それから何度か、奈保美は俺の部屋に遊びに来て、その度に抱き合った。溶けるような、混ざるような、互いにたがいの空洞を埋めるような交わりを繰り返して、どんどん深みに堕ちていった。
時には果てがなく沈んでゆき、時にはやわらかく、猫と猫が寄り添うように抱き合って眠る夜もあった。互いにこの関係に名前を確かめることはなく、だらだらと肉体だけが繋がっては、また離れてゆく。
でも、もどかしさや焦りはなかった。秋の夜長に、明確に恋愛感情を持っている相手と、肌と肌がふれあえることへの安心感と、この上ない多幸感だけに、ひたひたと流されていった。
繋がった部分は、徐々に熱さを増してゆき、癖になってゆく。
この熱を知らなかったころには戻れないほどに、交わりの深みに溺れていった。
前に付き合っていた男のことが気になったが、彼女の中で、もう消化ができているのか、それほど執着がなかったのか、その後、話題に出ることはなかった。なので俺もその件にふれることはなかった。
その日も雨だった。かすかだが確かに湿度を持ったしずくが、燦々と降り注いでいた。外の空気は翡翠に染まり、手をかざせば、ゆびさきが透明なみどりに溶けて、消えてゆくのではないかと思うほど、濃密な空のとばりが街に降りていた。
奈保美と、雨音にまぎれて、激しく抱き合った夜を超えた朝だった。
カーテンを開けて、漏れいずる淡い翡翠の光線に目を細める。
裸の肩が、まっすぐなひかりに照らし出されていて、その真ん中に、昨夜の奈保美のくちびるの湿り気を思い出して、、情事の後だということを実感させられる。
首を落として、からだから性行為の後の気だるさと、微熱のような体温が冷めるのを待つ。かすかに伏せた丸いまぶたに、朝のひかりがまぶしくて、そっと目を閉じると、視界が真っ赤に染まった。珍しく、奈保美よりも遅く起きた。
いつも隣で猫のように丸くなって眠っている奈保美のつやめく裸体が、今朝はみつからず、代わりに彼女のぬくもりと、ベッドのほどよいくぼみだけが残されていた。
立ちあがり、ルームウェアを着て奈保美を探すと、俺の仕事部屋のドアがかすかに空いており、はざまから秋の香りがする。
覗くと、奈保美がいた。
奈保美は、青と赤で幾何学模様が描かれたブランケットを羽織り、俺の部屋をうろちょろと探検し始めていた。
「この絵、いいね。ここで仕事してるの? この資料は何に使ってるの? あ、これ、うちの美術館の資料庫にもある本かも……」
俺の作画環境に興味があるようで、腰をかがめたり背を伸ばしたりして、本棚や壁に貼っておいた、俺が描いたキャラクターの資料などを見やっていた。こどものように、ひとみがきらきらとかがやいていて、生命力にあふれている。琥珀はさらに濡れて、雨上がりに照らしだされたかのように、うつくしく透明だった。
全裸で何も臆せず堂々と立っている、ヌードモデル時代の奈保美と等しい彼女が、そこにはいた。胸や太ももの輪郭が、透明に重なって燐光のように存在感を持っている。奈保美のうつくしさの本質は、纏うことよりも脱ぐことにあるのだと改めて思わされる。なめらかで、きめこまやかな肌が、ひかりをふくんで透明感と共に、自然で健康的な血色もしている。
「奈保美さん」
「あっ……なんだい?」
奈保美が振り向く。
真っ直ぐに俺を射抜くその視線に、俺は何かいけないことをしているように、「いや……」と小声でこたえた。そして、あんなにこの腕で抱いたと言うのに、彼女の裸体から目をそらす。
「春一郎くん」
「はい」
名前を呼ばれたから反射的にこたえた。もう一度奈保美を見ると、変わらず真っ直ぐに俺だけを見ていた。
瞳のかがやきは先ほどより増しており、ブランケットを左手でおさえて、右手は左腕に乗せられて、組んでいるようだ。しずかだが、堂々としている。
「私と、どうなりたいの」
しずかな声で、根本的な問いがやってきた。なんとなく明言することを互いに避けてきたことに。このまま肉体の関係を続けていくだけでも、俺はいいと思っていたが、彼女はこの関係への答えが欲しいのか。まあ、当たり前か。
俺はかるく咳をしてから答えた。
「……俺の女になってほしい。これからもあんたとセックスしたい」
「じゃあ、付き合う?」
付き合う、と言われて、付き合うってなんなんだろうと考えた。
人間の感情に、明確に契約のようなものはないんじゃないのか。
俺はずっと奈保美がすきで、奈保美も俺のことを想ってくれていた。それだけが確かなことで、人間関係に名前なんかいらないんじゃないだろうか。恋人。夫婦。セックスフレンド。名前をつければ、俺たちのこの歪な関係が、変なふうに変わってしまう気がして、怖かった。
「俺と奈保美さんの関係って、元から変じゃん。高校のときは、美術予備校生とヌードモデル。それが変化して、学芸員とエロ漫画家。今は肉体関係になった男女。付き合うとか、恋人になるとか、名前をつけなくていいんじゃない。会いたい時に会えばいいし、離れたいときに離れればいいよ」
思っていることを、そのまま言った。
屑な俺らしい話だと思った。こんなこと普通の女に言ったらぶん殴られるだろう。相手が怒ることをわかっていても、俺は俺の思っていることをやってきたから、どの女とも長続きしなかったんだろうな、と今ふと思う。右上をかるく見上げて、過去を思うが、あまり過去の女の顔は浮かびあがらず、花火のようにぱちりとあがっては、すぐに消えてゆく。
「やっぱり、君とは似たような感性を持ってると思っていたよ。うん、それでいこう。カップルなんて言葉、私たちに似合わないもの。元々私たちの関係は、言葉で名言できないものね」
奈保美は、まぶたを伏せて顎を引いた。神妙な面持ちである。ブランケットを羽織っているだけなのに、掃き出し窓からこぼれる朝陽を背負って逆光になっている姿は、どこか神々(こうごう)しく、犯しがたい雰囲気を纏っていた。内側から発光しているような。やっぱり、他の女と違う。たたずまいも、感性も、セックスも。俺と同じくらい変だが、しっくりと馴染んで、それが心地よい。
はっとまぶたをひらき、組んでいた腕を解くと、はらりとブランケットが舞い落ちていった。隠されていた奈保美の肩と胸があらわになる。
ひかりを吸い込んでかがやく裸体は、十年前の秋に、アトリエでヌードモデルとして目にしていたからだと同じものだった。
__熟れた果実のような胸の頂点で、杏色の乳首と乳輪が咲いている。その上に、橙の髪のふさがこぼれて、うすい影を作っていて。
俺はその場から素早く動いて、押し入れに入れっぱなしにしていた、大きいスケッチブックを取りに行き、奈保美の元へとまた戻った。そして、彼女の前で立膝をついて座り、スケッチブックを構えて絵を描く姿勢をとる。
「春一郎くん?」
「動かないで。奈保美さんはそのままでいて」
「あ、ああ……」
アナログで絵を描くなんていつ以来だろう。初めて連載が決まった時、担当さんにキャラクター設定の資料を描いて渡した時以来かな。
目の前の女を、じっとみつめる。穴が開くほどに、細部まで。さっきまで、すきにいやらしくいじっていた裸体を、今度は被写体としてとらえている。
吸い付くようなきめこまやかな肌の質感を味わっていた身体の輪郭を、ゆびさきを使い鉛筆で描く。
肌は、描く前よりも徐々につやめいていく。俺の手元に暴き出し、新たに構築し、俺だけの奈保美にする。鉛筆が紙の上で擦れる音が大きく、速くなってゆく。
夢中になって描いていると、奈保美がくたりと腰を落として倒れた。
いつの間にか、掃き出し窓から漏れるひかりは、さらに熱を増していた。
くずおれた奈保美と床の間に、濃い影が出来て、俺の足元まで伸びている。
俺は驚いて目を瞠ると、立ちあがった。手にしていたスケッチブックを落としたが、鉛筆はゆびさきにしっかりと挟んだままだった。我ながら、わらえる。こんな時でさえ、からだが絵描きなんだと、思い知らされて。
「奈保美!」
「ごめん……。急にこんな長い時間モデルをやることになるとは、思わなかったから。5分か10分で終わるのかと思っていたら、春一郎くん。一時間も描いてるんだもの」
近寄ると、奈保美の全身はうっすらと汗ばみ、頬は紅く染まって火照っていた。上目遣いで俺を見やる眸も、縁がかすかに濡れて扇状的になっている。
「あれ、春一郎くん。わらってるのかい……?」
俺は、くちもとに片手をやる。いつの間にか口角があがっていた。それだけじゃない。全身を駆け巡る血流が、熱くほとばしっている。こめかみに浮いていた汗が流れて、くちびるの上に辿り着く。
それを、舌を出して舐めあげると、奈保美はさらに恐ろしそうに目を大きくした。大きな琥珀の瞳の中に、嗜虐的な笑みを浮かべた俺の顔が映っている。目はぎらぎらとして血走っており、獲物を喰らおうとする獣の獰猛さを宿していた。
足元に落ちてひらかれたスケッチブックを見下ろす。
鉛筆の墨で描かれた奈保美は未完成だが、これから男を受け入れる女のように肉感的で、今にも動き出しそうだった。久しぶりに生身の人間をモデルにしながら絵を描いた。ゆびが震えていた。たのしかったからだ。いつも時間を計算して、淡々と仕事の絵を描いていたというのに、さっきのはなんだ。目が、手が、勝手に血で動かされているような感覚だった。俺の中に眠っていた野生の本能が、ゆり動かされていた。
「春一郎くん、だいじょうぶ?」
いつの間にか、腰をかがめて地べたに座り込んでしまっていたらしい。
奈保美が裸のまま、腰をかがめて俺の顔を覗き込んでいた。肩にかかっていた波打つ髪が、こぼれてカーテンのように彼女の瓜実顔を覆っている。髪の隙間からこぼれる朝陽の薄青が、鼻すじと目元に、うっすらとした影を宿していた。胸は果実のように、かすかに垂れ下がり、動くとゆるゆるとゆれる。
「あ、ああ……」
唖然として奈保美をみつめていた俺は、水を取ってくると言って、その場からゆっくりと立ちあがり、歩きながら呆然としていた。
背中に、奈保美の視線を感じた。焼きつくような、冷めたような熱が、背すじの中央をてん、と突いて、広がっていった。
時には果てがなく沈んでゆき、時にはやわらかく、猫と猫が寄り添うように抱き合って眠る夜もあった。互いにこの関係に名前を確かめることはなく、だらだらと肉体だけが繋がっては、また離れてゆく。
でも、もどかしさや焦りはなかった。秋の夜長に、明確に恋愛感情を持っている相手と、肌と肌がふれあえることへの安心感と、この上ない多幸感だけに、ひたひたと流されていった。
繋がった部分は、徐々に熱さを増してゆき、癖になってゆく。
この熱を知らなかったころには戻れないほどに、交わりの深みに溺れていった。
前に付き合っていた男のことが気になったが、彼女の中で、もう消化ができているのか、それほど執着がなかったのか、その後、話題に出ることはなかった。なので俺もその件にふれることはなかった。
その日も雨だった。かすかだが確かに湿度を持ったしずくが、燦々と降り注いでいた。外の空気は翡翠に染まり、手をかざせば、ゆびさきが透明なみどりに溶けて、消えてゆくのではないかと思うほど、濃密な空のとばりが街に降りていた。
奈保美と、雨音にまぎれて、激しく抱き合った夜を超えた朝だった。
カーテンを開けて、漏れいずる淡い翡翠の光線に目を細める。
裸の肩が、まっすぐなひかりに照らし出されていて、その真ん中に、昨夜の奈保美のくちびるの湿り気を思い出して、、情事の後だということを実感させられる。
首を落として、からだから性行為の後の気だるさと、微熱のような体温が冷めるのを待つ。かすかに伏せた丸いまぶたに、朝のひかりがまぶしくて、そっと目を閉じると、視界が真っ赤に染まった。珍しく、奈保美よりも遅く起きた。
いつも隣で猫のように丸くなって眠っている奈保美のつやめく裸体が、今朝はみつからず、代わりに彼女のぬくもりと、ベッドのほどよいくぼみだけが残されていた。
立ちあがり、ルームウェアを着て奈保美を探すと、俺の仕事部屋のドアがかすかに空いており、はざまから秋の香りがする。
覗くと、奈保美がいた。
奈保美は、青と赤で幾何学模様が描かれたブランケットを羽織り、俺の部屋をうろちょろと探検し始めていた。
「この絵、いいね。ここで仕事してるの? この資料は何に使ってるの? あ、これ、うちの美術館の資料庫にもある本かも……」
俺の作画環境に興味があるようで、腰をかがめたり背を伸ばしたりして、本棚や壁に貼っておいた、俺が描いたキャラクターの資料などを見やっていた。こどものように、ひとみがきらきらとかがやいていて、生命力にあふれている。琥珀はさらに濡れて、雨上がりに照らしだされたかのように、うつくしく透明だった。
全裸で何も臆せず堂々と立っている、ヌードモデル時代の奈保美と等しい彼女が、そこにはいた。胸や太ももの輪郭が、透明に重なって燐光のように存在感を持っている。奈保美のうつくしさの本質は、纏うことよりも脱ぐことにあるのだと改めて思わされる。なめらかで、きめこまやかな肌が、ひかりをふくんで透明感と共に、自然で健康的な血色もしている。
「奈保美さん」
「あっ……なんだい?」
奈保美が振り向く。
真っ直ぐに俺を射抜くその視線に、俺は何かいけないことをしているように、「いや……」と小声でこたえた。そして、あんなにこの腕で抱いたと言うのに、彼女の裸体から目をそらす。
「春一郎くん」
「はい」
名前を呼ばれたから反射的にこたえた。もう一度奈保美を見ると、変わらず真っ直ぐに俺だけを見ていた。
瞳のかがやきは先ほどより増しており、ブランケットを左手でおさえて、右手は左腕に乗せられて、組んでいるようだ。しずかだが、堂々としている。
「私と、どうなりたいの」
しずかな声で、根本的な問いがやってきた。なんとなく明言することを互いに避けてきたことに。このまま肉体の関係を続けていくだけでも、俺はいいと思っていたが、彼女はこの関係への答えが欲しいのか。まあ、当たり前か。
俺はかるく咳をしてから答えた。
「……俺の女になってほしい。これからもあんたとセックスしたい」
「じゃあ、付き合う?」
付き合う、と言われて、付き合うってなんなんだろうと考えた。
人間の感情に、明確に契約のようなものはないんじゃないのか。
俺はずっと奈保美がすきで、奈保美も俺のことを想ってくれていた。それだけが確かなことで、人間関係に名前なんかいらないんじゃないだろうか。恋人。夫婦。セックスフレンド。名前をつければ、俺たちのこの歪な関係が、変なふうに変わってしまう気がして、怖かった。
「俺と奈保美さんの関係って、元から変じゃん。高校のときは、美術予備校生とヌードモデル。それが変化して、学芸員とエロ漫画家。今は肉体関係になった男女。付き合うとか、恋人になるとか、名前をつけなくていいんじゃない。会いたい時に会えばいいし、離れたいときに離れればいいよ」
思っていることを、そのまま言った。
屑な俺らしい話だと思った。こんなこと普通の女に言ったらぶん殴られるだろう。相手が怒ることをわかっていても、俺は俺の思っていることをやってきたから、どの女とも長続きしなかったんだろうな、と今ふと思う。右上をかるく見上げて、過去を思うが、あまり過去の女の顔は浮かびあがらず、花火のようにぱちりとあがっては、すぐに消えてゆく。
「やっぱり、君とは似たような感性を持ってると思っていたよ。うん、それでいこう。カップルなんて言葉、私たちに似合わないもの。元々私たちの関係は、言葉で名言できないものね」
奈保美は、まぶたを伏せて顎を引いた。神妙な面持ちである。ブランケットを羽織っているだけなのに、掃き出し窓からこぼれる朝陽を背負って逆光になっている姿は、どこか神々(こうごう)しく、犯しがたい雰囲気を纏っていた。内側から発光しているような。やっぱり、他の女と違う。たたずまいも、感性も、セックスも。俺と同じくらい変だが、しっくりと馴染んで、それが心地よい。
はっとまぶたをひらき、組んでいた腕を解くと、はらりとブランケットが舞い落ちていった。隠されていた奈保美の肩と胸があらわになる。
ひかりを吸い込んでかがやく裸体は、十年前の秋に、アトリエでヌードモデルとして目にしていたからだと同じものだった。
__熟れた果実のような胸の頂点で、杏色の乳首と乳輪が咲いている。その上に、橙の髪のふさがこぼれて、うすい影を作っていて。
俺はその場から素早く動いて、押し入れに入れっぱなしにしていた、大きいスケッチブックを取りに行き、奈保美の元へとまた戻った。そして、彼女の前で立膝をついて座り、スケッチブックを構えて絵を描く姿勢をとる。
「春一郎くん?」
「動かないで。奈保美さんはそのままでいて」
「あ、ああ……」
アナログで絵を描くなんていつ以来だろう。初めて連載が決まった時、担当さんにキャラクター設定の資料を描いて渡した時以来かな。
目の前の女を、じっとみつめる。穴が開くほどに、細部まで。さっきまで、すきにいやらしくいじっていた裸体を、今度は被写体としてとらえている。
吸い付くようなきめこまやかな肌の質感を味わっていた身体の輪郭を、ゆびさきを使い鉛筆で描く。
肌は、描く前よりも徐々につやめいていく。俺の手元に暴き出し、新たに構築し、俺だけの奈保美にする。鉛筆が紙の上で擦れる音が大きく、速くなってゆく。
夢中になって描いていると、奈保美がくたりと腰を落として倒れた。
いつの間にか、掃き出し窓から漏れるひかりは、さらに熱を増していた。
くずおれた奈保美と床の間に、濃い影が出来て、俺の足元まで伸びている。
俺は驚いて目を瞠ると、立ちあがった。手にしていたスケッチブックを落としたが、鉛筆はゆびさきにしっかりと挟んだままだった。我ながら、わらえる。こんな時でさえ、からだが絵描きなんだと、思い知らされて。
「奈保美!」
「ごめん……。急にこんな長い時間モデルをやることになるとは、思わなかったから。5分か10分で終わるのかと思っていたら、春一郎くん。一時間も描いてるんだもの」
近寄ると、奈保美の全身はうっすらと汗ばみ、頬は紅く染まって火照っていた。上目遣いで俺を見やる眸も、縁がかすかに濡れて扇状的になっている。
「あれ、春一郎くん。わらってるのかい……?」
俺は、くちもとに片手をやる。いつの間にか口角があがっていた。それだけじゃない。全身を駆け巡る血流が、熱くほとばしっている。こめかみに浮いていた汗が流れて、くちびるの上に辿り着く。
それを、舌を出して舐めあげると、奈保美はさらに恐ろしそうに目を大きくした。大きな琥珀の瞳の中に、嗜虐的な笑みを浮かべた俺の顔が映っている。目はぎらぎらとして血走っており、獲物を喰らおうとする獣の獰猛さを宿していた。
足元に落ちてひらかれたスケッチブックを見下ろす。
鉛筆の墨で描かれた奈保美は未完成だが、これから男を受け入れる女のように肉感的で、今にも動き出しそうだった。久しぶりに生身の人間をモデルにしながら絵を描いた。ゆびが震えていた。たのしかったからだ。いつも時間を計算して、淡々と仕事の絵を描いていたというのに、さっきのはなんだ。目が、手が、勝手に血で動かされているような感覚だった。俺の中に眠っていた野生の本能が、ゆり動かされていた。
「春一郎くん、だいじょうぶ?」
いつの間にか、腰をかがめて地べたに座り込んでしまっていたらしい。
奈保美が裸のまま、腰をかがめて俺の顔を覗き込んでいた。肩にかかっていた波打つ髪が、こぼれてカーテンのように彼女の瓜実顔を覆っている。髪の隙間からこぼれる朝陽の薄青が、鼻すじと目元に、うっすらとした影を宿していた。胸は果実のように、かすかに垂れ下がり、動くとゆるゆるとゆれる。
「あ、ああ……」
唖然として奈保美をみつめていた俺は、水を取ってくると言って、その場からゆっくりと立ちあがり、歩きながら呆然としていた。
背中に、奈保美の視線を感じた。焼きつくような、冷めたような熱が、背すじの中央をてん、と突いて、広がっていった。



