隣のマンションに併設された、ちいさな煙草屋がある。
黒いかびを、白い壁すべてにぶちまけたように、闇とひかりがくっきりと分かれた色をしている。俺の近所に住むマダムたちは、その店の存在を嫌っているようだが、俺は変に気取った店ばかり並ぶこの街で、その店だけが気に入りだった。綺麗な女を汚すような存在。雰囲気。さびれてすえたにおい。俺のような店だ。
「煙草、どれにします?」
「あ?」
顔をあげると、店主は怒られた子供のような面をしていた。つるりと禿げた頭に、今日は緑と赤のニット帽を被っている。白い髭が、綿飴のように平たい顔を覆っている小太りの男。
描いている漫画の中に、機会があればこういうキャラクターを出してみるかな、とぼんやり思わせるような、創作意欲にかられる姿だった。
俺は考え事をしていると、少し怖い印象になってしまうらしい。以前、打ち合わせのときに担当編集者に言われたことがある。
そのことを思い出して、瞬時に取りつくろったような笑みを貼り付ける。
「ああ、すみません。考え事をしていました」
「ああ……」
店主は、唖然としてつぶやいた。ぼんやりと、霧がただようような湿度の声だった。
「じゃあ、その赤い鷲が描かれてるやつで」
「ああ……」
店主は、また気の抜けた返事を返してくる。
ゆったりと腰を曲げると、手前のガラスケースにしまわれた煙草の箱を、ひとつ取り出した。白地に赤い鷲のシルエットが描かれた、俺がいつも吸っている銘柄だ。
店主の皺の寄った手が、箱から剥がれる刹那、その隣にあった、深い青の箱が、気になった。いつもこの店に置かれていない銘柄だった。雲ひとつない、秋の夜空に染められたような色をしている。名前は金で箔押しされている。手前の煙草よりも少し高かった。
「それ」
俺は何も考えずに咄嗟につぶやいていた。
「それ、がいいです」
その箱を、すっと人差しゆびを伸ばして示した。
「はぁ、これですか」
「はい」
店主は、いつものやつと違いますね、という感情をうっすらと顔にあらわしていた。箱をひとつ手に取ると、そっとガラスケースの上に取り出し、置く。
小銭を払い、その深い青の煙草を一箱買うと、店を後にした。
外の空気は澄んでつめたい。だが、氷のつぶを散らしたような冬の空気とはまた違っていた。夏の間に、内側に眠っていた意識を冴え渡らせてくれる。秋の空気。
季節の中で一番過ごしやすいのは五月と九月だと思っている。今は九月だった。この季節特有の、透明なしずけさがすきだ。
だが、九月は目を背けていなければ、自分で心に張ったかさぶたを剥がしそうになってしまう。遠い九月に出会ったあのひととの思い出を、無理になぞろうとする。それを消すために煙草を吸っているのかもしれない。消そうと思っているのに、なぜあのひとが吸っていた煙草をまた選んだのか。
そうやって自分の行動に自問自答している間に秋が終わり、冬が来て、九月の思い出が、また霞のようにうすらいでゆく。季節性の持病だな。あざやかだが、どこか枯れた暖色が通りにあふれているから、こうなっているだけ。
このまま何も起こらないで、はやく冬が来ればいい、といつも願っている。肌をさす寒さで、秋があったことすら凍結して、来年また葉が染まるまで、溶けないでくれ、と。
高層マンションのベランダから見下ろす街は、ちいさく青や赤の人工的なあかりを点滅させ、季節に関係なく、クリスマスのイルミネーションのようにきらきらとかがやいている。最初は落ち着かなかったが、今ではそれも、毎夜訪れる見慣れた風景の一部になった。テーマパークのように主張しすぎない生活のひかりなのがいいのかもしれない。紺色の夜と溶け合って、見ていると落ち着いてくるぐらいになっていた。
今夜の俺は、黒いTシャツと黒いジーンズに身を包んでいた。仕事中に着ていた服のままだ。ジーンズは、会社勤めの友達によると、職場に履いてきてはいけないところもあるようだが、フリーランスの俺には関係ない。これが落ち着くから、色違いで何着も持っている。
髪型は、ガキの頃からあまり変わっていない。「ターミネーター2」に登場する、エドワード・ファーロングみたいなアシンメトリーな前髪で、うなじは刈りあげている。
夜空は青を深めた色をしており、昼のあかるさを冷ましたようだった。地上のあかりに負けて、星はほとんど見えなかったが、それでもうっすらと白い点々が、まだらに離れて浮かんでいる。
俺のほうが、夜空よりも黒く染まっていた。
手で払ってできたようなゆるい風が、前髪をそよがせる。まぶたを半分閉じると、まつげの先に髪がふれた。
女と繋がるよりも、このベランダに流れる、少し冷えた空気のほうが気持ちいい。仕事終わりに酒を飲んで回復するやつもいるようだが、俺の場合はこのベランダで夜風を感じるのが一番ストレス発散になる。肌の表面が撫でられて、座り仕事で身体に停滞していた血が巡り、すっきりとする感じがした。
左耳につけた銀のピアスとイヤーカフが、夜気に冷えて、耳にかすかに痛みをもたらす。ピアスは、高二の時からつけている。背が低く、初対面のやつに舐められがちだったので、舐められないようにと、左耳に、ちいさくひとつだけ開けた。それから時を経て、イヤーカフもつけるようになった。それも、左耳だけ。片耳が落ち着く。耳の痛みに合わせて、記憶は、十年前のあのころに引き戻される。
煙草をくちびるに咥える。
ワインレッドのライターで火をつける。紺色に染まった夜気の中で、手元に生まれたちいさな青い炎が、自然に目に映った。
火が、煙草の先に灯る。
ぶちぶちと嫌な音を立てて、物が燃える音が鼻のすぐ下でしている。
やがて煙へと変わってゆく。
天に広がる紺に、その灰白色は溶けて、朧に目の前に現れては、ひらひらと消えていった。
やっぱりこの煙草は、あのひとが吸っていたものと同じ薫りがした。あのひとのようだ。十年前に俺の時間の中にはっきりといて、煙のように消えたあの女。吸った後に身体に残った害は、あまく切なくゆらいで、足の先まで満ちている。
「奈保美」
口に出して、久しぶりにその女の名前をなぞると、インクで絵を描いた時のように、くっきりと輪郭をともなって俺の目の前に立ち現れる。
煙の薫りと共に、十年前のふるい記憶があざやかによみがえる。透明な秋と、古いアトリエに充満した墨のにおいも。
「やっぱあのとき、セックスしとけば、今の奈保美との関係は、何か変わってたのかな」
連絡先さえ交換しなかったのに、未だに薄黄金色の陶器のような肌と、豊かな胸、長い脚を、ありありと思い出すことができた。そこを流れるしっとりとした汗さえも。ふれたことは一度もないのに。あのときの俺は、筆越しに女を抱いていた。
背後で、機械的な高い音が一瞬鳴る。聞き慣れた連絡音。ラインって便利で不便だ。どんな関係性の相手からの連絡でも、拒絶すればバレる。メールと電話だけで連絡を取り合っていた頃のほうが、まだ楽だった。確認するのも億劫だった。せっかく仕事から解放されて、なつかしい煙の薫りに浸っていたというのに。
俺は顎をあげて、天をにらむように煙草をひとつ大きく吸うと、ため息のように深く吐き出した。
作り出された煙が、白い雲となって、影をそのからだに作らず浮きあがり、澄んだ闇に溶けて消えてゆく。
くちびるの端を舌先で舐めると、煙の味がした。
鼻からひとつ息を吐き出して、踵を返して部屋に戻る。
仕事道具の、液晶タブレットの隣に置いてあるスマートフォンが、ちかりと点滅している。
通知が一件来ていた。背を屈めて手に取り、相手を確認する。
「瑞穂か……」
今の女からだった。「付き合う」という契約で結ばれた形をした。
付き合う前は、瑞穂の名前を口にするたび、連絡が来るたびに高揚とした気持ちになっていた。これから何か新しいことが始まるんじゃないか。過去の記憶を忘れさせてくれるくらいの、粘っこいセックスをさせてくれるんじゃないか。煙草の薫りも、アトリエに燃える秋色のうねる髪も。うすい黄金の裸体も。
出会ったときの感情は時に流されて、からだの中から消えていた。それを意識することも、考えることもない。ただ、淡々と関係が続いているだけ。
俺はスマホの画面をゆびさきで操作し、簡単な返事を書いた。
瑞穂から、俺が打った二倍の文章が返ってくる。
俺はまた短い文章で返す。
最後に「孤独な夜に辻本くんと話せてうれしかった」という文章が返ってきて、トークが終わった。スタンプをひとつ押して、温度感を画面の中だけでもあげようかと思ったが、億劫さが勝って、既読をつけて終わらせた。
トークでやり取りすることを「話す」というやつもいるが、「話す」とは、直接会って、言葉と言葉を口に出して交わすやり取りのことで、ここに書き込んだことで「話した」感覚に、俺はどうしてもなれなかった。それを相手に伝えても無駄なだけだということは、すでにわかりきっている。人間関係に対して、一種のあきらめのようなものを、常に抱えている。
夜風がゆれる。ゆれて、俺のゆびさきと胸のあいだにある濁りをさらりと流して、何も気付かないようにしてくれる。
黒いかびを、白い壁すべてにぶちまけたように、闇とひかりがくっきりと分かれた色をしている。俺の近所に住むマダムたちは、その店の存在を嫌っているようだが、俺は変に気取った店ばかり並ぶこの街で、その店だけが気に入りだった。綺麗な女を汚すような存在。雰囲気。さびれてすえたにおい。俺のような店だ。
「煙草、どれにします?」
「あ?」
顔をあげると、店主は怒られた子供のような面をしていた。つるりと禿げた頭に、今日は緑と赤のニット帽を被っている。白い髭が、綿飴のように平たい顔を覆っている小太りの男。
描いている漫画の中に、機会があればこういうキャラクターを出してみるかな、とぼんやり思わせるような、創作意欲にかられる姿だった。
俺は考え事をしていると、少し怖い印象になってしまうらしい。以前、打ち合わせのときに担当編集者に言われたことがある。
そのことを思い出して、瞬時に取りつくろったような笑みを貼り付ける。
「ああ、すみません。考え事をしていました」
「ああ……」
店主は、唖然としてつぶやいた。ぼんやりと、霧がただようような湿度の声だった。
「じゃあ、その赤い鷲が描かれてるやつで」
「ああ……」
店主は、また気の抜けた返事を返してくる。
ゆったりと腰を曲げると、手前のガラスケースにしまわれた煙草の箱を、ひとつ取り出した。白地に赤い鷲のシルエットが描かれた、俺がいつも吸っている銘柄だ。
店主の皺の寄った手が、箱から剥がれる刹那、その隣にあった、深い青の箱が、気になった。いつもこの店に置かれていない銘柄だった。雲ひとつない、秋の夜空に染められたような色をしている。名前は金で箔押しされている。手前の煙草よりも少し高かった。
「それ」
俺は何も考えずに咄嗟につぶやいていた。
「それ、がいいです」
その箱を、すっと人差しゆびを伸ばして示した。
「はぁ、これですか」
「はい」
店主は、いつものやつと違いますね、という感情をうっすらと顔にあらわしていた。箱をひとつ手に取ると、そっとガラスケースの上に取り出し、置く。
小銭を払い、その深い青の煙草を一箱買うと、店を後にした。
外の空気は澄んでつめたい。だが、氷のつぶを散らしたような冬の空気とはまた違っていた。夏の間に、内側に眠っていた意識を冴え渡らせてくれる。秋の空気。
季節の中で一番過ごしやすいのは五月と九月だと思っている。今は九月だった。この季節特有の、透明なしずけさがすきだ。
だが、九月は目を背けていなければ、自分で心に張ったかさぶたを剥がしそうになってしまう。遠い九月に出会ったあのひととの思い出を、無理になぞろうとする。それを消すために煙草を吸っているのかもしれない。消そうと思っているのに、なぜあのひとが吸っていた煙草をまた選んだのか。
そうやって自分の行動に自問自答している間に秋が終わり、冬が来て、九月の思い出が、また霞のようにうすらいでゆく。季節性の持病だな。あざやかだが、どこか枯れた暖色が通りにあふれているから、こうなっているだけ。
このまま何も起こらないで、はやく冬が来ればいい、といつも願っている。肌をさす寒さで、秋があったことすら凍結して、来年また葉が染まるまで、溶けないでくれ、と。
高層マンションのベランダから見下ろす街は、ちいさく青や赤の人工的なあかりを点滅させ、季節に関係なく、クリスマスのイルミネーションのようにきらきらとかがやいている。最初は落ち着かなかったが、今ではそれも、毎夜訪れる見慣れた風景の一部になった。テーマパークのように主張しすぎない生活のひかりなのがいいのかもしれない。紺色の夜と溶け合って、見ていると落ち着いてくるぐらいになっていた。
今夜の俺は、黒いTシャツと黒いジーンズに身を包んでいた。仕事中に着ていた服のままだ。ジーンズは、会社勤めの友達によると、職場に履いてきてはいけないところもあるようだが、フリーランスの俺には関係ない。これが落ち着くから、色違いで何着も持っている。
髪型は、ガキの頃からあまり変わっていない。「ターミネーター2」に登場する、エドワード・ファーロングみたいなアシンメトリーな前髪で、うなじは刈りあげている。
夜空は青を深めた色をしており、昼のあかるさを冷ましたようだった。地上のあかりに負けて、星はほとんど見えなかったが、それでもうっすらと白い点々が、まだらに離れて浮かんでいる。
俺のほうが、夜空よりも黒く染まっていた。
手で払ってできたようなゆるい風が、前髪をそよがせる。まぶたを半分閉じると、まつげの先に髪がふれた。
女と繋がるよりも、このベランダに流れる、少し冷えた空気のほうが気持ちいい。仕事終わりに酒を飲んで回復するやつもいるようだが、俺の場合はこのベランダで夜風を感じるのが一番ストレス発散になる。肌の表面が撫でられて、座り仕事で身体に停滞していた血が巡り、すっきりとする感じがした。
左耳につけた銀のピアスとイヤーカフが、夜気に冷えて、耳にかすかに痛みをもたらす。ピアスは、高二の時からつけている。背が低く、初対面のやつに舐められがちだったので、舐められないようにと、左耳に、ちいさくひとつだけ開けた。それから時を経て、イヤーカフもつけるようになった。それも、左耳だけ。片耳が落ち着く。耳の痛みに合わせて、記憶は、十年前のあのころに引き戻される。
煙草をくちびるに咥える。
ワインレッドのライターで火をつける。紺色に染まった夜気の中で、手元に生まれたちいさな青い炎が、自然に目に映った。
火が、煙草の先に灯る。
ぶちぶちと嫌な音を立てて、物が燃える音が鼻のすぐ下でしている。
やがて煙へと変わってゆく。
天に広がる紺に、その灰白色は溶けて、朧に目の前に現れては、ひらひらと消えていった。
やっぱりこの煙草は、あのひとが吸っていたものと同じ薫りがした。あのひとのようだ。十年前に俺の時間の中にはっきりといて、煙のように消えたあの女。吸った後に身体に残った害は、あまく切なくゆらいで、足の先まで満ちている。
「奈保美」
口に出して、久しぶりにその女の名前をなぞると、インクで絵を描いた時のように、くっきりと輪郭をともなって俺の目の前に立ち現れる。
煙の薫りと共に、十年前のふるい記憶があざやかによみがえる。透明な秋と、古いアトリエに充満した墨のにおいも。
「やっぱあのとき、セックスしとけば、今の奈保美との関係は、何か変わってたのかな」
連絡先さえ交換しなかったのに、未だに薄黄金色の陶器のような肌と、豊かな胸、長い脚を、ありありと思い出すことができた。そこを流れるしっとりとした汗さえも。ふれたことは一度もないのに。あのときの俺は、筆越しに女を抱いていた。
背後で、機械的な高い音が一瞬鳴る。聞き慣れた連絡音。ラインって便利で不便だ。どんな関係性の相手からの連絡でも、拒絶すればバレる。メールと電話だけで連絡を取り合っていた頃のほうが、まだ楽だった。確認するのも億劫だった。せっかく仕事から解放されて、なつかしい煙の薫りに浸っていたというのに。
俺は顎をあげて、天をにらむように煙草をひとつ大きく吸うと、ため息のように深く吐き出した。
作り出された煙が、白い雲となって、影をそのからだに作らず浮きあがり、澄んだ闇に溶けて消えてゆく。
くちびるの端を舌先で舐めると、煙の味がした。
鼻からひとつ息を吐き出して、踵を返して部屋に戻る。
仕事道具の、液晶タブレットの隣に置いてあるスマートフォンが、ちかりと点滅している。
通知が一件来ていた。背を屈めて手に取り、相手を確認する。
「瑞穂か……」
今の女からだった。「付き合う」という契約で結ばれた形をした。
付き合う前は、瑞穂の名前を口にするたび、連絡が来るたびに高揚とした気持ちになっていた。これから何か新しいことが始まるんじゃないか。過去の記憶を忘れさせてくれるくらいの、粘っこいセックスをさせてくれるんじゃないか。煙草の薫りも、アトリエに燃える秋色のうねる髪も。うすい黄金の裸体も。
出会ったときの感情は時に流されて、からだの中から消えていた。それを意識することも、考えることもない。ただ、淡々と関係が続いているだけ。
俺はスマホの画面をゆびさきで操作し、簡単な返事を書いた。
瑞穂から、俺が打った二倍の文章が返ってくる。
俺はまた短い文章で返す。
最後に「孤独な夜に辻本くんと話せてうれしかった」という文章が返ってきて、トークが終わった。スタンプをひとつ押して、温度感を画面の中だけでもあげようかと思ったが、億劫さが勝って、既読をつけて終わらせた。
トークでやり取りすることを「話す」というやつもいるが、「話す」とは、直接会って、言葉と言葉を口に出して交わすやり取りのことで、ここに書き込んだことで「話した」感覚に、俺はどうしてもなれなかった。それを相手に伝えても無駄なだけだということは、すでにわかりきっている。人間関係に対して、一種のあきらめのようなものを、常に抱えている。
夜風がゆれる。ゆれて、俺のゆびさきと胸のあいだにある濁りをさらりと流して、何も気付かないようにしてくれる。



