その日は、うす紅と紫の空が入り混じる夕暮れだった。すぐに夜が来る予感がある。
月曜日。美術館の休日を、奈保美は俺と共に過ごすことを選んでくれていた。
昼から俺の部屋に来て、ゆっくりと過ごした。
奈保美は求めあった後、部屋を出るまで裸で過ごすことが多くなっていった。
ふたり共、ライトグレーのソファの上で座っていた。
「このほうが、心地いいしね」
そう言って、コーヒーの入ったマグカップを両手に大切そうに持ちながら、長い脚を組み、まぶたを閉じてわらう。長いまつげが、頬に線を描いた影を落としている。
彼女の大切な性器は、脚が重なるところで、うまい具合に隠されていた。奈保美の周囲だけ、空気が違うようだった。どんな場所にいても、穏やかで上品なものが保たれている。
俺は、それにふれているだけで心地が良かった。
「コーヒーを音立てて飲むのは、気に入らないけどな」
「え、なんか言った?」
「何も」
「神経質だなぁ。それくらい許せよ」
「蕎麦じゃねぇんだからさ……」
他愛ない雑談にも、遠慮がなくなってきた。これは元からか。
もうこのまま、夫婦として過ごしてもいいんじゃないか。そんな淡い期待を抱き始めている。
これしあわせ、っていうもんなのかもしれない。しあわせ、っていう言葉が、世間で定義づけられすぎている気がして、ずっときらいだったが、俺は奈保美と一緒に過ごすようになってから、しあわせっていうものが何なのか、理解できるようになってきていた。きっと、俺にとって、奈保美とセックスしたり、馬鹿げた会話をしたりしているときにだけ、満たされている何かがあるのだろう。今まではそれがなかったから、他の女を代わりのように抱いては、それを求めて、無くして、時間ばかりが過ぎて、相手を傷つけて、自分も気づかないあいだに、虚しさを重ねて、生きてきた。 やっと、俺にもわかるときが来たってのか。
薄青い感動が、静かに去来していた。
視界が刹那、うるんでゆれて、また乾いて戻ってくる。
「春一郎くん。どうかした?」
「……いや、このまま奈保美さんが、ずっと俺の部屋で暮らせばいいのになって思ってた」
何気なく言ってしまって、はっとする。 奈保美が息を止めるのがわかった。
うつむいて前髪で顔を隠していた俺は、すっと首を元に戻すと、奈保美をまっすぐに見やった。
夕暮れのうすやみが、俺たちのあいだに降りている。
奈保美のひとみや前髪が、その薄青に、淡く染められて影を帯びていた。
時が、止まってしまったようだった。
石の女神像のように固まっていた奈保美は、口の端を持ちあげると、「はは」と乾いたわらいを漏らした。頬が、照れたいろに染まる。
「何言ってんだよ、急に。あーびっくりした。えっちなことし過ぎておかしくなっちゃったのかい」
「別にふざけてねえよ。このままあんたと関係続けてたら、いつかそうなってもおかしくないだろ」
「んーまあ……、そうだね。でも今は、そういうの、考えられないや。職場もここから離れてるしね……」
ごめん、とちいさくつぶやき、うつむく奈保美に、俺は少しかなしげに眉をひそめた。
言うべきじゃなかったのかもしれない。少なくとも、まだ今は。
「俺は……」
自分でも、今まで発したどんな声より、しずかで密やかな声だと思った。俺にこんな発声できたのか。恥ずかしくて、奈保美を直視できなかった。少し逸らした視線のさきに、掃き出し窓からこぼれる薄闇があった。少し陰っていて、純度がある。透明な夜が、もう来ていた。
「結婚とか、籍入れるとか、そういうこと抜きにして、奈保美さんと一緒にいるのが、居心地いいんだよ」
なんとなく、声が震えていた。
「すきなんだ。奈保美さんのことが、やっぱ」
何度もからだを重ねたはずなのに。改めて口にすると、顔から火が出そうになる。__そんなん、中坊ん時に卒業したってのに。何なんだ俺は。
気付けばこめかみに、うっすらと汗をかいていた。
奈保美は、マグカップをサイドテーブルの上に置いて、胡座をかいて座っていた。灰青色のベッドの上で、猫のように俺のことをじっと見上げている。
「ふーん、言うようになったじゃない。十年前は、ませた男の子だなって思ってたけど。ちゃんと、思ってること言えるおとなになったんだね。えらいえらい」
面白そうに、まぶたを半分伏せている奈保美の顔に俺は苛つき、そばにあったクッションを投げると、彼女は腕を広げてそれを受け止めた。
隠されていた双丘があふれて、カップから飛び出たプリンのように、ゆれてつんと薄紅のさきを尖らせている。けらけらとわらう奈保美は、愛の告白を受けたとは思えない姿だった。
「ガキみてえなわらい方しやがって」
俺は、その場で着ていたグレーのTシャツを脱ぐと、裸の奈保美に飛びかかった。
奈保美は大笑いをしたまま、俺を受け止めると強い力で抱きしめた。
ソファから落ちてカーペットに崩れ落ち、そのまま月が中天にかかるまで互いに快楽を与え合った。 奈保美のやわらかい尻に、音が鳴るほどに太ももを打ちつけて、中を激しく抉りながら、俺は自分がどんどん獣のようになってゆくのを感じていた。
尻の中央に生まれた汗に、月のしろさが生まれ落ちたのをみて、上体をかがめてそれを舐めた。俺が太ももで叩くたび、腰をくねらせて変化する奈保美のからだは、まるで夜行性の蛇のようだった。
「感じるのか」
最初、馬鹿みたいにわらっていた奈保美も、行為の深みまで至ると、小刻みに荒い息を吸っては、また吐くだけになっていた。湿り気とねばりを帯びた息が、むせるように彼女の顔の周囲に広がる。 俺の鼻先にも、奈保美の息のにおいが届いていた。エロいことをしているっていうのに、爽やかで清潔な香りだった。
その香りを嗅いで、さらに俺の腰の熱は熱く尖っていった。
奈保美の中を暴き、さらに肉を抉ると、奈保美は上向いて喉の奥から掠れた声をあげた。喉から血があふれたような声だった。
「__感じるのか。なぁ」
口の端の筋肉が動くのがわかる。自然と口角があがっているのだ。奈保美とのセックスに、快楽と愛情だけではなく、愉悦も加わっていた。
__楽しい。愉しい。
奈保美の蜜壺は、俺が腰を振る速度を強めるたびに、新たな水を増し、飲み込んでくる。奥底に果てがないように感じるが、ちゃんと子宮口に辿り着く前に、ざらりとした口が止めてくれる。気を抜くと、意識とからだを持っていかれるので、歯を食いしばってそれに耐えていた。奈保美のからだと、俺のからだは、元々ひとつだったのではないかと思うほど、ぴったりと合った。
男の肉棒を、奥へおくへと誘い、ほどよい締め付けでじんわりとあたたかく締め付ける。
彼女のからだの中を、ずっとたゆたって、さまよっていたい気持ちにさせられる。俺は奈保美の中にいるときだけ、海の中を泳ぐ魚になっていた。時には鰯のように速く、時には熱帯魚のように優雅に泳ぐことを許されて。 奥を突いては、また離れると、奈保美は大きく息を吸い込み、額から汗を流した。海底に沈められて、息を吹き返したイルカのようだった。肌の湿り気は、さらにつやを帯びて、てらりと輪郭が月色に染まり、神々しささえ感じさせた。
交わりが深くなると、俺は自然と額に汗が浮いて、前髪を濡らした。体の血流がさらに速くめぐり、体温がどんどんあがっていった。燃えあがるとは、このことだ。
「……あんたを抱く回数が増えてきて、あんたのからだのことが、最初よりわかってきたんだよ」
「……ははっ……。面白いこと言うね。作家先生は」
黙れ、という気持ちを込めて、奈保美の腰を摑んだ両手に、力を入れる。
弾力の良い肌が、俺のゆびの圧力でくぼむ。
額から汗が飛び、奈保美の背中に、てんてんと跡をつけ、輪郭に沿って、なめらかな肌を滑り落ちてゆく。
深く俺を差しこまれて、奥まで感じてしまったのか、奈保美は、くんと腕を伸ばすと、顔を天に向けて、がくがくと小刻みに震えはじめた。鎖骨にこぼれた奈保美の髪をひとふさ、そっと右手でふれるような圧力で摑むと、肩甲骨の上に流す。汗で濡れて、しっとりとしていた。 かすかにひらいた掃き出し窓から、夜風が流れて、背中に流れた髪が散らされる。橙は薄青く染まり、汗ばむ奈保美の背中の上を、ひらひらと漂っていた。
「春一郎……、くんっ」
後背位の体勢のまま、奈保美は首をうねらせて俺を見上げる。髪が、汗に濡れた首すじに、蜘蛛の巣のようにはらりとまとわりついている。
俺を見上げる奈保美の目元は、紅に染まっていて、さらに扇状的になっていた。
琥珀の瞳は、透明な涙の膜に守られ、きらきらと生命力を放っている。奈保美は、乾きを知らないみずうみだった。常に澄んだ水をたたえ、しとやかな湿度とうるおいに満ちている。俺はそれに包まれ、飲み込まれ、たゆたっているただの魚だ。 固くなったからだを倒し、奈保美の首に片手をかけると、うすくひらいたくちびるを、くちびるで塞いだ。薄皮のぬるりとした感触と共に、互いに出した舌先をからませる。程よくざらりとした厚い舌の表面をこすりつけあい、剥がれて上顎を舐めると、奈保美は、半分伏せたまぶたを、ぴくぴくと震わせた。
月あかりがまるく浮いて、燐光を発している。
奈保美の口の中は、春の海辺の洞穴のように、あたたかな風が吹いていた。
うすくひらいた俺の瞳と、奈保美の瞳は、交差し、互いの中に広がる己をみていた。
くちづけをほどき、コンドームの中に己を放つと、ゆっくりと奈保美が前にからだを動かし、離れていった。
汗ばむ尻と俺のあいだを繋ぐ橋にも、月あかりは降り注ぐ。コンドームを外すと、底に溜められた中の白い精が見えた。
ゆびさきで口先をつまみ、ひらひらとおもちゃのように動かす。
「純白だけど、汚れてる」
ひとりつぶやくと、四つん這いになっていた奈保美が、上体を崩れ落とした。荒く息を吐き、背中と尻に浮く汗は、しずくの大きさを増している。こちらに向かって、高く突きあげられた尻をみて、俺はふたたび口角をあげた。
「奈保美さん。まだ体力大丈夫? 大丈夫なら、やってほしいことがあるんだけど」
奈保美の尻に、右手を当てる。つるりとした感触がして、親指をふれるかふれないかの微妙な圧力で、動かした。 奈保美の尻がぴくりと動いて、尻肉が震える。
俺は一度右手を離してから、もう一度右手を尻にそわせた。あまく叩くように、ぱちりと小君良い音がした。熟れた桃のようにやわらかな尻は、簡単にゆれて変形する。
奈保美の背中が、くの字に曲がり、ふたたび元に戻ると、汗のしずくが背筋に溜まった。
「雨上がりみてえだ」
俺は、彼女の尻に置いていた手を、背中へ滑らせて、汗のしずくをそっと払った。溜まった汗は、なみだのようにカーペットの上へはらはらと落ちていった。
汗を払うと、湿った奈保美の肌だけが残る。
腰を高くあげ、尻だけを出し、首をうねらせている。
髪のはざまから、琥珀の瞳がひとつだけ覗き、らんらんとかがやいて、俺を睨んでいる。汗ばんで湿った橙の髪が、奈保美の顔を覆っている。茂みからこちらを睨む虎のようだった。赤く染まった頬が月あかりを受けて、妖しい色を魅せていた。 俺と奈保美は、ベッドへとあがった。膝立ちになった俺の獲物を、奈保美の口にふくませて。ぬめるような感触が最初にしたが、あとはすんなりと彼女の頬の内側に俺のものは収まった。
奈保美には裸のまま、ヒールの高い靴だけを履いてもらっていた。ワインレッドのサテン生地のそれは、夜のうすあかりの中で鈍くつやを放って映えていた。四つん這いになって、首を動かす奈保美の橙の髪が、俺の下でゆれている。
それだけで、すべてを吐き出しそうになる。ぐっとこらえて、奈保美の髪を片手で撫でて、ひとふさ前にこぼれた髪を、右の耳にかけてやる。
耳たぶに、ふさがりかけたピアスの跡があった。ピアスをやめて、イヤリングに変えたのだろうか。今さら気づく。 俺は未だに、左耳にだけピアスを開け続けているというのに。
彼女がピアスを開けていた時間の中に、俺はおらず、そのあいだ、他の男がピアス姿の奈保美と会っていた事実に、寂しさと狂おしい嫉妬を覚える。
「苦しいか」
見下ろすと、奈保美の伏せられたまぶたがいつもよりも広い。月あかりが、乳白色のアイシャドウになって、てらりと鈍く発光していた。長い睫毛が、薄青に染まる頬に、さらに濃い影を描いていた。潮騒のようにやってくる俺のものを飲み込むたびに、苦しそうに眉を寄せ、まつげはゆるゆると震えて、けぶった。その上に、額からこぼれ流れた汗が落ちて、高い鼻梁を濡らした。
「苦しいか、なあ」
右手を伸ばし、奈保美の顔にかかった髪ごと、頭を上向かせる。 ぷはあ、という息の音と共に、奈保美が、俺のものから離れて顔をあげた。
「……春一郎くん、すっごい顔してるよ。アニメのラスボスみたい。なんか」
奈保美が、上目遣いで俺を見ている。でかい目ん玉だ。サウナから出たばかりの女のように、頬が火照って、視線がおぼつかない。夢から覚めたばかりで、水辺にあがった人魚のようだった。琥珀ばかりが濡れてかがやいて、落ち着かなかった。 俺は片手をくちもとに当てる。口角は、面白いほどにあがっていた。
「はは……」
乾いたわらいをこぼす俺に、奈保美はうすく口をひらいたまま、黙って足をひたりと床につけて女座りをしていた。汗が、彼女の額から鼻すじを辿って、胸の谷間に落ちてゆく。
奈保美を抱くたびに、彼女を壊している感覚になっていたが、本当に壊れていったのは俺なのかもしれない。
それに気づき始めた夜だった。 水道で、奈保美が口をゆすいでいる。脚が少しひらき、洗面台に屈んで、水をふくむ彼女の背中を凝視していた。浮いた背骨の上に、薄紅に染まった傷跡が、斜めに線を描いている。暗闇でははっきりとは見えなかったが、灯りに照らし出された今なら、はっきりとわかる。十年前よりも肉付いて、うすれているが、確かな傷だった。
俺はベッドに仰向けになり、精が抜けてけだるく溶けたからだを休ませていた。額に右の二の腕を当てると、すでに汗は乾いている。
あきれたもんだ。奈保美に働かせておいて、自分は休んで、すでに汗も引いているなんて。
「服着ないの」
考えを逸らそうと、奈保美の背中から、焦点を剥がす。フローリングがつやを失っていたことに、そのとき気付いた。
「……んー、あとで」
「ごめん。やっぱ、フェラはやり過ぎだったかも」
「別に。慣れてるし大丈夫だよ」
今までの男のことか、と思い、なんだか切なくなり、視線を斜め上へ泳がせた。
蛇口を捻る高い音が聞こえる。口を濯ぎ終わった奈保美は、こちらへやってきた。ひたひたと、魚が跳ねるような淡い足音が近づいてくる。
耳に気持ちよかった。
「何やってたんだい」
「あんたを見ていた」
奈保美は乾いたわらいをこぼす。
「よくそんな気障なセリフ言えるよね。さすがマンガ家先生」
「……俺にも慣れたんじゃねえの。もう」
「どうかなあ。まだ慣れない。春一郎くんと、ほんとにセックスする仲になるなんて思わなかったもの」
奈保美はベッドで眠る俺の横に座り、ヘッドボードをゆびさきでぴんと弾く。鈍い木の音が、すこんと響いた。 くの字に曲がった奈保美の腰と、桃のように割れてマットレスに半分沈んだ弾力のある尻に手を伸ばし、ゆびの甲でそっと撫でる。しっとりとした肌触りが心地よく、より手をあげて、脇の下から尻までなぞるように撫でていると、肌が汗ばんできた。
「またする?」
「……やめてくれ。もう」
俺から顔を逸らす。奈保美の髪は、勢いをつけたのでふわりと流れて舞った。俺はさらに手を伸ばし、左手で上半身をかるく起こすと、奈保美の髪を淡く摘んだ。
窓硝子からこぼれる月光に呼応するように、髪のひとすじひとすじが、透けて淡い光を纏っている。俺に汚されても、この女は自分から放つうつくしさを失わない。俺のものになった後でも、心の中では一線を許さない孤高さがあった。そこがすきだったから、もっともっとと、求めてしまっていたのかもしれない。
髪から手を離すと、はらりと背中に段々と落ちてゆく。
髪の最後のひとすじが落ち切る前に、背中の傷に手を伸ばす。 奈保美は傷にふれられたことに気づき、びくりと一度、身を震わせた。
「ここ、やっぱ弱いの」
「ちょっと、どこ触っているのさ」
近くでしっかりと見てみると、やはり他の場所と、肌の色や質感が少し違っていた。血色の良いすべらかな肌と、薄桃色にいろづいたつやの目立つ斜めの傷跡。その境を、人差しゆびで、ゆっくりとたどり、降りてゆく。
「やめて、……!」
最初は半笑いだった奈保美も、下まで降りるほどに、びくびくとからだを震わせて、息を荒くしていった。
尻の上までゆびが辿り着くと、はあと大きく息を吐き、片手で支えていた上体が、耐えきれなくなったように、深くベッドへ倒れた。こちらから顔は見えなかったが、背中に流れた髪がひとふさ、前へこぼれ、剥き出しにされていた胸が、大きく前へゆれた。
「この傷も、あんたの性感帯なんだ」
「傷のことは言わないで」
「なんで」
「トラウマなんだよ。ふれて欲しくないんだ」
「肉体の関係になれば、誰でも、あんたの背中の傷のことには気付くだろ。ヌードモデルをしていた十年前だってそうだ。その時からあった」
腰をくねらせて俺から顔を逸らそうとする。 俺はそれを止めようと、腕を伸ばして奈保美の背中を抱きしめた。こんなにちいさかったかと思うほど、両腕の中にすっぽりとおさまった。肌が昨夜よりも冷えている。温めてやろうと胸を動かして背中をさする。ほとんど覆い被さるようになってしまった。
「ふしぎなもんだ。ガキのころは、あんたのことを、すげえ背が高くてでかい女だと思ってたのに」
「……歳だもん。これからどんどん老いてゆくだけさ。春一郎くんのほうが大きく強くなっていって、私は弱くちいさくなってゆくだけ」
長い髪の隙間から見えた、奈保美の口角があがっていたので、俺は安心した。後ろ向きなことを言っているが、気持ちは先ほどより上向いてきたらしい。
「ちょっとわらえるようになってきたじゃん」
「ありがとう……。ありがとうってのも、おかしいか。君に背中いじられて、こんなふうになっちゃったのに」
「過去になんかあったの。別に話せば。俺だったら良いだろ」
奈保美の胸の上に腕を重ねて、彼女を丸ごと抱きしめる。
腕に奈保美の顎が乗り、しっとりとした髪が、しどけなく流れかかっていた。目の前に広がる髪に、鼻とくちびるを埋めると、花の香りがゆたかに広がり、やがてしずかな泉のほとりの、きよらかな香りへと変わってゆく。
「会社員時代に付き合っていた上司が、ちょっと変わった男でね。最後のセックスの時に遊びが過ぎて、ホテルに持ってきていた折り畳みナイフで、私の背中を袈裟斬りにしたんだ」
奈保美の髪がゆれ、自然と俺の鼻を包む深度を増した。目の前で橙が織り重なって透けてゆく。
「付き合い始めた時は、やさしくて穏やかなひとだっただけどね。肉体関係になってから、徐々におかしくなっていった。ベッドに入ると、嫌なことばかり強要するようになって、だんだん一緒にねむるのが、抱き合うのが怖くなっていって、一方的に犯されているようなセックスばかり繰り返していった。それを拒んだら、攻撃的に変化してしまった……。
私がいけなかったのかな。私のせいで狂ってしまったのかな」
それは違う、と言いかけて、現在の俺の様をふりかえり、目を瞠った。
俺は、奈保美に出会ってから、性癖が歪んでしまった。十七のあの秋の日から、奈保美を超えて、確かに何かが変わった。それは恋愛観や性欲に影響を与えた。
セックスの時の、闇の中の奈保美のうねる肢体を思い返す。この女には、ひとりの男の性癖を狂わせるほどの魔力がある。本人が、きっとそれに気付いていない。
奈保美は傷ついていた。背中の傷のことを話すことは、彼女にふさがったかさぶたを剥がして、古い血を流させることと一緒だった。 目の前が赤く染まった。
言葉を、慎重に選ぶ。
「……あんたは悪くない。悪くねえよ」
「ありがとう」
奈保美のゆたかな胸の上に重ねた己の腕で、とんとんと叩く。俺にしては加減をした淡い力だった。
奈保美の声は、これまでのどんな色よりもか細く、ふれれば溶けて消えてしまう砂糖菓子のようだった。
このまま淡い力で叩き続ければ、奈保美が崩れて、消えてしまうのではないかという恐れを感じ、俺は彼女の胸を鼓舞するのをやめて、腕の力を弱める。
腕は下がり、彼女の乳首の真上に到着し、停止した。乳輪の、ぼこぼことした小さな凹凸を感じる。
首の支える力を弱め、うつむくと、奈保美の髪の中に、深くふかく沈んでゆく。
髪のあいだが裂けて、あらわになった首すじに、くちびるが自然につくと、淡く膜を張るように湿っていた。 俺は奈保美に対して攻撃的になってんのかな。大事にしているつもりでいて、セックスの時は、頭が馬鹿になっている。
自分のセックスを振り返り、ふれたくないものにふれてしまったような気がして、考えることをやめようと、まぶたを閉じて紅いくらやみの中に沈んでいった。
奈保美の髪にふれた俺の額から、しずくが垂れ落ちて鼻梁をつたい、俺の肌もいつの間にか湿っていたことに気付いた。
月曜日。美術館の休日を、奈保美は俺と共に過ごすことを選んでくれていた。
昼から俺の部屋に来て、ゆっくりと過ごした。
奈保美は求めあった後、部屋を出るまで裸で過ごすことが多くなっていった。
ふたり共、ライトグレーのソファの上で座っていた。
「このほうが、心地いいしね」
そう言って、コーヒーの入ったマグカップを両手に大切そうに持ちながら、長い脚を組み、まぶたを閉じてわらう。長いまつげが、頬に線を描いた影を落としている。
彼女の大切な性器は、脚が重なるところで、うまい具合に隠されていた。奈保美の周囲だけ、空気が違うようだった。どんな場所にいても、穏やかで上品なものが保たれている。
俺は、それにふれているだけで心地が良かった。
「コーヒーを音立てて飲むのは、気に入らないけどな」
「え、なんか言った?」
「何も」
「神経質だなぁ。それくらい許せよ」
「蕎麦じゃねぇんだからさ……」
他愛ない雑談にも、遠慮がなくなってきた。これは元からか。
もうこのまま、夫婦として過ごしてもいいんじゃないか。そんな淡い期待を抱き始めている。
これしあわせ、っていうもんなのかもしれない。しあわせ、っていう言葉が、世間で定義づけられすぎている気がして、ずっときらいだったが、俺は奈保美と一緒に過ごすようになってから、しあわせっていうものが何なのか、理解できるようになってきていた。きっと、俺にとって、奈保美とセックスしたり、馬鹿げた会話をしたりしているときにだけ、満たされている何かがあるのだろう。今まではそれがなかったから、他の女を代わりのように抱いては、それを求めて、無くして、時間ばかりが過ぎて、相手を傷つけて、自分も気づかないあいだに、虚しさを重ねて、生きてきた。 やっと、俺にもわかるときが来たってのか。
薄青い感動が、静かに去来していた。
視界が刹那、うるんでゆれて、また乾いて戻ってくる。
「春一郎くん。どうかした?」
「……いや、このまま奈保美さんが、ずっと俺の部屋で暮らせばいいのになって思ってた」
何気なく言ってしまって、はっとする。 奈保美が息を止めるのがわかった。
うつむいて前髪で顔を隠していた俺は、すっと首を元に戻すと、奈保美をまっすぐに見やった。
夕暮れのうすやみが、俺たちのあいだに降りている。
奈保美のひとみや前髪が、その薄青に、淡く染められて影を帯びていた。
時が、止まってしまったようだった。
石の女神像のように固まっていた奈保美は、口の端を持ちあげると、「はは」と乾いたわらいを漏らした。頬が、照れたいろに染まる。
「何言ってんだよ、急に。あーびっくりした。えっちなことし過ぎておかしくなっちゃったのかい」
「別にふざけてねえよ。このままあんたと関係続けてたら、いつかそうなってもおかしくないだろ」
「んーまあ……、そうだね。でも今は、そういうの、考えられないや。職場もここから離れてるしね……」
ごめん、とちいさくつぶやき、うつむく奈保美に、俺は少しかなしげに眉をひそめた。
言うべきじゃなかったのかもしれない。少なくとも、まだ今は。
「俺は……」
自分でも、今まで発したどんな声より、しずかで密やかな声だと思った。俺にこんな発声できたのか。恥ずかしくて、奈保美を直視できなかった。少し逸らした視線のさきに、掃き出し窓からこぼれる薄闇があった。少し陰っていて、純度がある。透明な夜が、もう来ていた。
「結婚とか、籍入れるとか、そういうこと抜きにして、奈保美さんと一緒にいるのが、居心地いいんだよ」
なんとなく、声が震えていた。
「すきなんだ。奈保美さんのことが、やっぱ」
何度もからだを重ねたはずなのに。改めて口にすると、顔から火が出そうになる。__そんなん、中坊ん時に卒業したってのに。何なんだ俺は。
気付けばこめかみに、うっすらと汗をかいていた。
奈保美は、マグカップをサイドテーブルの上に置いて、胡座をかいて座っていた。灰青色のベッドの上で、猫のように俺のことをじっと見上げている。
「ふーん、言うようになったじゃない。十年前は、ませた男の子だなって思ってたけど。ちゃんと、思ってること言えるおとなになったんだね。えらいえらい」
面白そうに、まぶたを半分伏せている奈保美の顔に俺は苛つき、そばにあったクッションを投げると、彼女は腕を広げてそれを受け止めた。
隠されていた双丘があふれて、カップから飛び出たプリンのように、ゆれてつんと薄紅のさきを尖らせている。けらけらとわらう奈保美は、愛の告白を受けたとは思えない姿だった。
「ガキみてえなわらい方しやがって」
俺は、その場で着ていたグレーのTシャツを脱ぐと、裸の奈保美に飛びかかった。
奈保美は大笑いをしたまま、俺を受け止めると強い力で抱きしめた。
ソファから落ちてカーペットに崩れ落ち、そのまま月が中天にかかるまで互いに快楽を与え合った。 奈保美のやわらかい尻に、音が鳴るほどに太ももを打ちつけて、中を激しく抉りながら、俺は自分がどんどん獣のようになってゆくのを感じていた。
尻の中央に生まれた汗に、月のしろさが生まれ落ちたのをみて、上体をかがめてそれを舐めた。俺が太ももで叩くたび、腰をくねらせて変化する奈保美のからだは、まるで夜行性の蛇のようだった。
「感じるのか」
最初、馬鹿みたいにわらっていた奈保美も、行為の深みまで至ると、小刻みに荒い息を吸っては、また吐くだけになっていた。湿り気とねばりを帯びた息が、むせるように彼女の顔の周囲に広がる。 俺の鼻先にも、奈保美の息のにおいが届いていた。エロいことをしているっていうのに、爽やかで清潔な香りだった。
その香りを嗅いで、さらに俺の腰の熱は熱く尖っていった。
奈保美の中を暴き、さらに肉を抉ると、奈保美は上向いて喉の奥から掠れた声をあげた。喉から血があふれたような声だった。
「__感じるのか。なぁ」
口の端の筋肉が動くのがわかる。自然と口角があがっているのだ。奈保美とのセックスに、快楽と愛情だけではなく、愉悦も加わっていた。
__楽しい。愉しい。
奈保美の蜜壺は、俺が腰を振る速度を強めるたびに、新たな水を増し、飲み込んでくる。奥底に果てがないように感じるが、ちゃんと子宮口に辿り着く前に、ざらりとした口が止めてくれる。気を抜くと、意識とからだを持っていかれるので、歯を食いしばってそれに耐えていた。奈保美のからだと、俺のからだは、元々ひとつだったのではないかと思うほど、ぴったりと合った。
男の肉棒を、奥へおくへと誘い、ほどよい締め付けでじんわりとあたたかく締め付ける。
彼女のからだの中を、ずっとたゆたって、さまよっていたい気持ちにさせられる。俺は奈保美の中にいるときだけ、海の中を泳ぐ魚になっていた。時には鰯のように速く、時には熱帯魚のように優雅に泳ぐことを許されて。 奥を突いては、また離れると、奈保美は大きく息を吸い込み、額から汗を流した。海底に沈められて、息を吹き返したイルカのようだった。肌の湿り気は、さらにつやを帯びて、てらりと輪郭が月色に染まり、神々しささえ感じさせた。
交わりが深くなると、俺は自然と額に汗が浮いて、前髪を濡らした。体の血流がさらに速くめぐり、体温がどんどんあがっていった。燃えあがるとは、このことだ。
「……あんたを抱く回数が増えてきて、あんたのからだのことが、最初よりわかってきたんだよ」
「……ははっ……。面白いこと言うね。作家先生は」
黙れ、という気持ちを込めて、奈保美の腰を摑んだ両手に、力を入れる。
弾力の良い肌が、俺のゆびの圧力でくぼむ。
額から汗が飛び、奈保美の背中に、てんてんと跡をつけ、輪郭に沿って、なめらかな肌を滑り落ちてゆく。
深く俺を差しこまれて、奥まで感じてしまったのか、奈保美は、くんと腕を伸ばすと、顔を天に向けて、がくがくと小刻みに震えはじめた。鎖骨にこぼれた奈保美の髪をひとふさ、そっと右手でふれるような圧力で摑むと、肩甲骨の上に流す。汗で濡れて、しっとりとしていた。 かすかにひらいた掃き出し窓から、夜風が流れて、背中に流れた髪が散らされる。橙は薄青く染まり、汗ばむ奈保美の背中の上を、ひらひらと漂っていた。
「春一郎……、くんっ」
後背位の体勢のまま、奈保美は首をうねらせて俺を見上げる。髪が、汗に濡れた首すじに、蜘蛛の巣のようにはらりとまとわりついている。
俺を見上げる奈保美の目元は、紅に染まっていて、さらに扇状的になっていた。
琥珀の瞳は、透明な涙の膜に守られ、きらきらと生命力を放っている。奈保美は、乾きを知らないみずうみだった。常に澄んだ水をたたえ、しとやかな湿度とうるおいに満ちている。俺はそれに包まれ、飲み込まれ、たゆたっているただの魚だ。 固くなったからだを倒し、奈保美の首に片手をかけると、うすくひらいたくちびるを、くちびるで塞いだ。薄皮のぬるりとした感触と共に、互いに出した舌先をからませる。程よくざらりとした厚い舌の表面をこすりつけあい、剥がれて上顎を舐めると、奈保美は、半分伏せたまぶたを、ぴくぴくと震わせた。
月あかりがまるく浮いて、燐光を発している。
奈保美の口の中は、春の海辺の洞穴のように、あたたかな風が吹いていた。
うすくひらいた俺の瞳と、奈保美の瞳は、交差し、互いの中に広がる己をみていた。
くちづけをほどき、コンドームの中に己を放つと、ゆっくりと奈保美が前にからだを動かし、離れていった。
汗ばむ尻と俺のあいだを繋ぐ橋にも、月あかりは降り注ぐ。コンドームを外すと、底に溜められた中の白い精が見えた。
ゆびさきで口先をつまみ、ひらひらとおもちゃのように動かす。
「純白だけど、汚れてる」
ひとりつぶやくと、四つん這いになっていた奈保美が、上体を崩れ落とした。荒く息を吐き、背中と尻に浮く汗は、しずくの大きさを増している。こちらに向かって、高く突きあげられた尻をみて、俺はふたたび口角をあげた。
「奈保美さん。まだ体力大丈夫? 大丈夫なら、やってほしいことがあるんだけど」
奈保美の尻に、右手を当てる。つるりとした感触がして、親指をふれるかふれないかの微妙な圧力で、動かした。 奈保美の尻がぴくりと動いて、尻肉が震える。
俺は一度右手を離してから、もう一度右手を尻にそわせた。あまく叩くように、ぱちりと小君良い音がした。熟れた桃のようにやわらかな尻は、簡単にゆれて変形する。
奈保美の背中が、くの字に曲がり、ふたたび元に戻ると、汗のしずくが背筋に溜まった。
「雨上がりみてえだ」
俺は、彼女の尻に置いていた手を、背中へ滑らせて、汗のしずくをそっと払った。溜まった汗は、なみだのようにカーペットの上へはらはらと落ちていった。
汗を払うと、湿った奈保美の肌だけが残る。
腰を高くあげ、尻だけを出し、首をうねらせている。
髪のはざまから、琥珀の瞳がひとつだけ覗き、らんらんとかがやいて、俺を睨んでいる。汗ばんで湿った橙の髪が、奈保美の顔を覆っている。茂みからこちらを睨む虎のようだった。赤く染まった頬が月あかりを受けて、妖しい色を魅せていた。 俺と奈保美は、ベッドへとあがった。膝立ちになった俺の獲物を、奈保美の口にふくませて。ぬめるような感触が最初にしたが、あとはすんなりと彼女の頬の内側に俺のものは収まった。
奈保美には裸のまま、ヒールの高い靴だけを履いてもらっていた。ワインレッドのサテン生地のそれは、夜のうすあかりの中で鈍くつやを放って映えていた。四つん這いになって、首を動かす奈保美の橙の髪が、俺の下でゆれている。
それだけで、すべてを吐き出しそうになる。ぐっとこらえて、奈保美の髪を片手で撫でて、ひとふさ前にこぼれた髪を、右の耳にかけてやる。
耳たぶに、ふさがりかけたピアスの跡があった。ピアスをやめて、イヤリングに変えたのだろうか。今さら気づく。 俺は未だに、左耳にだけピアスを開け続けているというのに。
彼女がピアスを開けていた時間の中に、俺はおらず、そのあいだ、他の男がピアス姿の奈保美と会っていた事実に、寂しさと狂おしい嫉妬を覚える。
「苦しいか」
見下ろすと、奈保美の伏せられたまぶたがいつもよりも広い。月あかりが、乳白色のアイシャドウになって、てらりと鈍く発光していた。長い睫毛が、薄青に染まる頬に、さらに濃い影を描いていた。潮騒のようにやってくる俺のものを飲み込むたびに、苦しそうに眉を寄せ、まつげはゆるゆると震えて、けぶった。その上に、額からこぼれ流れた汗が落ちて、高い鼻梁を濡らした。
「苦しいか、なあ」
右手を伸ばし、奈保美の顔にかかった髪ごと、頭を上向かせる。 ぷはあ、という息の音と共に、奈保美が、俺のものから離れて顔をあげた。
「……春一郎くん、すっごい顔してるよ。アニメのラスボスみたい。なんか」
奈保美が、上目遣いで俺を見ている。でかい目ん玉だ。サウナから出たばかりの女のように、頬が火照って、視線がおぼつかない。夢から覚めたばかりで、水辺にあがった人魚のようだった。琥珀ばかりが濡れてかがやいて、落ち着かなかった。 俺は片手をくちもとに当てる。口角は、面白いほどにあがっていた。
「はは……」
乾いたわらいをこぼす俺に、奈保美はうすく口をひらいたまま、黙って足をひたりと床につけて女座りをしていた。汗が、彼女の額から鼻すじを辿って、胸の谷間に落ちてゆく。
奈保美を抱くたびに、彼女を壊している感覚になっていたが、本当に壊れていったのは俺なのかもしれない。
それに気づき始めた夜だった。 水道で、奈保美が口をゆすいでいる。脚が少しひらき、洗面台に屈んで、水をふくむ彼女の背中を凝視していた。浮いた背骨の上に、薄紅に染まった傷跡が、斜めに線を描いている。暗闇でははっきりとは見えなかったが、灯りに照らし出された今なら、はっきりとわかる。十年前よりも肉付いて、うすれているが、確かな傷だった。
俺はベッドに仰向けになり、精が抜けてけだるく溶けたからだを休ませていた。額に右の二の腕を当てると、すでに汗は乾いている。
あきれたもんだ。奈保美に働かせておいて、自分は休んで、すでに汗も引いているなんて。
「服着ないの」
考えを逸らそうと、奈保美の背中から、焦点を剥がす。フローリングがつやを失っていたことに、そのとき気付いた。
「……んー、あとで」
「ごめん。やっぱ、フェラはやり過ぎだったかも」
「別に。慣れてるし大丈夫だよ」
今までの男のことか、と思い、なんだか切なくなり、視線を斜め上へ泳がせた。
蛇口を捻る高い音が聞こえる。口を濯ぎ終わった奈保美は、こちらへやってきた。ひたひたと、魚が跳ねるような淡い足音が近づいてくる。
耳に気持ちよかった。
「何やってたんだい」
「あんたを見ていた」
奈保美は乾いたわらいをこぼす。
「よくそんな気障なセリフ言えるよね。さすがマンガ家先生」
「……俺にも慣れたんじゃねえの。もう」
「どうかなあ。まだ慣れない。春一郎くんと、ほんとにセックスする仲になるなんて思わなかったもの」
奈保美はベッドで眠る俺の横に座り、ヘッドボードをゆびさきでぴんと弾く。鈍い木の音が、すこんと響いた。 くの字に曲がった奈保美の腰と、桃のように割れてマットレスに半分沈んだ弾力のある尻に手を伸ばし、ゆびの甲でそっと撫でる。しっとりとした肌触りが心地よく、より手をあげて、脇の下から尻までなぞるように撫でていると、肌が汗ばんできた。
「またする?」
「……やめてくれ。もう」
俺から顔を逸らす。奈保美の髪は、勢いをつけたのでふわりと流れて舞った。俺はさらに手を伸ばし、左手で上半身をかるく起こすと、奈保美の髪を淡く摘んだ。
窓硝子からこぼれる月光に呼応するように、髪のひとすじひとすじが、透けて淡い光を纏っている。俺に汚されても、この女は自分から放つうつくしさを失わない。俺のものになった後でも、心の中では一線を許さない孤高さがあった。そこがすきだったから、もっともっとと、求めてしまっていたのかもしれない。
髪から手を離すと、はらりと背中に段々と落ちてゆく。
髪の最後のひとすじが落ち切る前に、背中の傷に手を伸ばす。 奈保美は傷にふれられたことに気づき、びくりと一度、身を震わせた。
「ここ、やっぱ弱いの」
「ちょっと、どこ触っているのさ」
近くでしっかりと見てみると、やはり他の場所と、肌の色や質感が少し違っていた。血色の良いすべらかな肌と、薄桃色にいろづいたつやの目立つ斜めの傷跡。その境を、人差しゆびで、ゆっくりとたどり、降りてゆく。
「やめて、……!」
最初は半笑いだった奈保美も、下まで降りるほどに、びくびくとからだを震わせて、息を荒くしていった。
尻の上までゆびが辿り着くと、はあと大きく息を吐き、片手で支えていた上体が、耐えきれなくなったように、深くベッドへ倒れた。こちらから顔は見えなかったが、背中に流れた髪がひとふさ、前へこぼれ、剥き出しにされていた胸が、大きく前へゆれた。
「この傷も、あんたの性感帯なんだ」
「傷のことは言わないで」
「なんで」
「トラウマなんだよ。ふれて欲しくないんだ」
「肉体の関係になれば、誰でも、あんたの背中の傷のことには気付くだろ。ヌードモデルをしていた十年前だってそうだ。その時からあった」
腰をくねらせて俺から顔を逸らそうとする。 俺はそれを止めようと、腕を伸ばして奈保美の背中を抱きしめた。こんなにちいさかったかと思うほど、両腕の中にすっぽりとおさまった。肌が昨夜よりも冷えている。温めてやろうと胸を動かして背中をさする。ほとんど覆い被さるようになってしまった。
「ふしぎなもんだ。ガキのころは、あんたのことを、すげえ背が高くてでかい女だと思ってたのに」
「……歳だもん。これからどんどん老いてゆくだけさ。春一郎くんのほうが大きく強くなっていって、私は弱くちいさくなってゆくだけ」
長い髪の隙間から見えた、奈保美の口角があがっていたので、俺は安心した。後ろ向きなことを言っているが、気持ちは先ほどより上向いてきたらしい。
「ちょっとわらえるようになってきたじゃん」
「ありがとう……。ありがとうってのも、おかしいか。君に背中いじられて、こんなふうになっちゃったのに」
「過去になんかあったの。別に話せば。俺だったら良いだろ」
奈保美の胸の上に腕を重ねて、彼女を丸ごと抱きしめる。
腕に奈保美の顎が乗り、しっとりとした髪が、しどけなく流れかかっていた。目の前に広がる髪に、鼻とくちびるを埋めると、花の香りがゆたかに広がり、やがてしずかな泉のほとりの、きよらかな香りへと変わってゆく。
「会社員時代に付き合っていた上司が、ちょっと変わった男でね。最後のセックスの時に遊びが過ぎて、ホテルに持ってきていた折り畳みナイフで、私の背中を袈裟斬りにしたんだ」
奈保美の髪がゆれ、自然と俺の鼻を包む深度を増した。目の前で橙が織り重なって透けてゆく。
「付き合い始めた時は、やさしくて穏やかなひとだっただけどね。肉体関係になってから、徐々におかしくなっていった。ベッドに入ると、嫌なことばかり強要するようになって、だんだん一緒にねむるのが、抱き合うのが怖くなっていって、一方的に犯されているようなセックスばかり繰り返していった。それを拒んだら、攻撃的に変化してしまった……。
私がいけなかったのかな。私のせいで狂ってしまったのかな」
それは違う、と言いかけて、現在の俺の様をふりかえり、目を瞠った。
俺は、奈保美に出会ってから、性癖が歪んでしまった。十七のあの秋の日から、奈保美を超えて、確かに何かが変わった。それは恋愛観や性欲に影響を与えた。
セックスの時の、闇の中の奈保美のうねる肢体を思い返す。この女には、ひとりの男の性癖を狂わせるほどの魔力がある。本人が、きっとそれに気付いていない。
奈保美は傷ついていた。背中の傷のことを話すことは、彼女にふさがったかさぶたを剥がして、古い血を流させることと一緒だった。 目の前が赤く染まった。
言葉を、慎重に選ぶ。
「……あんたは悪くない。悪くねえよ」
「ありがとう」
奈保美のゆたかな胸の上に重ねた己の腕で、とんとんと叩く。俺にしては加減をした淡い力だった。
奈保美の声は、これまでのどんな色よりもか細く、ふれれば溶けて消えてしまう砂糖菓子のようだった。
このまま淡い力で叩き続ければ、奈保美が崩れて、消えてしまうのではないかという恐れを感じ、俺は彼女の胸を鼓舞するのをやめて、腕の力を弱める。
腕は下がり、彼女の乳首の真上に到着し、停止した。乳輪の、ぼこぼことした小さな凹凸を感じる。
首の支える力を弱め、うつむくと、奈保美の髪の中に、深くふかく沈んでゆく。
髪のあいだが裂けて、あらわになった首すじに、くちびるが自然につくと、淡く膜を張るように湿っていた。 俺は奈保美に対して攻撃的になってんのかな。大事にしているつもりでいて、セックスの時は、頭が馬鹿になっている。
自分のセックスを振り返り、ふれたくないものにふれてしまったような気がして、考えることをやめようと、まぶたを閉じて紅いくらやみの中に沈んでいった。
奈保美の髪にふれた俺の額から、しずくが垂れ落ちて鼻梁をつたい、俺の肌もいつの間にか湿っていたことに気付いた。



