(くさ)い食べ物が食べられるのって思うのと、同じ感覚だと、勝手に思っているんだよね。普通に食べられるひとと、受け入れられないひとがいる」


「例えがうまいな。やっぱ奈保美さん、学芸員だもん。比較芸術学(ひかくげいじゅつがく)みたいに、物事を考えられるんだよ」



「君だって作家じゃない。普通のひととは違う、独自の感性で物の見方ができるでしょ。でも普通ってなんなんだろうね」


 俺たちの関係も普通じゃない。と言おうとしてやめた。


「パクチー。苦手なら食べてあげるよ」



奈保美がやさしく微笑んだ。



「……ありがと」


 片手で、皿をそっと奈保美のほうに近づけると、奈保美は淡々と俺の皿から、自分の箸で、パクチーを自分のボウルへと移す。汁の水面(みなも)に、そっと新たに追加されてゆく、あざやかな深緑の葉。
 俺が、何か言おうかと、かるく口をひらくと、奈保美はまた深く耳に髪をかけて、右手で持った箸でパクチーを摘むと、左手に持った白いレンゲで、麺と一緒に啜り始めた。何事もなかったかのような一連の動作だった。

 俺のものだったはずのパクチーは、奈保美の口の中で咀嚼(そしゃく)され、彼女の新たな血肉の一部となってゆく。

まぶたは半分伏せられていて、剥き出しになった片側の頬が、昼なのに薄暗い店内に灯された、淡いグリーンの照明に照らされている。
 俺は、しばらく奈保美の頬やくちびるをみつめていたが、何事もなかったかのように、ガパオライスの上に載っている半熟の目玉焼きをスプーンで崩して、ライスとひき肉ごと(すく)う。

 溶けた濃厚な黄身と、カリッとした白身。ひき肉に細かく刻んだパプリカや、バジルやナンプラーがからまっていて、辛味(からみ)も効いている。シンプルに美味いと感じる。まぶたを半分伏せて、口の中で踊る粒々を咀嚼(そしゃく)する。


「なんか食事って、セックスに似ているよね」


 奈保美がヌードルを食べながら、なんでもないことのように淡々と言った。 俺は、思わず口にふくんでいたガパオライスを吹き出しそうになり、慌てて喉を締めて堪えた。急いで噛んで、コップに入れていた水を、ごくりと飲む。

「あんたマジ何言ってんの。他にも少ないけど、客いんだぞ」

 テーブルにすとん、と勢いよく置いたコップの中の水が大きくゆれる。透明な水の中に、かすかに食べかすが混じって浮いていた。


「だからさ」



「小声で話せって」


 今にも片手で奈保美の口を塞ぎそうな勢いで、テーブルに上体を乗り出した。殺した声は掠れていた。
 奈保美は淡々と、スープをレンゲで掬ってゆっくりと飲んでいる。飲み干すと、また口をひらく。

 周りの客が、何人かこちらをちらりと見ているのに気付いて、俺は上体を元に戻した。平静を装って、ふたたびスプーンでガパオライスをいじりだす。


「春一郎君はさ。セックスのとき、何を考えているの」


「は?」


 ふざけているのかと思った。先ほどよりも奈保美の声は、しずかでひそやかだったので、俺の言うことを聞いてくれたのか。この女にも、わずかな理性は効く。


「ふざけて言ってんの。真面目に言ってんの」


 切羽詰まったように(たず)ねる。



「まじめ」


 奈保美はボウルの上で、右手に持ったレンゲでゆるりと()を描き、止まった先で、俺を指し示す。
 その妖しいひかりに誘われるように、俺は口をひらく。



「本当に、とんでもねえ女と、関係持っちまったな……」


 奈保美は、そのまま自然とレンゲを動かし、食事を進めながら会話をする。


「はは、言うねぇ」


「好きなアーティストについて語り合う時の雑談かよ」


「いいじゃないか。というか、そんなにひといないじゃない。今の時間帯」


「それでも、TPOってのがあんだろ。……家帰ってからその話したらダメなの」


「ランチの場所で、セックスの話するのも楽しいかなって」


「どんなたのしみかただよ……。セックスの時?」



 (いら)つきながら、斜め上をちらりと見上げる。


「相手のからだのことがわかってきたら、どこをどう攻めたら感じるようにになるか試したり、加減を変えたりとか工夫はしてるかな……」


「創作に生かしたりはしないのかい」


「意識しなくても、自然に生きてるのかもね」


「私の、からだも?」


 はっとなって、スプーンを動かす手が止まる。

 皿のほうへ前屈みになっていた上体から、首だけをかすかにあげる。

 上目遣いで奈保美を見やる。奈保美側から見ると、俺は、睨んでいるように見えただろうか。

 ガパオライスのバジルの香りが、よりいっそう強く鼻を覆った。


「なんで」


「いや、なんとなく」


 口を閉じると、スプーンを再度動かした。止められてしまった時が、ふたたび動き出した。 まぶたを閉じて、神経を料理にだけ集中させようとする。それくらい、今の言葉は、しずかに流れていた俺の体内の血の動きを、刹那に止めた。

「奈保美さんのからだを、創作に生かしたことは……、クロッキーの時だけだよ。それ以外ではない」


「漫画のキャラクターにしたことはないの」


「ないよ。自分の抱いた女モデルに、エロ漫画描いてるなんて、キチガイの所業だろ。むしろしてほしいの?」


「許可なくされてたら、いやだなあ。私のこと、お金儲けのために描いて売ってたってことじゃない。私とのセックスを大事にして欲しかったなって思っちゃうかも。他の男に、私とのセックスを見せてたなんて、いやに決まってるよ」


 奈保美の琥珀の瞳が、下方だけ色を濃く染めていた。想像して、かなしくなっている色だった。 俺は、それをひたと目にとらえたが、気づかれないふりをして、ふたたびガパオライスをスプーンで掬って食べ始めた。心に浮かんだ事柄が、浮きあがって彼女の元へ届かぬように。

 ふたりでレジの前に立つ。
 払おうとする奈保美を止めて、彼女の分も食事代をカードで払うと、俺のほうが、少し先に店を出る。天を見上げる。

 快晴が続いていた空に、うっすらと透明な雲の膜が張られていた。


「もうすぐ、雨がやってくるかもね。また」


 背後で、奈保美のしずかな低い声がした。

 振り返らず「ああ」と答えた。 雨はやってこないかもしれない。水分を保った雲が、そのまま陽光に干されて消え去ってくれることを、頭のすみで祈っていたが、鼻先にふれる冷たい空気を、確かに感じとっていた。

「このまま家に戻る?」


 振り返り、奈保美に問う。 

そよ風が吹き、橙色の髪に透明な膜が張った。

「いい。今日はこのまま帰ろうかなって思うよ」


 瓜実顔(うりざねがお)にまとわりつく髪を、まぶたを伏せながら片手で押さえている。「寒くなってきたね」と小声で呟きながら、バッグの中から檸檬色(れもんいろ)のストールを取り出した。幅の大きい生地を首に巻く。つめたいがまだ湿度の残っている秋の空気を巻き込みながら、奈保美の細い首が、輪郭のはっきりとしない黄で覆われてゆく。朝のかすみをまとったようだった。


「そう」


 大通りまで一緒に歩くと、互いに手を振り合って別れた。

 角を曲がるまで、奈保美は微笑んでいたが、消える刹那に、その笑顔がほどけて真顔に戻った気がした。
 俺は、数秒遅れて、奈保美の消えた方向に背を向けた。
 奈保美と、もしも未来で別れる時が訪れてしまったならば、今日のこの時間の別れのように、颯爽(さっそう)と俺の元を去るのだろう。名残(なごり)もなく。流星が走って、闇の中へ消えてゆくように。

 感傷的でネガティブな気持ちが浮かぶのは、後ろめたいことがあるからだろうか。 

  自販機でホットのブラックコーヒーをひとつ買った。からんという音と共に、黒い缶が降りてくる。そっと取りあげると、手の中にひとつの生き物のようなぬくもりがやってくる。タブを開けてひとくち飲むと、熱く香ばしい水分に、心が()いできた。見上げた空は、向こうのほうからやってくる雲の端から、薄墨を重ねたように影が濃くなっている。


「……雨かもな。明日」


 奈保美に対して、遅れた答えを返す。それを拾ってくれるものは、俺の周りにはいなかった。残っていたのは、湿度が去って、さらに冷えた空気だけだった。