その日の朝は、かろやかに晴れていた。四角い窓からこぼれる空は、白雲のひとつもなく、淡い青が、澄んだ層を重ねて広がっている。 腹にだけ、掛け布団をかけて、ベッドの上でしずかに眠った夜だった。
奈保美は、ずっと言わずにいた過去を話して、すっきりしたのか、憑き物が落ちたように淡い寝息を立てながら、かたわらで眠っていた。
俺のほうが早く起きて、隣でうすくくちびるを開けている奈保美の寝顔を見ながら、こどもみてえだな、とひとりつぶやいていた。
しずかな朝日を浴びて、透明な膜を張ったように、奈保美のまぶたがつやめいていた。端に向かうにつれて濃さを増す長いまつげが、薄青の影を、やわらかな頬に落としている。彼女の全身が透明な青で守られていた。
__こんな女を抱いたのか。こんな綺麗な女を。
俺をふくめ、今までこの女と重なって過ぎていった男たちは、自分の欲望で、快楽を与え、汚して壊していった。
奈保美と関わってきた男たちは、幸だったのか不幸だったのか。
奈保美は、男たちと関わって不幸だったのか、幸だったのか。
__その中のひとりである、俺は? 俺は、奈保美と一度関わり、彼女のおもかげを追い続けながら、幾年も過ごしてきた。俺はふたたび奈保美と出逢い、彼女の男になれて幸だったと言える。そう思っている。
__だが、奈保美は?
俺は、彼女を抱くたびに、自分の中に押さえきれない衝動性と嗜虐心、支配欲が表に出ていることに気付いていた。
抱かれている奈保美も、気付き始めている。あるいはもう受け入れてくれているのか。
俺は、奈保美の過去の男と、同じになっていないか。それを我慢させているのではないか。 肩を落として歯を噛むと、きりきりとしたかすかな音がした。
「春一郎くん」
あまやかだか、確かな質感のある声が、背後からした。 俺は、表情を落ち着かせて振り返る。
「おはよう。起きたんだね」
「うん。あれ、私の眼鏡、どこやったっけ……?」
ぱちぱちと、急にあらわれたひかりを、肉眼から遮るように、まばたきを繰り返し、徐々に覚醒してゆく。半分伏せられたまぶたの奥の琥珀の眸が、まばたきの回数ごとに輝いてゆく。
墨のようにくろい過去の記憶を抱えながらも、奈保美は再生を繰り返して、また秋に現れてくれた。
奈保美と言葉を交わして、同じ空間にいることに、満ちたりたものを感じる。
今まで朧な幻想になりかけていた奈保美が、息遣いさえも感じさせる湿度で、俺のかたわらにいる。
「奈保美さん、ありがとうね。また会ってくれて」
俺は、自然と笑みを浮かべていた。心からあふれた幸福な感情が、皮膚に染み渡っていた。 奈保美は、ぽかんと口を開けて俺をみつめていたが、やがてからからと、低くわらいだした。
「何言ってんの、今さら。もう再会してから、だいぶ経っているじゃないか」
「そう言えば、あんたに訊いたことなかった気ぃする。ヌードモデルやってるときさ。どんな気分だったの」
今は、奈保美と会話をしたかった。そんな気分だった。
「急だな。うーん、ちょっと違うかもしれないのだけれど、ストリッパーが服を脱いで、開放的な表情をしている時の気持ちが、なんとなくわかった感じだったね。脱ぐ回数が多くなるたびに、興奮状態になっていく。ハイになってゆく」
「背中の傷、見られることになるじゃん。それはどんな気持ちだったの」
どんどん突っ込んだ質問をしていく。しずかな口調だったが、自分でも前のめりになっていることがわかった。迷惑とか、考えている余裕がなかった。
「十年前も、公園で確か、この話をした記憶があるんだけど、ああ、そういえばあの時は胸の話だったね。うん、背中の傷か」
前屈みに倒れ、右手に顎を乗せ、からだを支えていた奈保美は、上体を起こした。両手をベッドにそっと置き、背筋をかるく伸ばす。うすい皮膚に、あばら骨が浮き出す。そして、何かを確信したように、琥珀の瞳がさえざえとした。
「あまり意識していなかったな。その時は、君に、私の過去を語るまで、深い仲なるとは、考えもしていなかったからね。芸術の一部として描いてくれればいい、くらいに思っていたのかな。
でも、どうだろう、二十七歳の、あの秋の私の気持ちは、その時だけのものだったから。まあ、ただ少し怖かったという気持ちもあったかもしれない。私の背中の傷は、当時の恋人に傷つけられてから、誰にも見せたことがなかったし、私が個人的に向き合ってきたものだったからね。
お風呂から出た後、毎晩どれくらい治ってきているか確認していたから。一種の強迫性障害になっていたのかもしれない」
「俺たちに見せてどう変わった」
尋問するような低い声が出た。この問いにも、嗜虐性が少し覗いていた。 奈保美は気にしていないようで、話し続ける。
「ヌードモデルをやってから、普段の自分と違う自分を演じている気分になれて、芸術として、自分のからだを考えられるようになったし、その時は会社を辞めて開放的な気分になっていたから、深く考えてなかったかも」
「俺もそういう気持ち、わかるかも。裸の女の絵とか、セックスとか、エロい絵描いている時は、ハイになってる」
当時の記憶と、奈保美のからだの傷のことを、確認しあう。
奈保美はやわらかく微笑んだ。
こうやって、これからも俺は何気なく、奈保美に突然踏み込んだ質問や投げかけをしてしまうのかもしれない。それでも奈保美は、今のように何気なく返してくれて、やわらかく受け止めてくれるのだろう。そういった淡々と続いてゆく未来が、洋々(ようよう)と想像できた。
それは、うれしいことだった。
「なんか、外に飯食いにでも行く?」
「えっ、初めてじゃない? いいの」
「別に、飯食いに行くくらい、ひととの付き合いで当たり前にあることだろ。ましてや、深い関係になってんだからさ。別になんも変じゃねえよ」
言いながら、確かに奈保美とは、一度も外で食事を共にしたことがなかった。
いつも家の中で事が終わった後に、ホットミルクやコーヒーを飲むか、軽食を食べることしかしていなかった。何故今まで外食をしようということに思い当たらなかったのだろう。この女との関係は、俺の部屋の中で完結していた。
恋人という名称をつけていないのに、側から見れば、セフレと同じだと感じるかもしれないが、今までのセフレとは、何もかもが違っていた。都合が悪くなれば互いに簡単に捨てたいと思える関係と、一緒にしたくなどなかった。
外で食事を共にすれば、俺と奈保美の関係の何かが深まる気がした。紅葉が、季節が進むごとに、より深い黄金や紅に染まってゆくように。
奈保美は、ずっと言わずにいた過去を話して、すっきりしたのか、憑き物が落ちたように淡い寝息を立てながら、かたわらで眠っていた。
俺のほうが早く起きて、隣でうすくくちびるを開けている奈保美の寝顔を見ながら、こどもみてえだな、とひとりつぶやいていた。
しずかな朝日を浴びて、透明な膜を張ったように、奈保美のまぶたがつやめいていた。端に向かうにつれて濃さを増す長いまつげが、薄青の影を、やわらかな頬に落としている。彼女の全身が透明な青で守られていた。
__こんな女を抱いたのか。こんな綺麗な女を。
俺をふくめ、今までこの女と重なって過ぎていった男たちは、自分の欲望で、快楽を与え、汚して壊していった。
奈保美と関わってきた男たちは、幸だったのか不幸だったのか。
奈保美は、男たちと関わって不幸だったのか、幸だったのか。
__その中のひとりである、俺は? 俺は、奈保美と一度関わり、彼女のおもかげを追い続けながら、幾年も過ごしてきた。俺はふたたび奈保美と出逢い、彼女の男になれて幸だったと言える。そう思っている。
__だが、奈保美は?
俺は、彼女を抱くたびに、自分の中に押さえきれない衝動性と嗜虐心、支配欲が表に出ていることに気付いていた。
抱かれている奈保美も、気付き始めている。あるいはもう受け入れてくれているのか。
俺は、奈保美の過去の男と、同じになっていないか。それを我慢させているのではないか。 肩を落として歯を噛むと、きりきりとしたかすかな音がした。
「春一郎くん」
あまやかだか、確かな質感のある声が、背後からした。 俺は、表情を落ち着かせて振り返る。
「おはよう。起きたんだね」
「うん。あれ、私の眼鏡、どこやったっけ……?」
ぱちぱちと、急にあらわれたひかりを、肉眼から遮るように、まばたきを繰り返し、徐々に覚醒してゆく。半分伏せられたまぶたの奥の琥珀の眸が、まばたきの回数ごとに輝いてゆく。
墨のようにくろい過去の記憶を抱えながらも、奈保美は再生を繰り返して、また秋に現れてくれた。
奈保美と言葉を交わして、同じ空間にいることに、満ちたりたものを感じる。
今まで朧な幻想になりかけていた奈保美が、息遣いさえも感じさせる湿度で、俺のかたわらにいる。
「奈保美さん、ありがとうね。また会ってくれて」
俺は、自然と笑みを浮かべていた。心からあふれた幸福な感情が、皮膚に染み渡っていた。 奈保美は、ぽかんと口を開けて俺をみつめていたが、やがてからからと、低くわらいだした。
「何言ってんの、今さら。もう再会してから、だいぶ経っているじゃないか」
「そう言えば、あんたに訊いたことなかった気ぃする。ヌードモデルやってるときさ。どんな気分だったの」
今は、奈保美と会話をしたかった。そんな気分だった。
「急だな。うーん、ちょっと違うかもしれないのだけれど、ストリッパーが服を脱いで、開放的な表情をしている時の気持ちが、なんとなくわかった感じだったね。脱ぐ回数が多くなるたびに、興奮状態になっていく。ハイになってゆく」
「背中の傷、見られることになるじゃん。それはどんな気持ちだったの」
どんどん突っ込んだ質問をしていく。しずかな口調だったが、自分でも前のめりになっていることがわかった。迷惑とか、考えている余裕がなかった。
「十年前も、公園で確か、この話をした記憶があるんだけど、ああ、そういえばあの時は胸の話だったね。うん、背中の傷か」
前屈みに倒れ、右手に顎を乗せ、からだを支えていた奈保美は、上体を起こした。両手をベッドにそっと置き、背筋をかるく伸ばす。うすい皮膚に、あばら骨が浮き出す。そして、何かを確信したように、琥珀の瞳がさえざえとした。
「あまり意識していなかったな。その時は、君に、私の過去を語るまで、深い仲なるとは、考えもしていなかったからね。芸術の一部として描いてくれればいい、くらいに思っていたのかな。
でも、どうだろう、二十七歳の、あの秋の私の気持ちは、その時だけのものだったから。まあ、ただ少し怖かったという気持ちもあったかもしれない。私の背中の傷は、当時の恋人に傷つけられてから、誰にも見せたことがなかったし、私が個人的に向き合ってきたものだったからね。
お風呂から出た後、毎晩どれくらい治ってきているか確認していたから。一種の強迫性障害になっていたのかもしれない」
「俺たちに見せてどう変わった」
尋問するような低い声が出た。この問いにも、嗜虐性が少し覗いていた。 奈保美は気にしていないようで、話し続ける。
「ヌードモデルをやってから、普段の自分と違う自分を演じている気分になれて、芸術として、自分のからだを考えられるようになったし、その時は会社を辞めて開放的な気分になっていたから、深く考えてなかったかも」
「俺もそういう気持ち、わかるかも。裸の女の絵とか、セックスとか、エロい絵描いている時は、ハイになってる」
当時の記憶と、奈保美のからだの傷のことを、確認しあう。
奈保美はやわらかく微笑んだ。
こうやって、これからも俺は何気なく、奈保美に突然踏み込んだ質問や投げかけをしてしまうのかもしれない。それでも奈保美は、今のように何気なく返してくれて、やわらかく受け止めてくれるのだろう。そういった淡々と続いてゆく未来が、洋々(ようよう)と想像できた。
それは、うれしいことだった。
「なんか、外に飯食いにでも行く?」
「えっ、初めてじゃない? いいの」
「別に、飯食いに行くくらい、ひととの付き合いで当たり前にあることだろ。ましてや、深い関係になってんだからさ。別になんも変じゃねえよ」
言いながら、確かに奈保美とは、一度も外で食事を共にしたことがなかった。
いつも家の中で事が終わった後に、ホットミルクやコーヒーを飲むか、軽食を食べることしかしていなかった。何故今まで外食をしようということに思い当たらなかったのだろう。この女との関係は、俺の部屋の中で完結していた。
恋人という名称をつけていないのに、側から見れば、セフレと同じだと感じるかもしれないが、今までのセフレとは、何もかもが違っていた。都合が悪くなれば互いに簡単に捨てたいと思える関係と、一緒にしたくなどなかった。
外で食事を共にすれば、俺と奈保美の関係の何かが深まる気がした。紅葉が、季節が進むごとに、より深い黄金や紅に染まってゆくように。



