いつの間にか、俺たちは部屋に戻っていた。あの日、激しくあいしあった俺の部屋で、ふたたびひとつになっていた。

 奈保美のからだは、以前抱いたときよりもやわらかくなっていて、よく湿って俺のことを受け入れてくれた。彼女に沈み、また浮きあがり。

雨に濡れて乾いた後の、三十七の女の肉体は豊麗(ほうれい)で粘度高く、あまく香り、俺の脳をとろけさせた。胸の上から鎖骨までを舐めあげると、敏感に肌は反応し、ふるふると震える。感度は、以前の夜よりも高くなっており、より男を受け入れるための器官として、開花していた。

 うっとうしいベッドの掛け布団を片足で蹴ると、奈保美をより強く抱きしめる。奈保美は、頭を大きく逸らせて汗を首すじに浮かべながら、両手のゆびを極限まで広げ、俺の背中にひたりと()わせた。時折あまく爪を立てる。

 なまめかしい喘ぎ声は、(しお)が満ちては引いてゆくように高まっては沈んでゆく。俺はその響きに合わせて腰を動かし、さらに奈保美を快楽の極地(きょくち)へと(いざな)った。ほとんど彼女を殺しているような、殺人的なセックスだった。

 最後は、奈保美は俺の名前を叫びながら大きく四肢(しし)を伸ばし、痙攣(けいれん)しながら受け入れていた。

 俺は奈保美の奥深くまでつらぬき、伸ばされて弛緩(しかん)したからだを、羽交締(はがいじ)めにして、彼女の中に眠らせた避妊具(ひにんぐ)の中で、己を打ちつけた。初回よりも馴染み、彼女の奥で縦横(じゅうおう)に跳ねて、あまい粘膜をいじめた。

 歯を食いしばり、まぶたをきつく閉じて、奈保美のこめかみから、涙のような大粒の汗が生まれては流れ、枕に染みていった。彼女の体臭はよりあまく、湿度深く部屋の中をたゆたって、俺の濡れた後頭部をやさしく包んでいた。

 俺はその香りに誘われて、彼女を下から抱きしめたまま、ゆっくりと眠りに落ちた。

 外ではまだ雨が降り注いでいる。

 ふたり、雨の音とつめたい空気を子守唄にしながら、ただひとつに重なって、熱く火照っていた。鼻すじがひんやりとして、心地よかった。うとうととまどろむ意識の中で、そっと右手を動かすと、奈保美の鼻先にふれた。

 彼女の鼻すじもひんやりとしていて、俺と同じ温度で、安心する。

 奈保美のうなじに鼻を(こす)り付けると、くらい視界に秋の盛りの景色が、広がってゆく。

 雨音が激しくなってゆく。

 俺の意識はしずかに溶けて内側へと消えていった。


 頬にふれる空気が冴えてつめたい。

 まぶたを開ける。

窓の外を見ずとも、皮膚の感触で晴れていることがわかった。

 カーテンを閉め忘れていたことに、今さら気付く。腕の中に、しっかりとしたぬくもりを感じる。熱く火照っていたものが、すずやかな夜を超えて、時間をかけて適度な温度に落ち着いていた。ずっと奈保美を抱きしめて眠っていたらしい。上下に折り重なっていた身体は、平行にふれあっていた。

 心地よいまどろみがする。このままこのまどろみの中に、永遠にたゆたっていたい。下半身は気怠(けだる)く、水に溶けるように動かしていた腰に、痛みを感じていたが、その痛みすら心地よいものになっている。

視界に白いひかりの粒子(りゅうし)が浮かんで、その透明なきよらかさの先に、奈保美がいる。俺の隣で象牙色(ぞうげいろ)のつやを帯びて、しずかに眠っている。


「奈保美……」


 奈保美の背中に回していた腕の片方で、彼女の二の腕をそっと撫でる。

二の腕に、ぷにぷにとした脂肪がほどよくついている。さわらなければわからない贅肉だった。


「肌は乾いてんな……」


 昨夜湿って汗ばんでいた肌は、窓の外の天気のようにさらりと乾いていた。

 きめこまやかな感触をたのしんでいると、眼鏡をかけていない剥き出しの奈保美のまぶたが震え始める。黒いまつげが震えて、りんりんと白いつやを帯びてきらめきはじめ、眠りの中に沈んでいた生命力が戻ってゆく。琥珀のひとみは、生まれたての透明な水の膜を張って、ひたと俺をとらえた。瞳孔だけが、ひかりを宿さず漆黒に存在している。夜の海の深淵に誘われる。

 からだが、この女の渦にとらえられ、沈んでいたことを思い出し、ざわりと(うず)き始めた。


「起きたんだ」


 俺は右手を伸ばして、奈保美の頬にふれた。撫でてやろうかと思ったが、無意識のうちに、かるくつねっていた。


「いてえ」


 奈保美は顔をくしゃりと寄せる。子供のようなあどけない表情だった。

 俺はそれにうけてしまった。もう片方の手をくちもとにあて、吹き出しそうになる息を抑えた。


「何わらってるの」


 奈保美は俺の首すじへ右手を伸ばし、そっと皮膚だけを(つま)んだ。少し尖った爪が、裂くようにふれてくる。痛気持ちよかった。

ネイルは昨夜のまま、深緑に金のラメが散らばっている。


「馬鹿みたいだな。安全圏の、良い男手放して、俺みたいなクズを選ぶなんて」


 奈保美はまるくわらおうとしていたが、かすかに眉を歪めて、切ない笑みに変わっていった。


「クズだなんて……。思ってないよって言おうとしたけど、思ってる。君は、ほんまもんのクズだよ」


 俺は額を片手でおさえて、くつくつとわらった。歯のあいだから、乾いた声が漏れる。


「どの辺がクズだと思ってんの?」


「そういうわらい方とか……。あと、女抱き慣れてんなあ、とか……。部屋の雰囲気でわかるもの。今まで何人か女連れ込んでたんだろうなって。昨日再会した時の言葉とかねー色々」


 奈保美は腕を重ねて、それを顔の下にたたみ、まぶたを伏せると、俺に身を寄せた。髪がふわりと動き、枯れたあまい秋の香りが、ゆたかに広がる。

 俺はその香りをはっきりと吸った。なぜか切ない気持ちで、胸の内側が酸っぱくなって、くちびるをかるく噛んだ。

視界が一瞬だけ鈍くぼやけ、またすぐにはっきりと映る。

 奈保美の前髪がゆれて、彼女のまぶたを覆う。頬と鼻の上に、うすい影ができる。


「あーあ。なんでこんな男、すきになっちゃったんだろう」


「ほんとだよ。俺もなんでこんな女すきになっちまったんだろう。こんな最低な女」


「ははっ。君も言うねぇ。まあ、生意気なのは、十七歳の時からか……。ねえ、今は、何人と付き合ってるの」


「……あんたと再会できてから、全員興味無くなって切った。今は奈保美さんだけだよ」


 奈保美は吹き出した。長い髪が、ゆらゆらと波のようにベッドの上をたゆたって流れた。

 俺はそれを横目でみながら、かるいため息をついた。吸った空気がちょうどいいつめたさで、心地よかった。

 俺は奈保美の言うように、本当にクソ野郎だ。

なんの未来の保証もない俺が、勝手な抱き方をして、それで奈保美の未来を変えてしまった。

俺と再会しなければ、彼女の進む道は、安全で安心で、愛情に満ちていたものになっていたのかもしれないのに。

 それでも。

 それでも、今、裸の奈保美が俺の元にいてくれることに、この上のない(よろこ)びを感じている。この時間を得るためだったら、地獄に落ちてもいいと思えるほどに、高揚して、別れた男に対して優越感を抱いていた。

ああ、本当に俺は屑だ。誰に何を言われてもいい。

もう、奈保美以外のすべてがどうでもいい。

 その後、俺たちは、ベッドの上で子供のように(たわむ)れ合っては、また穏やかに眠った。肉体(からだ)を繋げ合ったとは思えないほど、姉と弟のように、妹と兄のように。

 奈保美は、広げた俺の腕を枕にして眠り、俺は奈保美の腕に抱かれて。ゆたかでやわらかな胸を枕にして。ふわふわと雲の上をたゆたうような、心地よい眠りだった。


 昼を過ぎ、部屋の中がかすかな薄青に染まると、どちらともなくゆったりと起き出し、俺がマグカップに淹れたホットミルクを飲んだ。


「仕事は?」


「私は、平日休みの、土日勤務の美術館で働いている職員だ。今日は火曜日だろう。明日もちょうどお休みだから、ゆっくりのんびり過ごしていても、バチは当たらないよ」


 奈保美はベッドに座ったまま、両手を伸ばす。剥き出しの尻と太ももも、筋肉が伸びているのがわかった。背中にうっすらとした傷を残しながら、かすかに浮きあがる背骨が、カーテンからこぼれる朝の光線(こうせん)に照らし出され、つやを帯びている。竜の(ひれ)のように、等間隔で長くて狭い彼女の背中の上を、うねっていた。少し首を振ると、鎖骨にこぼれていた波打つ髪が、背中へ広がっている。

 俺は灰色のスウェットシャツと、スウェットパンツのルームウェアを着て、奈保美にも何かやろうと思ってクローゼットを探したが、前の女の置いていった衣服が見つかったので、そっと捨てた。

 彼女に合いそうな部屋着が見つかったので、ベッドルームに戻ると、奈保美の姿はすでになかった。玄関で音がして、向かうと奈保美はパンプスを履いている途中だった。すでに裸体は隠され、部屋に来た時のままの衣服を纏っていた。


「帰んの」


「うん」


 パンプスに手をやって上体を倒していた奈保美が起きあがり、俺を見て微笑む。眉は下ろされて、柔和(にゅうわ)な表情だったが、薄青い影を纏っているので、(はかな)げにみえた。

このひとは、何故ここでという場面で、いつも悲しそうな顔をするのだろう。想いが通じ合って、やっと叶えた夜を超えた朝だと言うのに。何故。何かの罪悪感なのか。

もう男は俺しかいないというのに。誰にも気兼(きが)ねする必要はない。またひとりになり、俺を選んでくれて、何も罪の意識を感じることなどないであろうに。

 俺のほうが、かなしくなる。

 香水も付け直したのか、彼女の近くまで来ると、ふわりと秋の香りが漂った。


「じゃあ、また来るよ。……いずれまた、ね」


 くすりとわらうと、奈保美は背を向けてドアを開け、そのまま風のように外へ出ていった。

 俺は何も言えなかった。俺の女になったのかどうかさえ、確かめられなかった。

 奈保美の橙色の残光が消えてゆくと、やっと意識がはっきりとして、深く息を吸えるようになった。

 俺の手は、無意識に彼女の背へと伸ばされていたことにやっと気づき、そっと下ろして、そのまま玄関に立ち尽くしていた。

ひやりと空気が冷えてきた。またひとりになった合図だった。この孤独には慣れていたはずなのに、妙に胸がざわつく。

スマートフォンが震えた。

 画面を見る。

奈保美からブルークリームの、ブリティッシュショートヘアの猫のイラストのスタンプが送られてきた。「よろしく」、というクレヨンで描いたようなパステルカラーの絵文字付きだった。

 俺はそれを見て吹き出した。ひとしきり乾いたわらいを漏らし、落ち着いてくると穏やかな気持ちになっていた。


「やっと奈保美さんから連絡来たわ」


 胸の中央が温められてゆくのを感じていた。ゆびさきに、彼女の肌のぬくもりが残っている。頬に感じているのと同じ、薄紅の熱を感じた。