それからの俺は、いつも通り過ごした。奈保美と再会する前にまた戻ったように、普通に生活を送った。朝起きて仕事をして、適当に飯を食って、煙草を買って、エロ漫画を描いてひとりで眠る。

 変わったのは、他の女を抱かなくなったことだった。

 奈保美の肌を知ってしまってから、もう他の女では満足できなくなった。性欲が溜まれば、ひとりで処理した。奈保美に明確に恋愛感情を感じた、十七歳の秋の日から(おこな)っていたことを、あのときよりも老いた彼女と再会して、また繰り返している。

 皮肉だな。

 薄暗い部屋のベッドの上で、奈保美を抱いた時に試したことや、試せなかったことを妄想しては、白い性液を吐く。こまかな汗を額に浮かべて、天井の暗い白を、しずかに眺めていた。

 今日の夕方、仕事がひと段落した後も抜いていた。

 奈保美から、連絡は来なかった。

 ときどき、デブ黒猫のアイコンを確認しに行ってしまう自分に、わらいがこぼれる。ブロックされているわけではないだろうが、ブロックされていても、もういい気がしていた。また諦念に包まれて、孤独に自ら(ひた)りにゆく。

 頬が熱かった。鼻の上だけが乾いている。

 ぼやけていく意識の中、右耳に、さあっという爽やかな音が聞こえた。


「雨か……」


 顔を横に向けると、カーテンの向こうから雨音が続いていた。

 ゆったりと上体を起こし、額の汗を右手の甲で拭うと、立ちあがり、カーテンを開ける。


「結構降ってんな」


 雨は、地上に落ちるほどうすく、天へ近いほどしずくの厚さを増していた。外の空気全体が、淡い青緑に染まっている。

 しずかな景色を見ていると、呼吸が荒くなっていることに気付いた。腹式呼吸をして、雨の空気を味わうと、心が落ち着いてきた。


「……買い出し行くか。夕食の材料買ってねぇし」


 冷静になると、腹が減ってくる。下げていたズボンを腰まであげ、チャックを閉めると、また平常な自分に戻ってくる感覚がする。しばし銀色のスライダーを見下ろしてから、顔を上げて財布を取りに向かった。


 外へ出ると、いっそう雨の香りが濃くなった。水と体臭、汚れた都会の薄灰(うすはい)の空気と、公園の植物の生まれたての清らかな酸素。それらすべてが混ざり合ってひとつに溶け合ったものが、豊かに巡っては離れてゆく。

 歩いているひとはまばらで、それぞれ誰のことにも興味のないような顔をして、無機質だった。俺もその中のひとりだ。


「……スーパー、どっちだっけ」


 水彩の青緑と青灰色(あおはいいろ)を、てんてんと筆でぼかしたような街を、ミッドナイトブルーの傘を、右手で真っ直ぐにさして歩く。

 横断歩道の前まで来て、ああそういえばスーパーはこの角を右に行く、と思い出す。歩き慣れた道順は、深く考えずともからだが覚えてくれている。

 何を買おうか。サーモンの刺身と、ビールでも買おうか。今日はもう簡潔に済ませたい。と、淡々とした考えを巡らせていたときだった。

 女のにおいがした。あまく刺激的だが、包容力のある、ゆたかな秋の香り。抱きしめていないと溶けて消えてしまうような。あの夜に、この腕で抱きしめた女のにおいが。

 白い線が等間隔に続く道のさきに、秋色の人影が立っていた。

 世界が落ち着いて、暗いほうへ、くらいほうへと向かってゆく、この(はざま)で、その背の高い女だけがあたたかく満ちて、穏やかなひかりを放っていた。


「奈保美……?」


 雨の断層から焦点が定まると、女の細い輪郭が、像を帯びて迫ってきた。

 奈保美は、傘をさしていなかった。磨いた銅のような色をした、ゆたかな髪を雨に濡らして、肩に羽織ったうすい白緑(びゃくろく)のカーディガンは、ぼやけて湿って、まばらに深緑に変色している。うつむいて、前髪で目元が隠され、陰っていた。両頬を伝う雨のしずくが、(あご)に到達して交わり、コンクリートに落ちてゆく。くちびるは、噛み締められて、以前よりもうすく見えていた。化粧(けしょう)をほどこしていない、素肌(すはだ)だった。雨が降り注ぎ、彼女の全身が、淡く白い燐光(りんこう)を帯びたように、浮きあがっていた。

 俺は咄嗟(とっさ)に前へ歩き出して、彼女の元へ行こうとからだを動かしたが、横断歩道がまだ赤だったことに気付き、足を止める。俺が足を止めたのと同時に、信号が青に変わった。

 奈保美が、こちらに向かって走り出して来る。

 横断歩道には、他にも数人のひとが歩いていたが、時が止まったように、動いている者は、奈保美以外うつらなかった。その他のものは全てモノクロに見えていた。

 秋の香りが、さらにゆたかさを増して迫って来る。

 目の前までやってきた奈保美が、顔をあげた。橙のゆたかな髪が、はらりと顔を中心にして広がり、細い面を花弁のように覆う。何か鬼気迫るような、泣き出しそうな表情をしていた。眉は歪み、苦しそうに寄せられて、眉間に皺を刻んでいる。それほどつらそうなのに、雨粒のついた眼鏡越しの眸だけが大きく、爛々(らんらん)と生命力を放っていた。ひかりの屈折で、琥珀の中に眠る昆虫が見えるように、雨によって無数の屈折を受けた光彩(こうさい)が、さまざまに乱れて、奈保美の瞳の中で金や緑にきらめいていた。中央の虹彩(こうさい)の焦げた茶色が、ひときわ浮きあがっている。

 その中央に、俺がいる。傘を片手に持って立ち尽くす。すっと背筋を伸ばしてうすく口を開けて、奈保美をみつめている俺が。彼女にとらえられて、一部になって溶けていた。

 奈保美の琥珀の表面から涙が盛りあがり、まばたきもせずに頬をたらたらと流れていった。大粒のしずくが、次々と降り重なり、なめらかな頬を濡らしてゆく。すでに雨に濡れている肌が、さらに熱く湿ってゆく。空気の色に染まり、青白くなっていた頬は、涙がふれたところから血色良く染まっていった。火照り、熱を帯びて熟れた林檎のように、顔全体が紅く染まった。芳醇(ほうじゅん)なかおりさえ感じさせて。

 奈保美の腕が伸びて、俺の肩を摑んだ。ふれるかふれないか、わからない圧力だったが、俺が少し動くと、肩にゆびが食い込み、強さが増した。痛みをかすかに感じた。


「春一郎くん……」


 荒い息遣(いきづか)い。もう誰かに犯されているような、掠れた声だった。

 近寄った額には、湿った汗のつぶが、こまやかに浮いている。拭ってやろうとすると、俺よりも先に雨が拭った。

 溶けたように赤く染まる林檎色の奈保美の顔を見ていると、自然に口角があがってきた。胸の内側で、意地悪な心が動き出す。このしずかな雨の中で、俺だけが激しい。


「俺とのセックスが、忘れられなかった?」


「はっ……?」


 奈保美は驚いているのか、茶化されて自然にわらってしまったのか、わからない吐息をついた。瞳をゆらし、俺に言われた言葉を噛み砕いているようだ。そして胸を震わせると、息を吐いて、からからと腹を片手で押さえてわらった。高い背が、こちらへ倒れ、俺の肩に額が置かれる。

 首すじに、奈保美のわらい声によって生まれる熱い吐息がかかり、ぞくぞくと血流が巡ってゆくのがわかる。

 奈保美が顔をあげる。真っ直ぐに目が合った。互いの網膜の中に、互いがいる。


「……彼氏と別れてきた。白状するよ。君とのセックスが、どうしても忘れられなかった」


 俺は、くちびるに湿った吐息を感じると、奈保美の後頭部を片手で摑み、斜めに顔を寄せ、くちづけた。

 しずかだった雨は大降りになり、背中を激しく濡らした。信号がふたたび赤になって、車にクラクションを鳴らされるまで、俺たちはふたりきり溶け合っていた。