落ち着いた奈保美に、ホットミルクを作ってやった。はちみつが入っている、あまいやつ。 

 奈保美はひとくち飲んで、ほうと息を吐く。すっきりとした輪郭を、けぶる白い湯気(ゆげ)が覆う。さらに血色が良くなって、背をかすかに屈め、落ち着いている様子だった。ぼんやりとした奈保美の顔は、焦点(しょうてん)がどこにも定まっておらず、なにを考えているのかわからなかった。

藍白(あいじろ)の朝日が、琥珀(こはく)の瞳に反射している。

ただ湯気で濡れたまつげが、きらきらと主張しているだけで、何も喋らなかったが、いつも通り眼鏡をかけて、口をつけて、こくこくと飲む姿は、幼子(おさなご)のようで、あいらしかった。先ほどまでの色気はどこにいったのやら。

のんびりと着た衣服は、俺があげた、新しいワンピースだった。奈保美の肌の色とほぼ変わらない、ヌードカラーでノースリーブのシンプルなもの。漫画の女性キャラクターを描く時の資料として、一度使用して、そのまま保管していた。

「これ着れば」、とクローゼットから見繕(みつくろ)って、ベッドに座る奈保美のふとももにそっと投げた。

奈保美は両手で持ちあげて顔に近付け、一拍置いて吹き出した。

 俺は無視して、クローゼットを片付けて、彼女に背を向けてリビングのフローリングの上を、掃除機(そうじき)で掃除しに行った。

 ひととおり掃除し終えたかと思って、なんとなく少し振り返ると、奈保美がホットミルクの入った灰青色(はいあおいろ)の陶器のマグカップを、両手で大切そうに持ったまま、俺のことをみつめていた。穏やかで満ち足りた微笑みを浮かべて。

 俺は瞬時に気恥ずかしくなり、奈保美から目を逸らすと、ふたたび掃除機の電源を入れて、もうすでにピカピカになっているフローリングを、もう一度掃除した。

耳が熱かった。


「このマグカップ、面白いね。飲み干すと、底に透明な青い釉薬が塗られているのがわかる」


「大学時代に、陶芸サークルに入ってたともだちが、作ってくれた」


「ずっと大事に持ってるんだ」


「……まあ、そいつ今でも時々会うし」


「昔のともだちと、ずっと仲良いんだね。あ、でも大学卒業してまだ四年とかだもんね……私なんて、大学卒業して、もう十四年くらい経ってるや」


 語尾がうすくなって消えてゆく。

 俺は気にしないふりをして、掃除機を押入れの中へ片付けた。

かたり、とちいさな音がする。

 昼の月が落ちてゆき、空の青が落ち着き始めた午後三時頃、奈保美は帰っていった。俺の部屋に来たときに着ていた服に着替えて。俺があげたノースリーブのワンピースは置いていかれた。

 俺が「やる」と言って紙バッグに折りたたんで入れてやろうとしても、奈保美は困ったような笑顔を浮かべて、受け取らなかった。


(もら)ったら、返しにこなきゃいけないから」


「いや、俺はあげるつもりだったんだけど」


 もう二度と、ここに来ることはないということを、残酷に告げられていることに、気付かないふりをして、平静を(よそお)って。


「じゃあ。ありがとうね」


__昨夜のことは、ふたりだけのひみつにしてくれ。過去の情が巡って、一度だけ、熱く燃えあがったあやまちを、消してくれ。

 伏せたまなざしと、薄くひらいたくちびるが、そう語っていた。奈保美の髪が、流れてゆく。香りが、遠ざかってゆく。俺がすきな、首すじから肩にかけての、垂直なライン。すっと伸びた首が、橙の髪のはざまから、あらわれてはまた隠れて__。

 かたりとドアが閉まる直前、俺は「今の男と別れて、俺と付き合わないか」と言えなかった。


「どうにもならねえもんな……」


 奈保美がいなくなった玄関で、俺はしばらく立ち尽くしていた。窓からこぼれるひかりが、橙を帯び始めたのを感じて、ようやく時間が長く過ぎ去ってしまったことに気付く。茫洋(ぼうよう)とした視界の中、仕事机の引き出しにしまっていた、青い煙草の箱とライターを取り出すと、掃き出し窓を開けて、ベランダへ出る。

 素足(すあし)の裏に、氷のようなつめたさを感じた。

なんとなく置いていたガジュマルの木の存在が、今はありがたかった。

 煙草を咥え、ライターで火をつける。青いともしびが、橙に変わり、暮れてゆく秋の透明な空と似合いになる。

 ちりちりと燃えて薫る、うすい白の煙が物悲しくて、俺は両腕を組んで手すりに上体を預けると、天を仰いで深く息を吸った。

 清らかな秋の空気と、汚れたけむりが交わった混沌(こんとん)としたものが、俺の肺を満たしていった。

 茜が紺に変わり、さらに水をふくんだつめたい空気が頬にふれるまで、俺はベランダで、けむりと共に漂っていた。